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   夏目漱石と『十八史略』(二)

   一

 明治三十年、熊本で三十歳の正月を迎えた漱石は、まず一応は人並みに祝賀する句を連発して子規に送っている。 

  五斗(ごと)米(まい)を餅にして喰ふ春来たり(『漱石・子規往復書簡集』二五二頁)
  臣老いぬ白髪(しらが)を染めて君が春 (同)
  馬に乗って元朝(がんちょう)の人 勲二等  (同)

 「五斗米」には注があって、「五斗の扶持米。わずかな俸給の意」とある。ここは、「陶淵明が彭澤県の令となったが、八十日にして郡の督郵が来る時に、役人から「まさに束帯して見(まみ)ゆべし」と言われ、「我豈(あに)能く五斗米の為に、腰を折りて郷里の小児に向かわんや」と歎じ、即日に印綬を解きて去る」(『十八史略』四、宋、文皇帝。『宋書』九十三、隠逸伝や梁の蕭統の「陶淵明伝」には「八十日」が無い)という程の注を補足すべきであろう。

 句意は、陶淵明のように薄給な人物ではあるが、餅を得て食べられる正月が来たなあ、というほどの意を詠じたものであり、勿論、作者自身の清貧をも含意させているのである。

 次の「臣老いぬ」の句は、斎藤実(さね)盛(もり)が白髪を黒く染めて、加賀国篠原の戦場に出たという故事(、『平家物語』巻第七「実盛最期」)を踏まえて、老臣が主君のために新春を言祝(ことほ)いでいること、縷述するまでもあるまい。物語調に作った句と言えよう。これには子規の佳作を表わす圏点が施されている。

 三首目の「馬に乗って」の句は、軍人であろうか、勲二等の勲章を付け、馬に乗って元旦の挨拶廻りをする人を詠んだもので、これは実景であったろう。また、一番、正月の芽出度い気分が横溢している句といえよう。

 このように、まずは芽出度い正月の情景を詠んだ句が並べられる中に、
桃の花 民 天子の姓を知らず(二五三頁)
という句が置かれている。これを、日本の天子は姓が無いから、民衆もその姓を知らないのだ、というように解釈しては誤りである。それでは、正月の芽出度さは表されないし、正月の連作としては異様になるからだ。

 そうではなくて、次のように解釈すべきである。

 桃花が咲いて、平和で芽出度い正月を迎えることができ、それは実は天子様が有りがたい善政を施しているお蔭なのだが、それが余りにも当然のように行われているので、民衆はその恩恵を意識していず、従って天子様の姓名をすら知ってもいないのだ、と。つまり有為の極致、無為にすら感じられる理想的な善政。それが敷き及ぼされている芽出度い世の正月を言ったものである。そうした芽出度さの象徴が「桃の花」なのだ。

  二

 この、有為の極致、無為にすら感じられる理想的な善政の有難さを詠った歌謡が『十八史略』に記されている。すなわち、巻之一、帝堯陶唐氏の、有名な鼓腹撃壌の話の部分である。堯が天下を治めること五十年、天下が治まっているのかいないのか、億兆の民は己を戴くのを願っているのかいないのか分からない。そこで変装して街に出て童謡を聞いた。曰く、

 立我蒸民  我が蒸民を立つるは
 莫匪爾極  爾(なんじ)の極に匪(あら)ざるは莫(な)し
 不識不知  識らず知らず
 順帝之則  帝の則(のり)に順う

 我ら大勢の民を存立させるのは、
 あなたの中正の徳によらないものはない。
 大勢の民は知らず知らずのうちに、
 帝のやり方に従っている。

 これは、民衆が無意識のうちに帝の善政に化していることを表わしている歌謡だ。
 また、老人がおり、食を含んで腹を鼓(う)ち、壌(つち)を撃(う)って歌うに、
  日出而作  日出でて作(な)し
  日入而息  日入りて息(いこ)う
  鑿井而飲  井を鑿(うが)ちて飲み
  畊田而食  田を畊(たがや)して食(くら)う
  帝力何有於我哉 帝の力 何ぞ我に有らんや

  日が昇れば働き、
  日が沈めば休む。
  井戸を掘って水を飲み
  田を耕して食べる。
  帝の恩恵がどうして私に加えられていようか。

 民衆は自然に従って生活でき、そうした平和な生活は実は善政を布く尭の恩恵によるのであるが、あまりにも自然にそれが行われているので、帝の存在を意識しない。つまり、有為の極致、無為にすら感じられる理想的な善政が行われていることを語っているのである。漱石の「民 天子の姓を知らず」とは、実に右の二つの歌謡に表わされた、善政の極致がもたらす正月の芽出度さを言っているのである。
明治三十年の二月にも、漱石は、

  明天子 上にある野の長閑(のどか)なる(二五八頁)
という句を作っているが、これも聡明な天子がいます世の太平を詠じたもので、右の句に通じるものがある。

 以上の二句は、古代中国の伝説を踏まえた、理想的な世の様を表したものではあるが、この頃の漱石は、明治天皇の治世をもそれに近い物と認識していたかも知れない。


   平成三十一年三月二十五日


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