全体表示

[ リスト ]

さらに梁川星巌宛の七月二十四日頃、松陰書簡に、

右藩僧(月性)、慷慨、義を好み、天下を以て己が憂と為す者、僕相与すること甚だ深し。僕大罪の
余、痛く自ら閉鎖して敢へて知音に接せず、独り此の僧或は時に闖入す。関吏亦一時の権に従はざるを
得ざるなり。間々、談、先生に及ぶ。僕輙ち「転海書来已十年」の句を以て対ふ。僧点頭すること之れ
を久しうす。此の次、僧、事に因りて京に上り、遂に将に先生の門に踵らんとす、緩晤を賜はらんこと
僕の願なり。僕の同罪生重輔病亡す。願はくは一章を投じて其の魂を慰められんことを。佐久間修理、
近況益々困しむ、先生之れを審らかにするや否や。委曲は僧の口述に付す。

とあるのは、次のことをいう。出牢後逼塞している松陰を月性が訪れて来て、見張りの役人の存在など一向構わずに上がり込み、談が星巌に及ぶと、松陰が星巌の詩句「転海書来りて已に十年」( 嘉永六年のペリー渡来を聞いて作った星巌の七絶「美理哥夷船の相州浦賀港に至るを聞き慨然として作有り。時に癸丑六月なり」の結句。弘化元年、蘭人が書をもたらして警告して以来十年にもなるのに海防の策のないのを嘆いたもの)を示し、月性が共感する。彼は上京するので星巌に紹介するが、その際、松陰とともに密航を図った金子重輔の冤魂を慰める詩を月性に渡してくれないか、と。

安政三年八月九日には、松陰が『月性乙卯稿』の評を終えていることは、『野山獄読書記』に「八月、『月性乙卯稿』評閲了」とあることで知られる。安政二年中の作を収めたものを評閲したのであるが、これは後の『清狂詩鈔』と内容を同じくするものと考えられる。

以上の諸例を見ると、いかに松陰と月性が親密に付き合い、心を許し合っていたか、換言すれば、政論の交渉のみならず、詩文の交渉にも及んでいたことが知られるのである。

ところが、安政五年五月十日、月性は脚気が昂じて亡くなる。享年四十二。
五月十五日、松陰は星巌に月性の死を報じ、「方外の一義人を失い、弊藩の一衰に御座候」と告げる。星巌もまた慟哭し、二絶句を賦して、これを弔したというが、松陰の落胆と悲哀は容易に想像できる。五月十七日にも、松陰は荻野時行に書を送り、月性の死を報じて、「同志中大慟」と記しているほどである。


.
buk*u*007
buk*u*007
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

過去の記事一覧

1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
10/31まで秋の行楽キャンペーン実施中

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事