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 既に江戸に入っていた松陰は、嘉永四年五月二十四日、山鹿素水・佐久間修理・宮部鼎蔵を訪う(『辛亥日記』。そして、素水には入門している。

 五月二十七日付け玉木文之進宛書簡に、

山鹿素水へ入門仕る。(『武教全書』は何分縦横自在に解き申し候)彼の人、文筆の拙は此の上なく候処、一種の才物にて時名を得候人なり。随分取るべき事も之れあるべく、著述も甚だ多し。中にも海備全策は艮齋翁の序御座候。至つて誉めて之れあり、艮齋・古賀など、当時の兵家には其の右に出づるものなしと称され候。如何様(いかさま)、左様(さよう)之れあるべく候。方今、江都文学・兵学の事、三等に分れ居り候やに相見え候。一は林家・佐藤一斎等は至つて兵事をいう事を忌み、殊に西洋辺の事ども申し候えば老仏の害よりも甚しとやら申さるる由。二は安積艮斎・山鹿素水等、西洋事には強いて取るべき事はなし、只だ防禦の論は之れなくてはと鍛錬す。三は古賀謹一郎・佐久間修理(真田信濃守様藩人、田上宇平太が紹介にて逢い申し候。尤も古賀・佐久間、知音にては之れ無し)は、西洋の事、発明精覈(せいかく)、取るべき事多しとて頻りに研究す。矩方按ずるに一の説は勿論取るに足らず、二、三の説を湊合して習練仕り候ば、少々面目を開く事之れあるべきかと存じ奉り候.

という。

 右文は、江戸の当時の学者の評判記ともいうべきものだ。まず、兵学の師で
ある山鹿素水に就いては、『武教全書』は読みこなしているが、文章は下手だ、と言う。この場合の文章とは、漢文のことであろう。しかし、兵学に関しては、安積艮斎も古賀茶渓も、素水を当今の大家と認めているのである。

 ついで松蔭は、当今の江戸の学問を三派に分類する。一は、林家や佐藤一斎などの官学派であり、旧来の漢学を固守して、西洋事情を研究することを忌み嫌い、時勢に対応しようとしない。二は、安積や山鹿などで、西洋を取り入れようとはしないが、その侵略には防御の必要性を感じて研究している派。三は、古賀茶渓や佐久間象山などの洋学派である。そして松陰自身は、二の兵学派―もっとも艮斎を兵学派と称するのは、あまり妥当ではないが―と、三の洋学派とを折衷調和して研究するのが今後の進み方であろう、と結論する。勿論、松蔭は漢学の基礎をも十分に備えているのだから、これは当時に在っては適切な態度と言えよう。

なお、注目すべきことは、五月二十四日の時点で松蔭が佐久間象山と知り合っていた事である。後述するように、二年後には松蔭は象山に渡米など重大な事をも相談するような仲になるが、この時には「知音」ではないと、少しく距離感を抱いていた。彼への入門は、少しく遅れて七月二十日の事(『辛亥日記』)である。


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