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嘉永六年十月二十七日、松陰が長崎に達したところ、露艦は既に去っており、彼の海外渡航の目的は達せられなかった。
十一月一日、やむなく松陰は、この日、長崎を発し、
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十二月二十七日、江戸に到着する。
この年末から翌安政元年の正月の交、松陰が象山を訪れて、プチャーチンの船で渡航する計画が挫折したことを報告したことは、例の象山の山寺常山及び三村晴山宛書簡に、次のように述べられている。
去年の暮(嘉永六年)が押詰った頃であったろうか、この春初(安政元年正月)であったろうか覚えていないが、吉田生が、飄然として宅へ参ったので、
「漂流も終にできなかったか」
と言って、笑うと、吉田生が言うには、
「このたびの旅行は何事も心に任せず、その上、長州屋敷にても浦賀辺御固めの命令を受けられたよしでありますから、その為めに差向き力を尽くします事もあろうと存じますので、例の義(海外渡航)は暫く思い止りたいと存じます」
と言って、出立の節、用だててやった四両の金を封のまゝ返し戻しました。
この記事から二つの事が引き出せる。一は、後に述べる長州藩のホウイッツル砲などの鋳造に向けて松陰が動き出していることである。つまり、浦賀辺を警備するためには大砲が必要になるから、この機会に乗じて松陰が藩の有志の者に働きかけて、その鋳造を実現させようと考えていることが推測できるのである。二は、嘉永六年九月十八日に象山に借りた金が四両であり、それを律義にも返却したことが分かることである。
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