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嘉永六年九月十八日、晴。松蔭は、長崎に向けて旅立つ。以下、『長崎紀
行』などに拠って記す。

この旅には深密で遠大な謀略がある。象山が当初これを勧め、友人の義所(鳥山新三郎)・長取(熊本藩士永鳥三平)・圭木(桂小五郎)もまた賛成した。その他の親友たちは一人もこの事を知る者がない。朝、桶街の寓居を発し、象山のもとに立ち寄って別れを告げ、品川の駅に出る。義所・長取が送って行く。圭木を待ったがやって来ず、悵然たること之れを久しうするが、きっぱりと袂を振つて去る。
 
一詩あり、象山師及び義所・長取・圭木に留め贈る。云わく。

名利無心世上求  名利 世上に求むるに心なく
一生不顧被人尤  一生 人に尤(とが)めらるるを顧みず
独悲駑駘報恩計  独り悲しむ 駑駘(どたい) 報恩の計
詭遇常為君父憂  詭遇(きぐう)して 常に君父(くんぷ)の憂(うれい)となるを

〇韻字 求・尤・憂(下平声十一尤)

〇詭遇 正しい方法に拠らずに、出世し富を得ること。『孟子』縢(とうの)文(ぶん)公(こう)下に「吾之が為に我が馳駆を範とするも、終日一も獲ず、之が為に詭遇すれば、一朝にして十を獲たり」と。ここでは、長崎に行き、ロシア使節プチャーチンの船に同乗して海外に雄飛しようとする行為を指す。

名誉や利益を世間に求める気は無い。
この人生を人に咎められようと構わない。
ただ悲しいことは、駑馬(どば)のような劣った才能で恩返ししようとするが、
正道を踏まないので、いつも父兄にかえって心配をかけることだ。
 松陰は自身でもそう言い、他からも狂愚の人のように思われているが、実は案外と自己を客観視できる人であり、自分の世人とは異なる性癖を認識できている人物である。この詩の転結句には、そうした処がよく表されている。プチャーチンの船に同乗して海外に赴くなどという行為は、国禁を犯すことであるから、父兄に迷惑を掛けることは自分でもよく承知していることであるが、先覚者である彼には、只今の国際的状況からは、そうした行動が奇矯に見えても採らざるを得ぬものだ、と考えられるのである。已むに已まれぬ行動なのだ。そうした心的経緯を、この詩は詠じているのである。

 前述したように、嘉永六年九月十五日付け杉梅太郎宛書簡に、松陰の最高の
象山評価を見ることができる。そうとすると、次の『幽囚録』(『全集』第二巻)
に見られるように象山に最も高い程度で私淑するようになるのも、やはりこの頃の
事であったろう。

余、平象山に師事し、深く其の持論に服し、事ごとに決を取る。象山も亦善視し、常に励まして曰く、
「士は過(あやま)ち無きを貴(たっと)しと為(せ)ず、過ちを改むるを貴しと為す。善く過ちを改むるは固より貴しと為すも、善く過ちを償うを尤も貴しと為す。国家多事の際、能く為し難きの事を為し、能く立て難きの功を立つるは、過ちを償うの大なるものなり」と。象山に購艦の説あるに及んで、余 意に期すらく、官或いは斯の事あらば、自ら請うて役に従い、万国の形勢情実を察観せん、亦過ちを償い恩に報ずるの一端なりと。而して象山の説、遂に行われず。

明敏緻密な砲術家であり兵学者でもある象山は、また直情径行の熱血漢でもあり、それ故に失敗も少なくなかったであろうが、その点で自分と似た所のある松陰を暖かく励ます。具体的にいえば、『論語』学而の「過てば則ち改むるに憚ること勿れ」に基づいて、亡命脱藩の過ちを犯した松陰を慰撫し、更に歩を進めて、過ちを償うために立て難きの功を立てることを勧める。これに発憤した松陰は、海外万国の形勢情実を観察することこそ過ちを償う方法だ、と考えるようになる。つまり象山は、嘉永六年九月中旬頃に松陰に海外視察の動機付けを行い、松陰またこれに答えて国禁を破る大望を抱くようになったのであろう。

松蔭の嘉永六年七月二十八日付け杉梅太郎宛書簡には、

  明春は一戦に相定まり申し候。我が昇平柔懦(しょうへいじゅうだ)の士民を以て彼の猖獗狡獪 (しょ うけつこうかい)
  の賊と戦う事、兵未だ接せずして勝敗已に判然なり。

とあって、この時には松陰は、近く米国との戦いが始まろうが、勝敗は眼に見えている、と考えていた。そこで同日頃に「将及私言」を完成させ、藩邸に呈し藩主の閲覧に供した。これは、「大義」「聴政」「納諫」「砲銃」「船艦」「馬法」「至誠」に分かって、時勢への応急策を論じたものである。

 松陰は、同じ八月二日には「急務條議」というものを作り、藩邸に提出したが、これは「将及私言」よりも実際的な提案で、水戸の徳川斉昭や藤田東湖、肥後潘の長岡内膳などと結び、また、佐久間象山・藤森天山・羽倉簡堂・古賀茶渓・桜任蔵・斎藤弥九郎・松浦竹四郎・安井息軒・塩谷宕陰・杉田成卿の如き人材と知り合い、西洋の砲術・兵法を学び、六ポンドカノン(砲)・十五ドイームホウイツヲル・二十四ポンドカノン等の砲を備え、フレガット船などを購入し、硝石(しょうせき)(黒色火薬の主成分)を製造することなどを提案したものである。

 八月十五日付け杉梅太郎宛書簡には、

  佐久間修理、声名籍甚に御座候処、其の本藩より嫉まれ御国へ返され候命下り候処、水府公・阿部公、其の他有志の人々、河路左衛門尉・羽倉外記・水府の義党等、深く是れを惜しみ、「当今、此の人なくば何人か西洋砲銃の事に任じ申すべくや、国家の武備も是れが為め欠闕(けつけつ)する」との論にて、遂に阿部より真田公へ相談の上、江戸へ留まることに相成り候。此れを以て天下の公論、御察知願ひ奉り候。

と、佐久間象山が松代藩内の嫉みに遭って帰国されそうなところ、前水戸藩主
徳川斉昭・老中阿部正弘や川路聖謨(としあきら)・羽倉簡堂などの応援を得て、江戸に踏
み止まることになった事情を報告している。

六月十日、江戸に戻った松陰は、六月十六日、宮部鼎蔵に書簡を書いているが、それに、

佐久間修理、羽倉外記(簡堂)、頻りに幕吏へ苦心せしよし、然れども遂に修理を用いず。其の藩侯の為めには大いに用をなしたる趣。僕、日夜、其の家に至り、其の詳をきく、中々長鬚生(佐久間象山)も慷慨を起し申し候。僕、十日を以て江戸に帰る。

という。象山や羽倉簡堂が幕吏へ献策をしているが、受け入れられないのである。だが、象山は藩主の真田侯にとっては大いに役立っているのである。松陰は日々、象山が顎鬚をしごきながら慷慨するのを聞いていた。

 六月二十日、杉梅太郎宛書簡に、

 佐久間入塾の事、冗費多くして実効之れなき段、近沢生(啓蔵)など頻りに止め申し候。已に近沢も入塾し、未だ両月ならざるに退塾仕り、甚だ不平の條々歴挙仕り候事に御座候。夫れ故、先づかよひで参り候積りなり。

とあり、象山の塾では金ばかりがかかり、実効が少ないと近沢から聞いて、松
陰は塾に滞在しないで通いで済ます形を採っている。つまり、今までは通いの
門人であったのであり、塾に住み込みの門人ではなかった。そこで、住み込み
の入塾を考えてみたのだが、述べたような実情なので、通いのままにしてお
く、というのである。

 だが、象山の見識に感心していることは、同じ書簡に、

  佐久間云ふ、「西洋医云はく、病に近源あり、遠源あり。今疾あり、平日血脈粘着する如きは遠源なり、此の頃の暑氣にきけ疾起る如きは近源なりと。外夷の我が邦を軽侮する、何ぞ亦此れに異らんや。蓋(けだ)し吾れ本と巨艦なし、夷 我れを侮るの遠源なり。今、夷来たる、砲台 法を失ひ、砲門 備はらず、凡百の処置、皆其の当を失ふ、是れ夷我れを侮るの近源なり。夷の我れを侮らざらんを欲せば、宜しく意を此に注ぐべし」と。

とも書き込んでいることに窺われる。象山の分析によれば、我が国には巨艦が
無く、砲台および砲門が不足しているのが米国に侮られる基因だ、というのである。

 嘉永五年は、松陰は事情あって萩に幽閉されており、象山と会える機会は無かった。

嘉永六年六月三日、ようやく江戸に出て来れた松蔭は、久しぶりに佐久間修理(象山)を訪う。

   
 嘉永六年六月四日、松陰は、ペリーが乗った米艦が浦賀に来ったのを聞き、直ちに往って事情を探る。その時期の松蔭の消息を『癸丑遊歴日録』に見ると、次の通りだ。

六月四日、松陰が桜田邸に至り、道家龍助に逢うと、
「浦賀に米国の黒船がやって来た」
という。
直ちに佐久間象山の塾に行くと、書生が、
「皆、今朝、浦賀に出かけました」
と言う。

 松陰は、即座に瀬能吉次郎(藩の役人。松陰の父の友人)に宛てて、

浦賀へ異船来りたる由に付き、私 只今より夜船にて参り申し候。海陸共に路留(みちどめ)にも相成るべくやの風聞にて、心甚だ急ぎ、飛ぶが如し。

とだけ書き付けて、英気勃勃、鉄砲(てっぽう)洲(ず)(東京都中央区明石町)に至り、舟を雇った。

 だが、風がまだ生ぜず、船を出すことができない。旅店に憩うこと数刻、寅時(午前四時頃)に、舟を出した。

 舟行すること一里ばかり、船(ふな)行灯(あんどん)に「会」という字を書き付けている舟が、櫓(やぐら)をキュッキュッと鳴らしてやって来る。たぶん会津の、房総に置いてある陣屋の者が、事を江戸に知らせに行くのであろう。

 五日、夜が明けたが、風も潮も逆であって、巳時(午前十時頃)にようやく品川に達する事ができた。そこで上陸して疾歩する。砲声が聞こえて来る。静かにこれを聴くと、大森で砲技を演ずる音であった。

夜四ツ時(午後十時頃)、浦賀に着いた。

 六日の朝、高処に登り、「賊船」の様子を窺う。四艘(二艘は蒸気船、砲二十門余、船長四十間ばかり、二艘はコルベット<旧式の中型巡洋艦>、砲二十六門、長さ二十四・五間ばかり)が陸を離れること十町以内の所に繋泊し、各船の間は五町程隔たっている。

 ところが、我が方の台場は、筒数も甚だ少なくて、いたずらに切歯するばかりだ。その上、聞く所によれば、賊船の方の申し分では、
「明後日、昼九つ時(午後十二時頃)までに願い筋の事が許されなければ、船砲を打ち出だす」
と申し出た、という事だ。

 小泉屋には佐久間象山や塾生たち、その外、好事の輩が多く集まり、議論紛々である。浜田生や近沢(啓蔵。象山の塾生)も来ている。

「この度の事、中々容易に相済み申すまじく、いずれ交兵に及ぶことであろうか。 しかし船も砲も敵せず、 勝算は甚だ少ない」

という事で、御奉行その外、下曾禰氏(金三郎。砲術家)なども、

「夷人の手に首を渡すよりは切腹した方が良い」

と、頻りに寺の掃除を申し付けている。

 佐久間は慷慨し、
「事、ここに及ぶは知れたこと故、先年より船と砲との事をやかましく申したるに聞かれず。今は陸戦にて手詰(てづめ)の勝負の外、手段は無い」

と言う。

 この件に就いて松蔭は次のように述べている。

何分、太平を頼み、余り腹つづみを打っておると、このような事態に至り、大狼狽するのは憐むべき事だ。その上、外夷へ対し面目を失う事、これに過ぐるものは無い。しかし此れにて日本武士が、一へこ(褌)しめる機会が来たのだ。大いに慶賀すべきだ。(六月六日 長州藩砲術家の道家龍助宛書簡)


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