|
佩川と千住の詩の韻は、横・名・盟、また腸・洋というものであり、ともに下平声七陽の韻を用いている。そこで松陰も同じ下平声七陽の韻字を用いて、次の長詩を賦し、佩川や千住たちに示した。
榮(えい)城(じょう)にて佩川先生及び千住・迎二君の席上示さるる韻を用いて聊か長句を賦し、接見の諸君に呈す
踏破九州跡縦横 踏み破る 九州 跡(あと)縦横(じゅうおう)
久欽大邦多士名 久しく欽(よろこ)ぶ 大邦(たいほう) 多士(たし)の名(な)
豈図瓢然漫遊客 豈(あに)に図(はか)らんや 瓢然(ひょうぜん)たる漫遊の客
温々得結詩酒盟 温々(おんおん)に 詩酒の盟(めい)を結ぶを得んとは
看来天涯如比隣 看(み)来(きた)れば 天涯(てんがい)も比隣(ひりん)の如し
一見若旧語肺腸 一見(いっけん) 旧(きゅう)のごとく 肺(はい)腸(ちょう)を語る
馭戎固辺策娓々 戎(えびす)を馭(ぎょ)し 辺(へん)を固(かた)むる 策は娓々(びび)たるも
学海波涛嘆茫洋 学海の波涛は 茫洋(ぼうよう)なるを嘆ず
善戦不陳非易事 善戦して 陳(の)べざるは 易(やす)き事に非ず
書生漫説趙括兵 書生 漫(みだ)りに説く 趙括(ちょうかつ)の兵
方今海警切蒿目 方今 海警 切(しき)りに目を蒿(きわ)むるも
劣才訥辯終何成 劣才 訥辯(どつべん) 終(つい)に何をか成さん
却思他日帰郷日 却(かえ)つて思う 他日(たじつ) 郷に帰るの日
青燈夜雨説榮城 青燈 夜雨 榮(えい)城(じょう)を説くを
私は、九州を縦横に旅してまいりましたが、
長い間、大藩に立派な人材が揃っていることを慕っておりました。
思いきや、ふらりと当てもない旅をしてきた私が、
先生方から温かくも詩酒の交わりを結んでもらえますとは。
見廻ってみると天の果ても近隣のように感じられ、
初対面の方も古馴染みのようで、心底を語ることができます。
夷狄を防ぎ辺境を警固する策は倦まずに論ぜますが、
学問の世界は海のように広大で、究めることの難しさを嘆息します。
良く戦ってみずから誇らない事は容易なことではなく、
書生っぽの私は、いたずらに趙括のように畳水練の戦略を述べるだけです。
当今、海辺の警備には目をそばだてる事が多いのですが、
才薄く口下手な私がいったい何を為せるでしょうか。
さて思うことには、後日、国に帰りましたなら、
雨が降る夜、青白く輝く灯火のもとで佐賀の思い出を語ることでしょう。
〇韻字 横・名・盟・腸・洋・兵・成・城(下平声八庚)
〇天涯如比隣 唐の王勃(ぼつ)の「杜少府の任に蜀州に之(ゆ)くを送る」の内の句。〇趙括中国の戦国時代、趙の人.少時より兵書を好んで学んだが慢心してその兵法
を談ずることが軽率であった。その父が言うには、趙の軍を破るものは必ず括
であろうと。果して後年、秦と戦って大敗して死んだ(『史記』廉頗藺相如列
傳)。趙括の兵を説くとは兵学を空論するをいう。ここは松陰自ら謙遜して書
生の空論といったもの。〇夜雨 唐の李商隱の「何(い)当(つ)か共に西窓の燭を翦(き)り、
却って話さん巴山(はざん)夜雨の時」(「夜雨 北に寄す」)を転用した。
前述したように、この席での話題は、もっぱら海防論に在ったようである。残念なことには、松陰は佩川の人物などに就いて殆ど語っていないので、その印象も知られない。
ただし、この時、佩川に文章法を問う漢牘「佩川先生に与う」を呈示したのであり、それは『日記』西遊詩文に収められている。その趣旨は、自分は家業を襲うて兵法を講じ、当初、執筆作文は実用に効なしという思いをなした、すべての学者が、因循苟且で旧套を墨守するばかりでは、やはり必要がないが、苟くも論議辨明に際しては、文章が必須であるのを察した、しかし軍学者には文章を巧にする者が稀である、そこで作文の方法を聞きたいのだが、序記論説を先にすべきか、賦辞賛銘という韻語は初学者が重んずべきものか、乎哉矣焉の助字は、初学者が精覈に講究すべきか、その法を示して教を垂れんことを請う、と述べたものである。
|