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順調に行けば十月中に勉誠社から刊行される予定の『朝彦親王伝』の序です。本書は四百字詰めの原稿用紙にして九百枚を超える量ですが、すべて史料に基づき、分かり易く書いた積りですので、是非とも御一覧のほど。かけた時間は三年を超えます。難渋しましたが、とにかく幕末史と親王の関係を総覧できるか、と思います。人名索引も付けます。
『朝彦親王伝』序 徳田 武
朝彦親王は、幕末・維新という、日本史上の最大の激動期において、孝明天皇を支えて朝廷の発言力を大きく高めた人である。
安政四年(一八五七)、江戸幕府が米国使節ペルリの要求に屈して通商条約を締結しようとした時、朝廷は敢然としてこれを拒否した。それには親王の意見が強く反映されていた。親王は、「今大塔宮」と称されて、尊皇攘夷派の期待を一身に受けた。
業を煮やした井伊大老は、安政の大獄を発動して彼らを弾圧し、親王も幽閉の憂き目に甘んじた。万延元年(一八六〇)三月、大老が暗殺され、やがて幽閉から解かれた親王は、妹の和宮を徳川家茂に嫁がせた孝明天皇の意を受けて、幕府と融和する公武合体路線に転じ、国事御用掛りとなって、朝政を動かした。
文久三年(一八六三)、長州の過激な攘夷派が天皇の意に反して大和親征を意図すると、八月十八日、公武合体派によるクーデターを起し、三条実美ら七卿を長州へ追放した。その策謀力と度胸の良さには、英雄的なものさえ感じる。
元治元年(一八六四)、長州が巻き返しを図り、京都に攻めのぼり、いわゆる禁門の変が生ずると、将軍後見職たる徳川慶喜や京都守護職松平容保、また薩摩藩と協力して、天皇や御所を守り、長州を撃退した。
慶応元年(一八六五)・二年に亘る両次の長州征伐には、何か征長に煮え切らない慶喜を督励するが、薩摩藩が長州と結んで討幕の気運が強まり、家茂が病死し、ついで終始一貫して支えて来た孝明天皇も亡くなると、先帝の遺志をまもるべく慶喜や容保に協力するが、元来、隠逸の傾向があった親王は、次第に第一線から退く。
やがて、慶応三年後半、長洲に討幕の密勅が下り、慶喜が大政を奉還し、明治元年(一八六八)、戊辰戦争が起こって、最後の幕府派会津藩を新政府が攻撃する前夜、親王が佐幕派に戴かれる事に怯えた岩倉具視や三条実美は、閑居していた親王を、不軌を謀ると口実を付けて広島藩に幽閉する。岩倉や三条を怯えさせるほどの政治力を備えていたからである。
明治三年に幽閉を解かれ、名誉回復した親王は、伊勢神宮の祭主となり、皇典調査に尽力し、皇學館を創設する。そのように激動の期を生き抜いて、明治二十四年、六十八歳で大往生する。大勢の人間が若くして死んだ変革期をかくもしたたかに生きた親王は、怪物とさえ形容できよう。
このように維新史を大きく動かした親王は、その割に名が知られていない。なぜだろうか。歴史は勝者によって作られる。維新史は、勝者である薩長によって作られた。薩長と結び、明治天皇を戴いた岩倉具視と三条実美は、当然、大きくクローズアップされる。岩倉の如きは、お札にも印刷される有名人である。しかし、彼らの政敵とも言える親王は、大きくは取り上げられなかった。会津藩出身者が明治において陽光を浴びなかった事情に通ずるものがある。
しかし、親王ほど孝明天皇に深く信頼され、その意を体して強く支えた人は、他にいない。親王は、国内戦争を起したくないという天皇の意向に沿って、ときには策謀も発揮したから敵方には憎まれた。だが、その真意は、常に国を平和に守る、という点に在った。その方策が敵方からすれば違うという事だった。この事は、松平容保に就いても同じ事が言えよう。彼らは、その意味で真の尊皇者であった。岩倉や三条は、王政を復古する、という目的は持っていたが、必ずしも孝明天皇の意向に沿おうとしない。偽勅を発して天皇を嘆かせている事が多い。人間としての孝明天皇を大切にしたとは言えない所がある。言わば、親王は人間としての天皇を大切に守った。これに対し、岩倉や三条は、機関としての天皇制を打ち立てようとした、と言えるだろう。薩長が勝利し、幕府が負けた所から、天皇機関論者が歴史の日の目を浴び、尊皇者が蔭に追い遣られたのである。しかし、真に客観的な事実で構成される歴史を書きなおそうとするならば、このような陰に追い遣られた者の意図や心情をも材料に加える必要がある。況や親王のように、どのような日本史年表にも必ず記載されるような大きな事件を動かした人物である場合には、なおさらその必要がある。
親王には右のような次第で未だ本格的な伝記が現れていない。私は、親王は何故に、かくも孝明天皇を支え、また、そのための政治力を備えていたのか、そうした理由を探りたくて、親王の維新までの伝記をともかく構成してみた。
当初、私が親王の存在に着目したのは、元治元年までの維新史を記述した、馬場文英の木活字本『元治夢物語』を校訂注釈し、岩波文庫として刊行した時からである。八月十八日の政変や禁門の変のような重大事件の際に親王が目立つのである。それには人名索引が付されているが、それで見ても親王のこの書における比重が大きなものである事が分かる。かくて親王に着目した私は、徳富蘇峰の『維新回天史の一面』が親王の伝記を意図した書である事を知った。だが、それは、安政六年までで終ってしまっていて、その後の最も知りたい部分が書かれていない。また、奈良奉行を勤めた川路聖謨と一乗院時代の若き親王との交渉が全く取り上げられていない。私は、親王と聖謨との交渉が聖謨伝の方でもあまり詳しくは記されていないので、当初は聖謨の日記を利用して、この両人の交渉を書き、それで止めようと思っていたのであるが、親王のキャラクターに惹かれて、それだけでは済まなくなってしまった。東久世通禧の『竹亭回顧録 維新前後』第十一「青蓮院の宮」に親王の魅力的な挿話があるのを読んで、親王が智謀を身に付け、孝明天皇を深く支えるようになった理由は、その数奇な生い立ちに在ると思うようになり、それを親王の行動の基底に在るものと観て、親王の伝記を考えよう、と思うようになった。
だが、維新史は周知のように複雑だし、宮廷の習俗は難しい。『孝明天皇紀』や『朝彦親王日記』に収まる皇族・公家の日記や書簡は多く変体漢文で記されており、それは一応訓読できるにしても、ともに当時の事情をよく知らないと、具体的にはどのような事を言っているのやら解し難い事が多く、難渋した。こうした文書の解読は、史家によっても未だ十分には成されていないのである。そうした困難に立ち向かう私に手引きの一つになったものが渋沢栄一の『徳川慶喜公伝』である。渋沢一人の名になっているが、錯綜した維新史を通観する仕事は、一個人の手で容易にできるものではない。渋沢は、財力に物言わせて、江間政発のような隠れた有識者を動員して、膨大な史料を駆使させ、時に自分の回顧を加えて、この書を完成させたので、さればこそ、この書は、漢文の学殖に支えられた見事な文体で、正確に事実が記されている。これを参照して維新史の細かい事実を確認しながら、様々な事件を動かしていく親王の消息を明らかにしようと意図したのである。だが、大きな動乱を押さえながら個人の細かい消息を明らかにし、個人が歴史にどのように関わっていたのかを把握する作業は難事で、それがどこまで成功したかは、私にも分からない。読者の判定を待つばかりである。
本書には、読み易さを考慮して、小説風に記した所も少なくないが、すべて史料に基づいていて、みだりに創作したものではない。
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