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漱石が明治二十九年三月五日付けで正岡子規に宛てた句稿(和田茂樹編『漱石・子規往復書簡集』岩波文庫、二〇五頁)の中に、
壇築(つき)て北斗祭るや夜の霜
という句がある。
これには注が施されていないが、私にはすぐに思い当たるものがある。
『三国志演義』第四十九回「七星壇諸葛祭風」、江戸時代の翻訳である『通俗三国志』では巻二十「七星壇孔明祈風」に記されている、諸葛亮、字は孔明の話である。
それは、呉の孫権や周瑜らが長江の赤壁で曹操の率いる魏の大船団と対戦するのに際して、長江を挿んで東南に位置する周瑜は西北に停泊している大船団を火攻する計を考えつくが、十月には東南の風が吹かないので、折から呉を訪問していた諸葛亮が東南の風を吹かせることを提案し、祭壇を作って祈祷すると、東南の風が吹いて、大船団を焼き滅ぼす、という話である。面白い場面が多い『三国志演義』の内でも最も面白い見せ場として有名である。
『通俗』では、この時の諸葛亮の提言を、
孔明が曰、「某 不才に候へども、昔し異人に逢て、八門遁甲の天書を伝授せり。上は風を呼び、雨を喚び、鬼を使ひ、神を役し、中は陣を布き兵を用ひ、民を安んじ国を定めつべく、下は吉に趣いて.凶を避け、身を全して、害を逃るべし。都督もし東南の風を望み給はゞ、南屏山に壇を築いて、之を七星壇と号し、高さ九尺にして三重に構へ、百二十人の士卒を択んで、手毎(ごと)に旗を執て、四面を遶らしめ、某 壇に上って祀を成さば、三日三夜が間、東南の大風を借らん」。
と訳している。壇を築くことを言うのである。「七星」は、北斗七星を言うのである。
ついで、彼が祈祷する場面は、
已に十一月二十日、甲子の吉日に至りしかば、孔明 斎戒沐浴して身を清め、道服を披(き)て髪をさばき、跣(すあし)にして壇の前に来り、魯肅に申しけるは、「御辺は本陣に行いて、周瑜と兵を調給へ。某いま祭をなす、若(もし)東南の風吹起らば、早々に攻かゝり給ふべし」とて、已に壇に登りければ、魯肅は馬に乗て回りけり。孔明は護衛の士卒を戒め、「各々方位を離れて、頭を交へ、物がたりすべからず。何(いか)なる怪き事ありとも驚き躁ぐこと有るべからず。法に背くものは、立所に斬らん」と云つて、緩歩して壇に登り、香を焼き、水を注いで天を祭り、暫く祝して
と訳されている。天を祀ることが明記されているのである。
次の図は、名古屋の蓬左文庫に蔵されている『李卓吾先生批評 三国志』(拙編『対訳 中国歴史小説選集』第三巻第一冊)における第四十九回の口絵であるが、「三重」の壇上に立った諸葛亮が侍童らを従がえて天を祀る場面が描かれている。(図は省略)
さらに、漱石句の中七字の「北斗祭る」に就いていえば、同じく『演義』の第百三回(『通俗』では巻四十三)「孔明秋夜祭北斗」では、自分の寿命が旦夕に逼っていることを悟った諸葛亮が北斗に祈って寿命を伸ばそうとしたことが描かれている。そのような話をも参照して、北斗を祭るという設定にしたものと考えられる。なお、下五字の「夜の霜」は、祈る日が旧暦の「十一月二十日」という寒い時期であることを踏まえて、かく言ったものであろう。
こうして、漱石の句が『三国志演義』(『通俗三国志』)における諸葛亮の祭風ないしは祈風の話を詠んだものであることは、明らかになったであろう。
そこで、句意を説明すれば、霜が降りる寒い夜に、諸葛亮は七星壇を築かせて北斗星に風が吹くよう祈ったことだ、というものになる。
この男性的でドラマティックな句に就いて、子規は〇印を与え、佳作と認めているが、しかし、「下五「剣の霜」」と修正を迫っている。
壇築(つき)て北斗祭るや剣の霜
とせよ、というのである。
子規がそのように改変したのは、空想に拠ったとも思えるが、やはり『演義』(『通俗』)で、孔明の「後ろの二人は、宝剣を左に捧げ」と描写されていることを取り入れて、よりドラマティックにした、と考えるべきであろう。
漱石にしろ子規にしろ、当時盛行していた『通俗三国志』は少年時代に読んでいたのであろうが、また当時の東京などでは講釈場が栄えていて、三国志物もよく行われる演目であったから、そのような場所で聴いて、記憶を新たにしたような事もあったかもしれない。漱石がやはりこの時の句稿に書き付けている句には、
春の夜を辻講釈にふかしける
というものがある。彼の講釈好きを表わした句といえる。
とにかく明治二十九年頃の漱石は、男性的でドラマティック
な句を評価する子規の好みに合わせて、三国志物の句を作った節がある。
上図は、『画本通俗三国志』(葛飾戴図画)「七星壇に孔明 風を祈る」の挿絵である。孔明が剣を 持っている処が子規の改訂と一致する。
平成三十一年三月七日
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