過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

夏目漱石と大正改元

    夏目漱石と大正改元

   一

 漱石の日記の明治四十五年(一九一二)七月二十日の条は、明治天皇の重体に
就いて記し、

  天子の病は万臣の同情に価す。しかれども万民の営業直接天子の病気に害を与えざる限りは進行して  然るべし。
と、国民が心配すべきことは勿論なのであるが、その余り生業を休むような事があってはならないと戒める。そう言う理由は、当局が権柄づくに営業を休ませると、

  皇室を恨んで不平を内に蓄うる
かも知れず、

  恐るべき結果を生み出す原因を冥々の裡(うち)に醸(かも)す
恐れがあるからである。

 こうした漱石の憂慮は、現今の譲位に伴う連休の件にも通ずるものがあって、なかなか鋭く、適切な箴言であると言えよう。

 このような考え方を持っていたからであろうか、その三日後の七月二十三日、親友の中村是公(ぜこう)に誘われて、築地の待合の山口に行くのをも断らず、そこでは芸者の「御しん・しめ子・御しほ・小露・ひな子」などと顔を合わせ、

  六べえさんと自称する芸者から金(こん)神(じん)さまの講釈を聞いて信者にさせられる。
と、遊ぶような事があった。謹厳一方の堅物からは青筋立てて怒られそうだが、漱石からは、「これも待合や芸者の生業であるから、それを無理やり奪わないようにとの心遣いだ」という返答が返って来たかも知れない。

 しかし漱石は、明治天皇崩御の後は、

  御かくれになったあとから鶏頭かな
  厳(おごそ)かに松明(まつ)振り行くや星月夜
と二句詠んでいて(『漱石俳句集』岩波文庫一八二頁)、根本は皇室の臣民といっても不当ではないような心情を皇室に懐いていたようだ。後者は、御大葬の際の供奉者の様子を描写したものであろう。

 また彼が明治天皇の崩御、それに続く乃木希(まれ)典(すけ)夫婦の殉死に大きな衝撃を受けたことは、小説『こころ』(大正三年)下の五十五、五十六に、

  夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。その時私は明治の精神が天
  皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受 けた私どもが、その後に  生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました。
  私は新聞で乃木大将の死ぬ前に書き残して行ったものを読みました。西南
  戦争の時敵に旗を奪られて以来、申し訳のために死のう死のうと思って、つい今日まで生きていたと  いう意味の句を見た時、私は思わず指を折って、乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生きながらえて来た  年月を勘定して見ました。
と反映されていて有名なことだが、そうした事どもは、彼も明治人としては皇室に一般同様な、否、見方によっつてはそれ以上の関心を寄せていたことを示している。

 そのような漱石は、この間の崩御、大正天皇の践祚(せんそ)という一連の国家の重大事を記録することを怠らず、七月三十日の崩御の公示、践祚の式、同三十一日の改元の詔書発布などに就いてマメに報告してくれている。

 それに拠れば、改元の詔書は次のようなものである。

  朕、菲(ひ)徳(とく)を以て大統を承(う)け、祖宗(そそう)の霊に告げて万機の政(まつりごと)を行   う。ここに先帝の定制に遵(したが)い、明治四十五年七月三十日以後を改めて大正元年となす。
  主者施行せよ。
    御名 御璽
  明治四十五年七月三十日          各大臣連署

 こう写した後に、漱石は次のように付け加えている。
  右は『公(く)羊伝(ようでん)』に「君子大居正」、『易経』に「大亨以正天之道也」とあるに
  よる。

 この後に「朝見式詔勅」なども写されてあるのであるが、それは省略する。

 右の付け加えは、漱石が所属先の『朝日新聞』などに拠って得た情報を書き込んだものであろう。この出典情報の内、『易経』のそれは、『易経』彖伝(たんでん)・臨卦(りんか)の「大亨以正、天之道也」
 大いに亨(とお)りて以て正しきは、天の道なり。
という文を指していることは、ウイキペディアなどの諸辞典にも記されていて、人もよく知る所である。その大意は、「人に臨むに道をもってすれば大いに亨るが、貞正をとりたもつがよろしい」(高田真治・後藤正巳訳『易経』。岩波文庫、上、一九九頁)、というほどのものである。

 しかし、もう一つの『公羊伝』に就いては、今では殆ど言及されていないようである。従って、その「君子大居正」という文の意味や、どのような状況のもとに発せられたものかという事情も、一般の人々には全く明らかにされていないのではなかろうか。改元への関心が高まっている今日、漱石の日記に触発されて、この疑問に解答を与えておくのは、有意義なことと考える。

   二

 「君子大居正」という文は、『春秋』の注釈書として『春秋左氏伝』『春秋穀(こく)梁(りょう)伝』と並び挙げられる『春秋公羊伝』の隱公三年(紀元前七二〇年)の条に見える。『春秋』の本文に、

  冬、十有二月、斉(せい)侯(こう)・鄭(てい)伯(はく)、石門に盟(めい)す。
  癸未(きみ)、宋の繆公(びゅうこう)を葬る。
とあるが、その注として次のようにある。

  宋の宣公が繆(びゅう)公にいった。「私が与(よ)夷(い)を愛することは、汝を愛するようではない。  社稷・宗廟の主とすることに関しては、与夷は汝には及ばない。どうして汝は君とならないのか」   と。宣公が死ぬと、繆公が立った。繆公は、その二子の莊(そう)公(こう)馮(ひょう)と左(さ)師(し)  勃(ぼつ)とを追放して、言った、「汝らは我が子であるが、私が生きてる間は会うことなく、死んで  も哭さないようにせよ」と。与夷が奏上した、「先君が私に国を与えないで、あなたに国を与えたの  は、あなたが社稷・宗廟の主となるべきだったからです。今、あなたがその二人の子を追放して、私  に国を与えようとするのは、先君の御意思ではありませぬ。また、あなたをして追放できるようにさ  せるのならば、先君が私を追放していたことでしょう」と。繆公はいった、「先君が汝を追放しな   かったことは、はっきりとしている。私がこの国に立っていたのは、摂政としてであったのだ」と。  とうとう国を与夷に与えた。莊公馮は与夷を弑殺した。ゆえに君子は正しきに居ることを大なりとす  る。宋の禍は宣公がこれを招いたのだ。

 以上は、寛文七年(一六六七)、林羅山の訓点を基にして、林鵞峰が江戸の長谷川新兵衛、京都の植村藤右衛門から刊行させた和刻本の本文と訓点に基づいて訳した。末尾のゴチック部分の原文は、

  故君子大居正。

というものであり、和刻本はこれを、
  故に君子は正に居ることを大なりとす。
と訓んでいる。

こうして『公羊伝』では、当初から宣公は我が子の与夷を後継者とすれば良かったのに、弟の繆公を立てた余りに、終に与夷が弑殺されることとなった。その責任は宣公に在るとして、与夷を本来の継承者とし、正に居るべき者としている。それは『左伝』が宣公のことを「人を知る」者と評価することと対蹠的である。

 とにかく、『公羊伝』では、本来継承すべき者が順当に継承することを「正に居ること」とし、この事を「大なりとす」と尊んでいる。

 そうとすると、これを踏まえた大正天皇の年号は、本来、正位にあるべき方が順当に正位を継承した、という慶賀すべき意味が込められたものとなる。
漱石が元号の由来を知ってから、果して『公羊伝』などに当って、その用いられ方まで調査したかは不明であるけれども、漢学にも造詣の深かった彼の事だから、大よそ右のような慶賀すべき意であることは、字面からして大体把握していたのではないか、と思われる。

 ともかく前述した通り、彼が,

  『公羊伝』に「君子大居正」・・・とあるによる。
と書き記したことの意義は、以上のような事を考えさせて、少なからざるものがあった、と思うものである。


  平成三十一年三月二十八日

全1ページ

[1]


.
buk*u*007
buk*u*007
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

過去の記事一覧

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事