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   三 排斥騒動の影響

 こうした状況の中で、注目すべきことは、漱石の俳句創作の履歴である。『漱石・子規往復書簡集』に拠れば、彼は明治二十四年八月三日付けの子規宛書簡に、兄嫁の登世の逝去を悼んだ十三句の俳句を記し、さらに「先日、御話の句」として十七句を追加していた。全三十句で、大いに俳句創作の意欲が盛り上がっていたのである。それらの内、十八句が『漱石俳句集』(岩波文庫)に掲載されている。
だが、翌二十五年には僅かに三句しか作っていない。その内の一句が前引の「病む人の巨燵」の句である。『漱石俳句集』には二句が収められている。

 そして騒動発覚後の二十六年には一句も作っていない。よし作ったことがあったにしても、両書には一句も収められていない状態である。

 このことは、俳句創作にまだ意欲が無かったのかも知れないが、そもそも創作しようという衝動が湧き起こらなかったことをも示している、と考える。せっかく兄嫁の登世の逝去をきっかけとして起こった創作衝動が全く消えてしまっているのである。ところが、次いで二十七年になると、創作衝動がよみがえって来たようで、三月十二日の子規宛書簡に彼の俳句が五句載せられ、『漱石俳句集』にも七句収められる状態になる。こうした復活は、二十六年に意欲が消失したことを逆証明していよう。ただ、七句作っているにしても、二十七年はまだ本調子でないことは、後述する。

 このような二十六年の俳句創作意欲の消失は、東京専門学校排斥騒動と関係があるのであろう、と考える。子規宛書簡が明治二十四、五年の状態とは違って僅かに四通しか無く、しかも分量でも、岩波文庫本で二十四年が三十頁、二十五年が七頁分あるのに対して、二十六年が三頁しか無いという短いものであることも、その原因は同じであるかも知れない。参考のために言えば、二十七年は七頁である。要するに、二十六年の漱石は、鬱状態で、あまり元気が無く、俳句にしろ書簡にしろ、創作し筆記する意欲が衰えていると見られる。その理由は、再三言うようだが、東京専門学校排斥騒動による元気喪失に在るのではなかろうか。

 騒動による影響は、二十七年にも及んでいるようである。同年三月十二日付け子規宛書簡に、
  先日来、尋常中学英語教授方案取り調べのため随分多忙に有之候・・・
という文章が、その事を示していよう。時に漱石は、既に帝国大学大学院に入学して、その寄宿舎に在ったが、どのような事情からか、尋常中学英語教授方案の取り調べに忙しかった。これには勿論、東京専門学校に於ける苦い経験も、その動機の一つになっていた筈である。このように考えると、漱石は、騒ぎからほぼ一年三か月たっても苦い記憶を引きずっていたようである。

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