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嘉永五年は、松陰は事情あって萩に幽閉されており、象山と会える機会は無かった。
嘉永六年六月三日、ようやく江戸に出て来れた松蔭は、久しぶりに佐久間修理(象山)を訪う。
嘉永六年六月四日、松陰は、ペリーが乗った米艦が浦賀に来ったのを聞き、直ちに往って事情を探る。その時期の松蔭の消息を『癸丑遊歴日録』に見ると、次の通りだ。
六月四日、松陰が桜田邸に至り、道家龍助に逢うと、
「浦賀に米国の黒船がやって来た」
という。
直ちに佐久間象山の塾に行くと、書生が、
「皆、今朝、浦賀に出かけました」
と言う。
松陰は、即座に瀬能吉次郎(藩の役人。松陰の父の友人)に宛てて、
浦賀へ異船来りたる由に付き、私 只今より夜船にて参り申し候。海陸共に路留(みちどめ)にも相成るべくやの風聞にて、心甚だ急ぎ、飛ぶが如し。
とだけ書き付けて、英気勃勃、鉄砲(てっぽう)洲(ず)(東京都中央区明石町)に至り、舟を雇った。
だが、風がまだ生ぜず、船を出すことができない。旅店に憩うこと数刻、寅時(午前四時頃)に、舟を出した。
舟行すること一里ばかり、船(ふな)行灯(あんどん)に「会」という字を書き付けている舟が、櫓(やぐら)をキュッキュッと鳴らしてやって来る。たぶん会津の、房総に置いてある陣屋の者が、事を江戸に知らせに行くのであろう。
五日、夜が明けたが、風も潮も逆であって、巳時(午前十時頃)にようやく品川に達する事ができた。そこで上陸して疾歩する。砲声が聞こえて来る。静かにこれを聴くと、大森で砲技を演ずる音であった。
夜四ツ時(午後十時頃)、浦賀に着いた。
六日の朝、高処に登り、「賊船」の様子を窺う。四艘(二艘は蒸気船、砲二十門余、船長四十間ばかり、二艘はコルベット<旧式の中型巡洋艦>、砲二十六門、長さ二十四・五間ばかり)が陸を離れること十町以内の所に繋泊し、各船の間は五町程隔たっている。
ところが、我が方の台場は、筒数も甚だ少なくて、いたずらに切歯するばかりだ。その上、聞く所によれば、賊船の方の申し分では、
「明後日、昼九つ時(午後十二時頃)までに願い筋の事が許されなければ、船砲を打ち出だす」
と申し出た、という事だ。
小泉屋には佐久間象山や塾生たち、その外、好事の輩が多く集まり、議論紛々である。浜田生や近沢(啓蔵。象山の塾生)も来ている。
「この度の事、中々容易に相済み申すまじく、いずれ交兵に及ぶことであろうか。 しかし船も砲も敵せず、 勝算は甚だ少ない」
という事で、御奉行その外、下曾禰氏(金三郎。砲術家)なども、
「夷人の手に首を渡すよりは切腹した方が良い」
と、頻りに寺の掃除を申し付けている。
佐久間は慷慨し、
「事、ここに及ぶは知れたこと故、先年より船と砲との事をやかましく申したるに聞かれず。今は陸戦にて手詰(てづめ)の勝負の外、手段は無い」
と言う。
この件に就いて松蔭は次のように述べている。
何分、太平を頼み、余り腹つづみを打っておると、このような事態に至り、大狼狽するのは憐むべき事だ。その上、外夷へ対し面目を失う事、これに過ぐるものは無い。しかし此れにて日本武士が、一へこ(褌)しめる機会が来たのだ。大いに慶賀すべきだ。(六月六日 長州藩砲術家の道家龍助宛書簡)
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