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松蔭の嘉永六年七月二十八日付け杉梅太郎宛書簡には、

  明春は一戦に相定まり申し候。我が昇平柔懦(しょうへいじゅうだ)の士民を以て彼の猖獗狡獪 (しょ うけつこうかい)
  の賊と戦う事、兵未だ接せずして勝敗已に判然なり。

とあって、この時には松陰は、近く米国との戦いが始まろうが、勝敗は眼に見えている、と考えていた。そこで同日頃に「将及私言」を完成させ、藩邸に呈し藩主の閲覧に供した。これは、「大義」「聴政」「納諫」「砲銃」「船艦」「馬法」「至誠」に分かって、時勢への応急策を論じたものである。

 松陰は、同じ八月二日には「急務條議」というものを作り、藩邸に提出したが、これは「将及私言」よりも実際的な提案で、水戸の徳川斉昭や藤田東湖、肥後潘の長岡内膳などと結び、また、佐久間象山・藤森天山・羽倉簡堂・古賀茶渓・桜任蔵・斎藤弥九郎・松浦竹四郎・安井息軒・塩谷宕陰・杉田成卿の如き人材と知り合い、西洋の砲術・兵法を学び、六ポンドカノン(砲)・十五ドイームホウイツヲル・二十四ポンドカノン等の砲を備え、フレガット船などを購入し、硝石(しょうせき)(黒色火薬の主成分)を製造することなどを提案したものである。

 八月十五日付け杉梅太郎宛書簡には、

  佐久間修理、声名籍甚に御座候処、其の本藩より嫉まれ御国へ返され候命下り候処、水府公・阿部公、其の他有志の人々、河路左衛門尉・羽倉外記・水府の義党等、深く是れを惜しみ、「当今、此の人なくば何人か西洋砲銃の事に任じ申すべくや、国家の武備も是れが為め欠闕(けつけつ)する」との論にて、遂に阿部より真田公へ相談の上、江戸へ留まることに相成り候。此れを以て天下の公論、御察知願ひ奉り候。

と、佐久間象山が松代藩内の嫉みに遭って帰国されそうなところ、前水戸藩主
徳川斉昭・老中阿部正弘や川路聖謨(としあきら)・羽倉簡堂などの応援を得て、江戸に踏
み止まることになった事情を報告している。

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