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次に、松陰が功を立てたがっている事情と、ペリー来航の件を述べる。
ところが、一昨年中(嘉永五年十二月)、遊歴の事に由って落度が有り、知行(ちぎょう)を奪われました。もっとも萩御城下、江戸御屋敷の出入(でいり)の免許はあります。十年の家学修行を申し付けられた(嘉永六年正月)という事で、その後もよく宅へ参り、出精致いたしておりました。然るに去夏(嘉永六年六月)、メリケンの事件(ペリー来航)が出来し、本邦開闢(かいびゃく)以来、未曾有(みぞう)の体(てい)たらくにて、私においても慷慨悲憤に堪えず、差当り敵愾(てきがい)(敵に対抗する)の計策を考えましたが、諸事皆手後れと成り、どうにも手の付けようがありません。その儀を認(したた)めましたところ、事は行われない様子で、残念に存じていました。
米国のために日本が侮辱ばかりされる状況に悲憤慷慨しているのである。そこで、次に、海外事情探索の方法を実に具体的に詳細に説くのである。
しかしながら、「七年の病に三年の艾」という文句通り、当今にて辺備の急務は、彼(米国)をよく知るより先なるはなく、彼を知るの方略は、人才を選び、彼(か)の地方(アメリカ)に遣わし、形勢事情をまのあたり探索させ、火兵の術、水軍の方、海岸の固め、城塁の制等も、書伝ばかりにては何分に埓があかず、往々、靴を隔てゝ痒き所を掻くの歎を免れないから、とにかく松陰を遣わす道を開くより外は無いと存じ、その策をさる要路の御方へも申し試み、川路司農(川路聖謨(としあきら))の御取次を以て福山侯(阿部正弘。老中)へ奉った上書にも、その儀を認(したた)めたが、事は行われない様子で、残念に存じていました。
この段は、洋夷への対策として松陰を米国へ遣り、海外事情や砲術・兵法などを学ばせる方策を立て、川路聖謨(公事方(くじかた)勘定奉行・海岸防御御用掛)を仲介として福山藩主阿部正弘(まさひろ)(老中首座)へ上書したが、鎖国体制厳しきため、どうにもならない事情を述べた。「七年の病に三年の艾」とは、『孟子』離婁(りろう)上の言葉であって、事態が差し迫って慌てても間に合わない意、前もって準備しておく意である。
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