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    二 東京専門学校の排斥騒動

 漱石を取り巻く事件を知るための手掛かりは、何といっても日記や書簡などの本人の記録が第一資料である。しかし、この頃の日記が残されていないからには、書簡に求めなければならない。幸い『漱石・子規往復書簡集』の明治二十五年十二月十四日の子規宛書簡(一一九頁)を見ると、次のようにある。読み易い形にして引用する。

  さて運動一件、御書状にて始めて承知仕り、少しく驚き申し候。しかし学校よりは未だ何らの沙汰も  無之(これなく)、辞職勧告書なども未だ到着仕らず、御報に接するまでは頓(とん)とそんな処に御気  がつかれず、平気の平左に御座候。過日、学校使用のランプの蓋(ふた)に「文集はサッパリ分から   ず」と書きたるものあれど、これは例の悪口。かかる事を気にしては一日も教師は務まらぬ訳と打捨  をき候。その後、講義の切れ目にて時間の鳴らぬ前、無断に室外に飛び出候生徒ありし故、次の時間  に大いに譴責致し候。これは前の金曜の事、その外別段異状も無之、今日まで打ち過ぎをり候。元   来、小生受持ち時間は二時間のところ、生徒の望みにて三時間と致し、かつ先日、前学年受持ちの生  徒来たり、同級へも出席致しくれずやと頼み候位故、さほど評判の悪しき方ではないと自惚(うぬぼ  れ)仕をり候処、豈(あに)計(はか)らんやの訳で、大兄の御手紙にて運動一件、小生の耳朶(じだ)に  触れ申し候。勿論小生は教え方下手の方なる上、過半の生徒は力に余る書物を捏(こ)ね返す次第なれ  ば、不満足の生徒は沢山あらんと、その辺は疾(と)くより承知なれど、これは一方より見れば、あな  がち小生の咎(とが)にもあらず、学校の制度なれば是非なしと勘弁仕をり候。去るにても小生のため  にこの間運動など致すほどとは実に思ひも寄らずと存じをり候段、随分御目出度かりし。無論、生徒  が生徒なれば、辞職勧告を受けても、小生の名誉に関するとは思はねど、学校の委託を受けながら生  徒を満足せしめ能はずと有りては、責任の上また良心の上よりいふも心よからずとぞ存じ候間、この
  際、断然と出講を断はる決心に御座候。

 この書簡の始めの「学校」という語に関する編者和田茂樹の注は、

  東京専門学校(早稲田大学の前身)のこと。漱石は明治二十五年五月より大西祝(はじめ)の推薦で学  費補給のため同校の講師となる。学生に綱島梁川、五十嵐力、藤野古白らがいた。そこでの評判が悪  く、排斥運動が起こりそうだという子規からの書簡を受け取った返書である。
というものだ。藤野古白は子規より四歳下の従弟で、俳句の門人であったから、子規は古白から排斥運動の情報を聞き知ったのかも知れない。東京専門学校の学生にも色々な者がおったであろうが、一部の学生には教科書が難しすぎる、という批判が存したようで、それが昂じて漱石排斥運動が起こりそうな雰囲気が生じたのである。それに対する漱石の反応は、いかにも彼らしいもので、「責任」と「良心」に基づき退職したい、というものであった。

 右の本文に続けて漱石は、
(巨燵(こたつ)から追ひ出されたる)は御免蒙りたし。
  病む人の巨燵離れて雪見かな
という俳句を書き付けている。

 句意は、自分は病人で実は炬燵に当たっていたいのだが、雪見をしたいので已む無く炬燵から離れるのだ、というほどのものであろう。括弧のなかの「巨燵から追ひ出されたる」は御免こうむりたい、というのは、添削好きの子規が漱石が排斥されたことを揶揄して、巨燵から追い出されたというほどの文言に改めてしまっては困る、というの意であろう。自尊心が強い漱石らしい依頼である。

 さらに追記として漱石は、
  御報知の段ありがたく奉謝(しゃしたてまつり)候。坪内へは郵便にて委細申し遣はすべく候。その文  言(もんごん)中には証人として君の名を借りる。親友の一言なれば固(もと)より確実と見認(みとむ)  むるといへば、突然辞職しても軽率の誹(そし)りを免るる訳なればなり。願わくば証人として名前だ  けをかし給へ。但し出処は命ぜず召還の気使ひも無用なり。
と、東京専門学校の坪内逍遥に辞職を報告したいから保証人になってくれと子規に依頼する。軽率な衝動ではなく、慎重な熟慮の結果だというのである。

 このような返事をしてから三日後の十二月十七日、漱石は早速、下谷区上根岸の子規の家を訪れている。子規の『獺祭書屋日記』(『子規全集』第十四巻)には、
  十二月十七日
   漱石来
      君にとてくはすものなし冬籠
としか書いてないが、この時、食事もろくに取らないまま、漱石が子規からあらためて報告を受け、辞職の保証人になってくれるよう頼んだことは、想像に難くない。

 かくして年が越えて、明治二十六年一月三日、『獺祭書屋日記』に、
  高津(筆者注、鍬三郎)、得能(文)、福本(日南)、坪内(逍遥)の諸氏を訪い、古白亭に会す。  漱石を訪う。(原漢文。注は『子規全集』第二十二巻「年譜」二〇六頁に拠る)
とあり、子規は独りで逍遥に会っている。そして、その後に漱石を訪問している。この記載からは、そう読める。『漱石・子規往復書簡集』一二二頁の年譜のこの日の条には、
  子規と漱石、坪内逍遥を訪問。
とあり、両人が一緒に逍遥を訪問したと読めるが、実の所は子規は独りで逍遥を訪れ、当然、漱石の意向を伝えて、それから漱石を訪れ、逍遥との面談の報告をしたもの、とするべきである。

 子規は、逍遥に面会した折、排斥騒動の詳報を知り、また逍遥の遺留の勧告を聞いて、これらを漱石に伝えたのであろう。漱石は辞職を思い留まって、東京専門学校の講師を続けることにした。また、同二十六年の十月十九日、東京高等師範学校の英語講師にも就任した。そして結局、二十八年の三月まで両校の講師を勤めていた。

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