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夏目漱石と白楽天
一
明治三十年の三・四月の交、熊本の五高に在職していた漱石は、春休みを利用して久留米に旅行した。そこの古道具屋で江戸期の俳人井上士朗と松木淡々の軸を入手した彼は、その真偽を疑いながらも、「御笑草までに御覧に入候」と子規に贈っている(四月十六日付け子規宛書簡(『漱石・子規往復書簡集』二六三頁)。
その書簡には、岩波文庫本で五頁に亘る分量の俳句が列記されている。すべて五十一句で、大変多い数である。
右の二つの現象は、この頃の漱石に随分と俳句熱が高まっていたことを表わしている、と思う。
そして、春の季節であるから当然に「春」という季語を入れた句が多い。
据(すえ)風呂(ぶろ)に傘さしかけて春の雨
棹(さお)さして舟押し出すや春の川
等々である。それらの内に、
夥(おびただ)し窓春の風門春の水(二六六頁)
という句がある。このままでは読み難いし、解釈もなかなか出来ないであろう。そこで、これを分かり易く表記すると、次のようになる。
夥(おびただ)し 窓 春の風 門 春の水^
このように句切って読むならば、窓にはおびただしく春の風が吹きつけ、門前の川にもおびただしく春の水が流れる、そのような春が到来した、というほどの意味となることが分かろう。春が俄かに到来した驚きを表わそうとした句、と取れる。
二
ただ、そのような急激な春の到来というのは、日本人の季節感からすれば、少しく違和感を懐かされる、と思わないでもない。それというのも、この句が唐の白居易、字は楽天の詩句である「春風春水一時に来たる」(「府西池」『白氏文集』二十八)を踏まえているからであろう。「府西の池」の「府」とは、白居易の任地である河南府の役所をいい、その西の池の有り様を詠じた詩である。かれが河南尹(いん)に叙せられたのは太和四年(八三〇)、五十九歳のことであり、以後太和七年四月まで同地に過ごしたというから、その間の作である。
柳無気力条先動 柳に気力無くして 条(えだ)先(ま)づ動く
池有波文氷尽開 池に波文有りて 氷尽(ことごとく)く開く
今日不知誰計会 今日 知らず 誰(たれ)か計会(けいかい)せしを
春風春水一時来 春風 春水 一時に来たる
柳の枝は力無く垂れさがっていたのに、真っ先に動き出し、
池の氷はすべて解けて、水に波紋が生じ出した。
いったい誰が予測しただろうか、今日、
春風と春の水とが急に同時にやって来ようとは。
転句の「計会」とは、川口久雄訳注の『和漢朗詠集』(講談社学術文庫、二四頁)では、「唐代の俗語」として、米沢本『詩学大成抄』六の、
物ノケツケ(結計)サンヨウ(算用)ヲシテ、出デ入リノツヂヲアワスル。
という説明を引いている。計算、清算、というほどの意味に解しているのである。だが、この場合には、『漢語大詞典』が「計慮、商量」と説明しているように、見積もる、見計らう、というほどの意として解した方が、ぴったりとする。つまり、不意打ちに春が到来したことを表現しようとしているのである。
季節の推移が比較的緩慢である日本の自然に慣れた者としては、「柳の枝を吹く春風と、氷の消えた池の面にさざ波を立てている春の水はかすかなきざしではあるが、今日、立春の日に、確実に春が訪れたことを告げている」と、微動として捉えたくなるのであるが、「氷が尽く開く」のは、相当に暖かにならないと生じない現象であるから、一時にそれほどの暖かさが到来したことを表わしている、と捉えねばならない。
私がそのように急激な春の到来と解するのは、学部の一年生の漢文の時間に、白居易の専家である堤留吉老先生―当時六十七歳で、十九歳の私からすれば、かなりのお年と見受けたが、今の私よりも七歳も若いのだ―から、日本と中国の季節の推移の相違を尋ねられたことがあったからである。急にそんな質問をされても、まだ日本と中国の間に国交が開けていなかった時代の学生としては、誰もそんな質問には答えられない。すると、中国に三年間も留学していたという先生は、「日本の季節の推移は徐々なのだが、中国のそれは急激に変わるのだ」と教え、その例証として白居易の「春風春水一時来」を挙げられたのである。我々一同は、なるほどと感じ入ったものだが、そうした記憶は、その後、四十一歳で一年間北京に暮らした際に、そうかも知れないなあ、と確認された。
かような次第で、急激な春の到来、と解釈するのである。
三
ところで、漱石の句に戻ると、彼は「春の風」「春の水」の到来を「夥し」と表現している。どおっとやって来た、という感じを言いたいのであろう。つまり、両者の到来の一時で急激な感じを表そうとした形容語である。それが私の単なる思い付きの解釈ではない証拠には、ほぼ一年前の明治二十九年三月二十四日に、彼には、次のような句があるのである。
居士一驚を喫し得たり江南の梅一時に開く(『漱石・子規往復書簡集』二一六頁)
これは、やはり春の到来が急激で、今まで咲いていなかった梅の花が一度に全開し、漱石居士が驚いた経験を表現したものと解釈できる。時に漱石は愛媛の松山に在ったのであるが、そこをことさらに「江南」と中国の土地を言う語句で表したので、余計に中国風に季節が一時に推移する感じを表し得ているのだ。
そうした眼で観れば、その句のやや後に置かれた、
家あり一つ春風春水の真ん中に (『漱石・子規往復書簡集』同二一七頁)
という句も、日本風の柔らかで穏やかな両者の到来よりも、中国の広大な土地を背景とした、もっと急激に到来する両者の真っただ中に置かれた、たった一軒の家、という構図が想像できるのである。勿論、「春風春水」が白詩を踏まえていること、言うまでもない。
こうして漱石は、白詩の「春風春水一時来」が含有している大陸特有の急激な季節の推移の感覚を把握できており、それを自らの句に反映させている。そのセンスの良さは、なかなか見事なものがある。
四
それでは彼は、何によって白詩のこの句、ないしは詩を知ったのであろうか。前述したように、白詩の全体は、『和漢朗詠集』春の第四、五条に、二句づつ分載されている。この書が平安朝以来、盛行したものであることは、言うをまたない。また、これは漱石が知っていたかどうか疑問であるが、俳諧の付け合い(春風ならば、春風を表わす際に常套的に用いられる語句)の手引き書として有名な『類船集』(延宝四年、一六七六刊)春風には、
春風春水一時に来る
が収められている。そのように、この句、ひいては白詩は人口に膾炙していた。そこで、漱石も夙にこれの存在を知っており、その内容の正確な解釈にも留意していたのではないか、と考えるのである。
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