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2019年04月

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   三 排斥騒動の影響

 こうした状況の中で、注目すべきことは、漱石の俳句創作の履歴である。『漱石・子規往復書簡集』に拠れば、彼は明治二十四年八月三日付けの子規宛書簡に、兄嫁の登世の逝去を悼んだ十三句の俳句を記し、さらに「先日、御話の句」として十七句を追加していた。全三十句で、大いに俳句創作の意欲が盛り上がっていたのである。それらの内、十八句が『漱石俳句集』(岩波文庫)に掲載されている。
だが、翌二十五年には僅かに三句しか作っていない。その内の一句が前引の「病む人の巨燵」の句である。『漱石俳句集』には二句が収められている。

 そして騒動発覚後の二十六年には一句も作っていない。よし作ったことがあったにしても、両書には一句も収められていない状態である。

 このことは、俳句創作にまだ意欲が無かったのかも知れないが、そもそも創作しようという衝動が湧き起こらなかったことをも示している、と考える。せっかく兄嫁の登世の逝去をきっかけとして起こった創作衝動が全く消えてしまっているのである。ところが、次いで二十七年になると、創作衝動がよみがえって来たようで、三月十二日の子規宛書簡に彼の俳句が五句載せられ、『漱石俳句集』にも七句収められる状態になる。こうした復活は、二十六年に意欲が消失したことを逆証明していよう。ただ、七句作っているにしても、二十七年はまだ本調子でないことは、後述する。

 このような二十六年の俳句創作意欲の消失は、東京専門学校排斥騒動と関係があるのであろう、と考える。子規宛書簡が明治二十四、五年の状態とは違って僅かに四通しか無く、しかも分量でも、岩波文庫本で二十四年が三十頁、二十五年が七頁分あるのに対して、二十六年が三頁しか無いという短いものであることも、その原因は同じであるかも知れない。参考のために言えば、二十七年は七頁である。要するに、二十六年の漱石は、鬱状態で、あまり元気が無く、俳句にしろ書簡にしろ、創作し筆記する意欲が衰えていると見られる。その理由は、再三言うようだが、東京専門学校排斥騒動による元気喪失に在るのではなかろうか。

 騒動による影響は、二十七年にも及んでいるようである。同年三月十二日付け子規宛書簡に、
  先日来、尋常中学英語教授方案取り調べのため随分多忙に有之候・・・
という文章が、その事を示していよう。時に漱石は、既に帝国大学大学院に入学して、その寄宿舎に在ったが、どのような事情からか、尋常中学英語教授方案の取り調べに忙しかった。これには勿論、東京専門学校に於ける苦い経験も、その動機の一つになっていた筈である。このように考えると、漱石は、騒ぎからほぼ一年三か月たっても苦い記憶を引きずっていたようである。

    二 東京専門学校の排斥騒動

 漱石を取り巻く事件を知るための手掛かりは、何といっても日記や書簡などの本人の記録が第一資料である。しかし、この頃の日記が残されていないからには、書簡に求めなければならない。幸い『漱石・子規往復書簡集』の明治二十五年十二月十四日の子規宛書簡(一一九頁)を見ると、次のようにある。読み易い形にして引用する。

  さて運動一件、御書状にて始めて承知仕り、少しく驚き申し候。しかし学校よりは未だ何らの沙汰も  無之(これなく)、辞職勧告書なども未だ到着仕らず、御報に接するまでは頓(とん)とそんな処に御気  がつかれず、平気の平左に御座候。過日、学校使用のランプの蓋(ふた)に「文集はサッパリ分から   ず」と書きたるものあれど、これは例の悪口。かかる事を気にしては一日も教師は務まらぬ訳と打捨  をき候。その後、講義の切れ目にて時間の鳴らぬ前、無断に室外に飛び出候生徒ありし故、次の時間  に大いに譴責致し候。これは前の金曜の事、その外別段異状も無之、今日まで打ち過ぎをり候。元   来、小生受持ち時間は二時間のところ、生徒の望みにて三時間と致し、かつ先日、前学年受持ちの生  徒来たり、同級へも出席致しくれずやと頼み候位故、さほど評判の悪しき方ではないと自惚(うぬぼ  れ)仕をり候処、豈(あに)計(はか)らんやの訳で、大兄の御手紙にて運動一件、小生の耳朶(じだ)に  触れ申し候。勿論小生は教え方下手の方なる上、過半の生徒は力に余る書物を捏(こ)ね返す次第なれ  ば、不満足の生徒は沢山あらんと、その辺は疾(と)くより承知なれど、これは一方より見れば、あな  がち小生の咎(とが)にもあらず、学校の制度なれば是非なしと勘弁仕をり候。去るにても小生のため  にこの間運動など致すほどとは実に思ひも寄らずと存じをり候段、随分御目出度かりし。無論、生徒  が生徒なれば、辞職勧告を受けても、小生の名誉に関するとは思はねど、学校の委託を受けながら生  徒を満足せしめ能はずと有りては、責任の上また良心の上よりいふも心よからずとぞ存じ候間、この
  際、断然と出講を断はる決心に御座候。

 この書簡の始めの「学校」という語に関する編者和田茂樹の注は、

  東京専門学校(早稲田大学の前身)のこと。漱石は明治二十五年五月より大西祝(はじめ)の推薦で学  費補給のため同校の講師となる。学生に綱島梁川、五十嵐力、藤野古白らがいた。そこでの評判が悪  く、排斥運動が起こりそうだという子規からの書簡を受け取った返書である。
というものだ。藤野古白は子規より四歳下の従弟で、俳句の門人であったから、子規は古白から排斥運動の情報を聞き知ったのかも知れない。東京専門学校の学生にも色々な者がおったであろうが、一部の学生には教科書が難しすぎる、という批判が存したようで、それが昂じて漱石排斥運動が起こりそうな雰囲気が生じたのである。それに対する漱石の反応は、いかにも彼らしいもので、「責任」と「良心」に基づき退職したい、というものであった。

 右の本文に続けて漱石は、
(巨燵(こたつ)から追ひ出されたる)は御免蒙りたし。
  病む人の巨燵離れて雪見かな
という俳句を書き付けている。

 句意は、自分は病人で実は炬燵に当たっていたいのだが、雪見をしたいので已む無く炬燵から離れるのだ、というほどのものであろう。括弧のなかの「巨燵から追ひ出されたる」は御免こうむりたい、というのは、添削好きの子規が漱石が排斥されたことを揶揄して、巨燵から追い出されたというほどの文言に改めてしまっては困る、というの意であろう。自尊心が強い漱石らしい依頼である。

 さらに追記として漱石は、
  御報知の段ありがたく奉謝(しゃしたてまつり)候。坪内へは郵便にて委細申し遣はすべく候。その文  言(もんごん)中には証人として君の名を借りる。親友の一言なれば固(もと)より確実と見認(みとむ)  むるといへば、突然辞職しても軽率の誹(そし)りを免るる訳なればなり。願わくば証人として名前だ  けをかし給へ。但し出処は命ぜず召還の気使ひも無用なり。
と、東京専門学校の坪内逍遥に辞職を報告したいから保証人になってくれと子規に依頼する。軽率な衝動ではなく、慎重な熟慮の結果だというのである。

 このような返事をしてから三日後の十二月十七日、漱石は早速、下谷区上根岸の子規の家を訪れている。子規の『獺祭書屋日記』(『子規全集』第十四巻)には、
  十二月十七日
   漱石来
      君にとてくはすものなし冬籠
としか書いてないが、この時、食事もろくに取らないまま、漱石が子規からあらためて報告を受け、辞職の保証人になってくれるよう頼んだことは、想像に難くない。

 かくして年が越えて、明治二十六年一月三日、『獺祭書屋日記』に、
  高津(筆者注、鍬三郎)、得能(文)、福本(日南)、坪内(逍遥)の諸氏を訪い、古白亭に会す。  漱石を訪う。(原漢文。注は『子規全集』第二十二巻「年譜」二〇六頁に拠る)
とあり、子規は独りで逍遥に会っている。そして、その後に漱石を訪問している。この記載からは、そう読める。『漱石・子規往復書簡集』一二二頁の年譜のこの日の条には、
  子規と漱石、坪内逍遥を訪問。
とあり、両人が一緒に逍遥を訪問したと読めるが、実の所は子規は独りで逍遥を訪れ、当然、漱石の意向を伝えて、それから漱石を訪れ、逍遥との面談の報告をしたもの、とするべきである。

 子規は、逍遥に面会した折、排斥騒動の詳報を知り、また逍遥の遺留の勧告を聞いて、これらを漱石に伝えたのであろう。漱石は辞職を思い留まって、東京専門学校の講師を続けることにした。また、同二十六年の十月十九日、東京高等師範学校の英語講師にも就任した。そして結局、二十八年の三月まで両校の講師を勤めていた。

夏目漱石の東京専門学校排斥騒動と漢詩
                       

   一 「奇禍」とは何か

  明治二十八年五月二十八日、松山に赴任して間もない漱石は、子規に宛てて「近作数首、拙劣ながら御目に懸け候」と断って、無題の四首の七律を送っている。

 そのいずれも、
吉川幸次郎著『漱石詩注』(岩波文庫。二千二年九月。五十頁以下)
和田茂樹編『漱石・子規往復書簡集』(岩波文庫。百四十六頁以下)
で見られる。

 それらの詩を読んで注目させられることは、いずれも、自分が世間の批判を浴びて孤立していることに言及する句を含んでいることである。例えば、第一首の第二句には、
(1) 不顧人間笑語譁  顧りみず 人間(じんかん) 笑語譁(かまびす)すしきを
といい、第二首の頸聯には、
(2) 才子群中只守拙  才子 群中 只だ拙を守り
    小人囲裏独持頑  小人 囲裏 独り頑を持す
とあり、第三首の第八句では、
(3) 愧為読書誤一生  愧ずらくは読書の為に 一生を誤まるを
と結ばれ、第四首の第六句には、
(4) 白眼空招俗子咍  白眼 空しく招く 俗子の咍(わら)いを
と述べる。

 これらの外に同年五月三十日、やはり子規宛てに送った七律「無題」の第七句にも、
(5) 一任文字買奇禍  一(ひと)えに任す 文字の奇禍を買うに
という句が存する。これらは要するに、学問が禍を為したことを言っている、と解せる。そして、これだけ執拗に孤立感や挫折感を繰り返していることを見ると、
「何かそうした事件が、そのころの先生にあったのであろう」と、吉川が右の詩の「一任」の注の箇所で推測しているような事があったのかと思える。つまり「奇禍」があったのではないか。

 しかし、そうした奇禍が何であったかを突き止める研究は、まだ出ていないようである。本稿は、この問題を考えてみるものである。

夏目漱石と白楽天

夏目漱石と白楽天

   一

明治三十年の三・四月の交、熊本の五高に在職していた漱石は、春休みを利用して久留米に旅行した。そこの古道具屋で江戸期の俳人井上士朗と松木淡々の軸を入手した彼は、その真偽を疑いながらも、「御笑草までに御覧に入候」と子規に贈っている(四月十六日付け子規宛書簡(『漱石・子規往復書簡集』二六三頁)。

その書簡には、岩波文庫本で五頁に亘る分量の俳句が列記されている。すべて五十一句で、大変多い数である。

右の二つの現象は、この頃の漱石に随分と俳句熱が高まっていたことを表わしている、と思う。
そして、春の季節であるから当然に「春」という季語を入れた句が多い。
 据(すえ)風呂(ぶろ)に傘さしかけて春の雨
 棹(さお)さして舟押し出すや春の川
等々である。それらの内に、
夥(おびただ)し窓春の風門春の水(二六六頁)
という句がある。このままでは読み難いし、解釈もなかなか出来ないであろう。そこで、これを分かり易く表記すると、次のようになる。

夥(おびただ)し 窓 春の風 門 春の水^

 このように句切って読むならば、窓にはおびただしく春の風が吹きつけ、門前の川にもおびただしく春の水が流れる、そのような春が到来した、というほどの意味となることが分かろう。春が俄かに到来した驚きを表わそうとした句、と取れる。

   二

 ただ、そのような急激な春の到来というのは、日本人の季節感からすれば、少しく違和感を懐かされる、と思わないでもない。それというのも、この句が唐の白居易、字は楽天の詩句である「春風春水一時に来たる」(「府西池」『白氏文集』二十八)を踏まえているからであろう。「府西の池」の「府」とは、白居易の任地である河南府の役所をいい、その西の池の有り様を詠じた詩である。かれが河南尹(いん)に叙せられたのは太和四年(八三〇)、五十九歳のことであり、以後太和七年四月まで同地に過ごしたというから、その間の作である。
 柳無気力条先動  柳に気力無くして 条(えだ)先(ま)づ動く
池有波文氷尽開  池に波文有りて 氷尽(ことごとく)く開く
今日不知誰計会  今日 知らず 誰(たれ)か計会(けいかい)せしを
春風春水一時来  春風 春水 一時に来たる
  
  柳の枝は力無く垂れさがっていたのに、真っ先に動き出し、
  池の氷はすべて解けて、水に波紋が生じ出した。
  いったい誰が予測しただろうか、今日、
  春風と春の水とが急に同時にやって来ようとは。

 転句の「計会」とは、川口久雄訳注の『和漢朗詠集』(講談社学術文庫、二四頁)では、「唐代の俗語」として、米沢本『詩学大成抄』六の、
  物ノケツケ(結計)サンヨウ(算用)ヲシテ、出デ入リノツヂヲアワスル。
という説明を引いている。計算、清算、というほどの意味に解しているのである。だが、この場合には、『漢語大詞典』が「計慮、商量」と説明しているように、見積もる、見計らう、というほどの意として解した方が、ぴったりとする。つまり、不意打ちに春が到来したことを表現しようとしているのである。

 季節の推移が比較的緩慢である日本の自然に慣れた者としては、「柳の枝を吹く春風と、氷の消えた池の面にさざ波を立てている春の水はかすかなきざしではあるが、今日、立春の日に、確実に春が訪れたことを告げている」と、微動として捉えたくなるのであるが、「氷が尽く開く」のは、相当に暖かにならないと生じない現象であるから、一時にそれほどの暖かさが到来したことを表わしている、と捉えねばならない。

 私がそのように急激な春の到来と解するのは、学部の一年生の漢文の時間に、白居易の専家である堤留吉老先生―当時六十七歳で、十九歳の私からすれば、かなりのお年と見受けたが、今の私よりも七歳も若いのだ―から、日本と中国の季節の推移の相違を尋ねられたことがあったからである。急にそんな質問をされても、まだ日本と中国の間に国交が開けていなかった時代の学生としては、誰もそんな質問には答えられない。すると、中国に三年間も留学していたという先生は、「日本の季節の推移は徐々なのだが、中国のそれは急激に変わるのだ」と教え、その例証として白居易の「春風春水一時来」を挙げられたのである。我々一同は、なるほどと感じ入ったものだが、そうした記憶は、その後、四十一歳で一年間北京に暮らした際に、そうかも知れないなあ、と確認された。

 かような次第で、急激な春の到来、と解釈するのである。
 
   三

ところで、漱石の句に戻ると、彼は「春の風」「春の水」の到来を「夥し」と表現している。どおっとやって来た、という感じを言いたいのであろう。つまり、両者の到来の一時で急激な感じを表そうとした形容語である。それが私の単なる思い付きの解釈ではない証拠には、ほぼ一年前の明治二十九年三月二十四日に、彼には、次のような句があるのである。

居士一驚を喫し得たり江南の梅一時に開く(『漱石・子規往復書簡集』二一六頁)

 これは、やはり春の到来が急激で、今まで咲いていなかった梅の花が一度に全開し、漱石居士が驚いた経験を表現したものと解釈できる。時に漱石は愛媛の松山に在ったのであるが、そこをことさらに「江南」と中国の土地を言う語句で表したので、余計に中国風に季節が一時に推移する感じを表し得ているのだ。

 そうした眼で観れば、その句のやや後に置かれた、
 家あり一つ春風春水の真ん中に (『漱石・子規往復書簡集』同二一七頁)
という句も、日本風の柔らかで穏やかな両者の到来よりも、中国の広大な土地を背景とした、もっと急激に到来する両者の真っただ中に置かれた、たった一軒の家、という構図が想像できるのである。勿論、「春風春水」が白詩を踏まえていること、言うまでもない。

 こうして漱石は、白詩の「春風春水一時来」が含有している大陸特有の急激な季節の推移の感覚を把握できており、それを自らの句に反映させている。そのセンスの良さは、なかなか見事なものがある。

   四

 それでは彼は、何によって白詩のこの句、ないしは詩を知ったのであろうか。前述したように、白詩の全体は、『和漢朗詠集』春の第四、五条に、二句づつ分載されている。この書が平安朝以来、盛行したものであることは、言うをまたない。また、これは漱石が知っていたかどうか疑問であるが、俳諧の付け合い(春風ならば、春風を表わす際に常套的に用いられる語句)の手引き書として有名な『類船集』(延宝四年、一六七六刊)春風には、
春風春水一時に来る
が収められている。そのように、この句、ひいては白詩は人口に膾炙していた。そこで、漱石も夙にこれの存在を知っており、その内容の正確な解釈にも留意していたのではないか、と考えるのである。

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