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五 松陰の次韻詩
この詩に就いての松陰の評には、「此くの如き大作は、僕の敢て当たる所に非ず。然れども此れを得て以て同囚を嚇かすべし矣。(下略)」とあるから、まだ野山獄に在った時に早くも松陰はこれを読むことができたらしい。同室の囚人で漢詩が分かる者(富永有隣・河野数馬などであろう)に見せて驚かせる、といっているのであるから。
そして彼は、十二月十五日に野山獄幽囚を免ぜられるのであるが、この詩に鼓舞されたことは、前述した通りである。
出牢後の彼が世間との交わりを断って逼塞し、鬱状態に在ったらしいことは、十二月二十七日、杉梅太郎の名に仮託して江戸の久保清太郎に宛てて書いた書簡に、
幕府より蟄居申付けられ候身分に付き、外人交際は勿論、詩文贈答等に至
る迄深に慎畏を加へ候様との事に御座候。自身にも帰宅致し候上は一層慎畏せずしては父兄の恤(う れい)を起し候事と深く相含み居り候事、御承知下さるべく候。
と述べていることに窺い知られる。だが、一方では月性詩に鼓舞されたことによって次第に元気を取り戻し、右詩の次韻詩を作り出したことが次の題詞から推察できるのである(『松陰詩集』上、明治十一年十一月、大阪心斎橋一丁目、松村久兵衛等刊。尊攘堂蔵版と松下村塾蔵版の二種あるも、内容は同じ)。それはまた右詩の松陰評を兼ねているものと言えるから、次に引いておく。勿論、松陰の詩そのものも掲げたいのであるが、分量の関係で、今は割愛せざるを得ない。
浮図師清狂、予に贈る長篇あり、毎句 韻を押し、凡そ八十脚、称揚過当、敢えて居る所に非ず。独 り其の語氣雄健、頑堕を立たしむるに足る。予、家に帰りてより来のかた、例として世と通ぜざる も、此の詩を読むに及び、黙々たる能わず、断然例を破り、韻に仍って和答す。但し才小力弱、已に 其の長きに苦しみ、又韻の窘(くる)しむる所と為り、自ら醜穢紙に満つるを覚ゆ。然りと雖も上人の 盛意、吾れ其れ答えざるべけんや。
右の記述から、この次韻詩を作り出した時期は、松陰の逼塞の時期、即ち安政二年十二月下旬から翌三年一・二月頃に掛けての事と考えられるのである。
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