|
七 『清狂詩鈔』の出版
これほどにまで月性に信頼を寄せ、親交があったのだから、松陰および松下村塾中の者が早速に月性の詩集、即ち『清狂吟稿』を上梓することを企画するのは、当然すぎることだ。松陰は、安政五年六月一日、門弟の久坂玄随宛書簡に、
清狂吟稿二冊上梓して天地間に留め度しと同志中決議し候。口羽・久保等其の事を主どり候。叙は拙堂ヘ託する積り、中谷の受合なり。跋文は足下に若くはなしと一統申す事に付き、御考案成さるべく候。拙堂序成り刪定も出来候はば、中谷より足下へ贈らるる筈に付き、届き候はば願の事御取計ひ下さるべく候。
という。序は斎藤拙堂、跋は久坂玄随とまで定めたのである。松陰の名が入らないのは、罪余の身であるから謹慎したのである。
計画は進んで、六月十九日付け久坂玄随宛書簡には、
口羽へは絶えず往復、口羽の識見益々進み、詩眼大いに進む。清狂稿論定は口羽へ託し候。跋は兄早々御認め然るべく候。松洞が貌せし図を巻首へ出したし。刻手彼れ是れ撰び置き候様御相談下さるべく候。蕭海、伝を作る筈、是れは像の傍へ附け置くべし。中谷へ託し拙堂へも選択と叙とを頼み置き候。江戸にて藤森へと(ママ)も一叙を乞うては如何、是れも清狂生前の知己なればなり。委細は中谷より申上げ候筈なれども、思ひ出し候所丈け書附け置き候。御考合下さるべく候。淡水へも御相談下さるべく候。
という。口羽徳祐に詩の選択や本文校訂を任せ、松浦松洞に肖像を描かせ、土屋蕭海に伝を作らせる。拙堂にも選定の助力を頼む。志士としても名高い藤森弘庵にも序を頼みたい。といった按配である。松陰たちが出版に不慣れではないことを窺わせる計画ぶりである。
七月六日、久坂玄随宛書簡には、
蕭海の月性伝、至極名文出来候。僕も書事一篇認め候、相替らず粗鄙。 一昨夜、蕭海・秋良来る。
とあり、蕭海の「浮図清狂伝」が撰せられた。ここまでは順調に進んだのである。
|