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 しかし、やがて日米修好通商条約の調印を契機として安政の大獄が始まり、藤森弘庵は逮捕され、ついで十二月五日には松陰が投獄され、久坂玄随も元治元年(一八六四)七月十九日に禁門の変で戦死して、計画は頓挫してしまう。

 しかし松陰は、牢獄に入っても、『清狂吟稿』の上梓を気に掛けていた。安政
六年といえば、彼の死去の年であるが、その四月十四日、夜、松陰は「清狂師の帰郷を送る序」の跋(『清狂詩鈔』)を書していう。

 清狂素より詩名有り。手ずから吟稿三巻を定め、諸を家兄伯教の所に蔵す。清狂已に寂し、同志頗る梓 に上さんと謀る。其の多く時事に抵触するを以て、旋や復た遅回す。独り護国論一巻のみ、世に梓行
 す。是れ其の説法の大旨を論ぜし者なり。清狂素より自から不朽の人物にして、他人の之を伝うるを借
 らず。然れども余 清狂に負う者多し。偶ま旧稿を読みて、愴然として懐うこと有り。因りて之を書
 す。己未四月十四夜、寅書。

 松陰は月性に負い目を感ずる所があり、その事も手伝って『清狂吟稿』を何とか上梓したいという焦りのようなものを抱いていたであろうことが、右の跋から感じ取れる。そして、自分に事故があった場合には代って出版してくれるよう兄の杉梅太郎に伝えておく事が十分にあったであろう。

 安政六年十月二十七日に松陰が刑死した後になるであろう、梅太郎は、自家に所蔵される『清狂吟稿』(安政二年の分)の稿本を版刻させる。それは、縦十三センチ、横十センチの中本型十行二十字の罫(けい)版を用いたものであった。前述したように、月性が愛用した罫版は、まさに十行二十字詰めであるから、それは月性の版式を応用したものであろうと考えられる。こうして『清狂吟稿』は、『清狂詩鈔』と改題され、見返し(封面)には、「吉田松陰先生評/清狂詩鈔/松下村塾蔵版」と記されて、松陰没後の九年目、明治元年(一八六八)十月、大坂心斎橋唐物町、河内屋吉兵衛、京都三条通寺町西、吉野屋甚助、同四条通御旅町、田中屋治兵衛から売り出されるのである。

 さらに明治二十五年一月十日、大洲鉄然と天地哲雄の編輯した『清狂遺稿』二冊が京都市下京区寺町通四条上ル十八番地、田中屋治兵衛から刊行され、それは天保四年(一八三三)から安政四年に至るまでの詩を収めたものだが、その安政二年の分は、本文と松陰評ともに全く『清狂詩鈔』と同一であるから、
『清狂詩鈔』を利用したものと考えられるのである。それは、『維新の先覚 月性の研究』にも影印されて、広く利用できるようになったが、その出発点は松陰の出版企図に在ったのである。

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