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二 松陰の詩論
同年三月九日、野山獄に在った松陰は、月性(げっしょう)に書簡「浮屠清狂に与うるの書」を草した(『野山獄文稿』。『全集』第二巻。)。その冒頭には、
僕 上人を歆(うらや)むこと、ここに十年、而して遂に相見るに因縁無し。向(さき)に
辱(かたじ)くも上書(封事草書)の稿本を垂示せらる。一読して快と称し、覺え
ず案を拍つて曰く、「方外に寧(な)んぞ此の時務を知り国事を憂うるの奇男子
あらんや」と。
とあって、今度は「封事草書」が松陰の元に届けられたのである。この書簡においては、松陰は月性の憂国者であることは評価しているものの、彼が著わした『封事草書』の「天子に請いて幕府を討つ」という討幕論には反対し、災異と時事の結合論に賛成しなかったことは、既に村岡繁「月性と吉田松陰」(三坂圭治監修『維新の先覚 月性の研究』昭和五十四年五月刊所収)に述べられているので、ここには取り上げない。
やはり同年の九月下旬であろう(山口県版『松陰全集』第七巻では、この書簡を安政二年十月頃の物とするが、私は、次に記すように同年十月一日から月性の吟稿を読み出していることから考えて、この書簡は、それより前の九月頃に記されたもの、と考える)、松陰は月性から詩集に収めるべき詩を撰ぶよう依頼されたが、一旦はこれを断っている。その理由を月性宛て書簡に次のように述べる。
鈔記の任、僕 其の人に非ず、敢えて謝辞す。僕 虚謙を為す者に非ず、文詩に於て実に見解無きな り。僕 生平志す所、文詩に在らず、故に未だ嘗て精意ならず。後に韓文の極めて大開大闔(だいか いだいこう)なるものを読みて之れを喜び、是れより文に段落あり、章法あるを知りたれども、而も 未だ敢えて力をこれに致さず。幽囚来始めて好んで文を作る。然れども読書抄書を以て主と為し、文 に至りては特に余事、乃ち之れを為るのみ。文已に然り、況や詩をや。
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