過去の投稿月別表示

[ リスト | 詳細 ]

2019年05月

← 2019年4月 | 2019年6月 →

全6ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6]

[ 前のページ | 次のページ ]

九月二十二日、「毀誉は外に在る的(もの)なれば、安(いず)んぞ能く避け得ん。只だ自修何如(いかん)を要するのみ」と抄録されているのは、『伝習録』下の五五の本文であり、毀誉褒貶にこだわることなく、修業すべきことを説いたものであることに、松陰は感銘したのであろう。この毀誉褒貶にこだわらない、という態度は、その後の松陰の過激な行動に通じている所がある。

同じく九月二十三日、『伝習録』を読み、「時々刻々、須らく一棒一條の痕、一掴一掌の血なるべし」(下、一三一)を抄録している。これは、聖人とならんとする心を立てるためには、四六時中、棒で打たれてその痕が付き、張り手を受けて手のひら様の血が付くほどの覚悟を持ってこそ、陽明の講話を聴くことができる、茫々と日を過ごしているのでは、一塊の死肉のようで、打たれても何の痛痒も感じず、旧套から脱しられない、という意を表わす。松陰は、日々刻刻、血の滲むような精進ということに感銘して、これを抄録したのであろうが、その事は後年、松下村塾で生徒を教える際に参考にされていたかも知れない。

 かくして、九月十四日に葉山佐内から借りた『伝習録』三冊附一冊、『大學古本旁釈』一冊を、ほぼ十日間で卒業している。熱心に読んだと言えるのである。

   次に「吾の短を攻むる者は、是れ吾が師なり、師又た悪(にく)むべけんや」(中。周道通に答うるの書、七)を抄録しているのは、自分の欠点を指摘してくれる者は師とすべきである、の意に賛同したのである。

 九月二十一日、『伝習録』巻之中の示弟立志説・訓蒙大意・教約を読んでから、巻を手から放せなくなった。

 右の三条は、具体的に教授法を説くものである。「示弟立志説」は、文字通り、三弟の守文に対して、先ず聖人たらんことを求むる「志を立つる」ことを説く。「訓蒙大意」は、童子を教えるには孝悌忠信・礼儀廉恥をもって専務とすべきことを掲げ、具体的な教授項目として『詩経』を歌い、礼を習わせ、書を読まさせることを提示する。「教約」には、右の三つの教授項目の更に具体的な方法を説く。という分けで、これら三条は、現今の教育学に相当する内容のものであり、それが松陰を喜ばせたのであろう。即ち松陰の教育学者的側面を大いに刺激したのであり、後年、松下村塾で教導する際にそれが活かされて行くことになったであろう。

この日は、更に『伝習録』下、一の、正徳十四年(一五一九)、門人陳九川が広西省南昌県において王陽明に会見した際の「先生兵務倥偬(こうそう)、隙に乗じて講授す」という状況説明を抄録している。時に陽明は、朱宸濠の反乱を聞いて義兵を起しており、兵務繁多であったが、わざわざ来訪した門人のために講学したのである。松陰は、そうした陽明の知行合一、文武両道ぶりに感じたのであろう、その事を簡潔に説明している十字を特に抄録したのである。

吉田松陰と『伝習録』

嘉永三年(一八五〇、二十一歳)九月十四日、肥前の平戸に到着した吉田松陰は、藩の家老であり陽明学者でもある葉山佐内(五十四歳)の宅に至り拝謁し、その命によって紙屋という所に宿泊する。そして明の王陽明の『伝習録』を借りて、抄録することを始める。

この抄録から松陰が『伝習録』のどの部分を肝要としていたか、換言すれば興味を抱いたかを知ることができる。また、その部分を抄録した理由をも推測することができる。ただし、それは短い原文を挙げているだけで、それを抄録した理由などに至っては全く説明が無いので、あくまでも推測に止まる。しかし、これを推測することは、この時期の松陰の興味や志向を知る手掛かりになるので、避けて通ることはできない。以下に、順次に抄録部分を挙げ、抄録した理由を推測してみよう。

九月十七日、『伝習録』を読み、この時期の日記である『西遊日記』(『吉田松陰全集』第九巻)に抄録している。僅かに「記誦・詞章、功利・訓詰」とだけ抄録しているのは、巻之上、四九の、「後世の儒者は又只だ聖人の下一截(かいっせつ)(浅近な事蹟)を得て、分裂して真を失い、流れて記誦・詞章、功利・訓詰と為り、又卒(つい)に異端たるを免れず」というのに拠ったのである。儒者が経世済民を忘れて文辞にのみ耽る風潮が松陰の当時の状況にも該当すると考えて抄録したのであろうか。

 九月十九日、王陽明の『伝習録』読むと断って、巻中「人の学を論ずるに答うる書」五の、

蓋し「天を知る」の知は、知州・知縣の知の如し。知州は則ち一州の事は、皆己れが事なり。知縣は則ち一縣の事は、皆己れが事なり。是れ天と一たる者なり。

を抄録している。松陰がなぜ長い五の文章の内からこの部分を抄録したのか、その理由は推測し難いが、五は「心を尽くし、性を知り、天を知る」という句を何回も引くことに見られるように「知」ということを問題としているので、その「知」の意味を把握する手掛かりの要所として、この部分を抄録したのであろう、と考えられる。ここでは、知州・知縣という場合の「知」と同義だとするが、それは己の所管領域全体を統括する、というほどの意味である。つまり天と一体になる、というほどの意味で用いられていようか。そのような「知」の捉え方を抑えておくために抄録したのであろう、と考えている。

 しかし、やがて日米修好通商条約の調印を契機として安政の大獄が始まり、藤森弘庵は逮捕され、ついで十二月五日には松陰が投獄され、久坂玄随も元治元年(一八六四)七月十九日に禁門の変で戦死して、計画は頓挫してしまう。

 しかし松陰は、牢獄に入っても、『清狂吟稿』の上梓を気に掛けていた。安政
六年といえば、彼の死去の年であるが、その四月十四日、夜、松陰は「清狂師の帰郷を送る序」の跋(『清狂詩鈔』)を書していう。

 清狂素より詩名有り。手ずから吟稿三巻を定め、諸を家兄伯教の所に蔵す。清狂已に寂し、同志頗る梓 に上さんと謀る。其の多く時事に抵触するを以て、旋や復た遅回す。独り護国論一巻のみ、世に梓行
 す。是れ其の説法の大旨を論ぜし者なり。清狂素より自から不朽の人物にして、他人の之を伝うるを借
 らず。然れども余 清狂に負う者多し。偶ま旧稿を読みて、愴然として懐うこと有り。因りて之を書
 す。己未四月十四夜、寅書。

 松陰は月性に負い目を感ずる所があり、その事も手伝って『清狂吟稿』を何とか上梓したいという焦りのようなものを抱いていたであろうことが、右の跋から感じ取れる。そして、自分に事故があった場合には代って出版してくれるよう兄の杉梅太郎に伝えておく事が十分にあったであろう。

 安政六年十月二十七日に松陰が刑死した後になるであろう、梅太郎は、自家に所蔵される『清狂吟稿』(安政二年の分)の稿本を版刻させる。それは、縦十三センチ、横十センチの中本型十行二十字の罫(けい)版を用いたものであった。前述したように、月性が愛用した罫版は、まさに十行二十字詰めであるから、それは月性の版式を応用したものであろうと考えられる。こうして『清狂吟稿』は、『清狂詩鈔』と改題され、見返し(封面)には、「吉田松陰先生評/清狂詩鈔/松下村塾蔵版」と記されて、松陰没後の九年目、明治元年(一八六八)十月、大坂心斎橋唐物町、河内屋吉兵衛、京都三条通寺町西、吉野屋甚助、同四条通御旅町、田中屋治兵衛から売り出されるのである。

 さらに明治二十五年一月十日、大洲鉄然と天地哲雄の編輯した『清狂遺稿』二冊が京都市下京区寺町通四条上ル十八番地、田中屋治兵衛から刊行され、それは天保四年(一八三三)から安政四年に至るまでの詩を収めたものだが、その安政二年の分は、本文と松陰評ともに全く『清狂詩鈔』と同一であるから、
『清狂詩鈔』を利用したものと考えられるのである。それは、『維新の先覚 月性の研究』にも影印されて、広く利用できるようになったが、その出発点は松陰の出版企図に在ったのである。

  七 『清狂詩鈔』の出版

これほどにまで月性に信頼を寄せ、親交があったのだから、松陰および松下村塾中の者が早速に月性の詩集、即ち『清狂吟稿』を上梓することを企画するのは、当然すぎることだ。松陰は、安政五年六月一日、門弟の久坂玄随宛書簡に、

清狂吟稿二冊上梓して天地間に留め度しと同志中決議し候。口羽・久保等其の事を主どり候。叙は拙堂ヘ託する積り、中谷の受合なり。跋文は足下に若くはなしと一統申す事に付き、御考案成さるべく候。拙堂序成り刪定も出来候はば、中谷より足下へ贈らるる筈に付き、届き候はば願の事御取計ひ下さるべく候。

という。序は斎藤拙堂、跋は久坂玄随とまで定めたのである。松陰の名が入らないのは、罪余の身であるから謹慎したのである。

計画は進んで、六月十九日付け久坂玄随宛書簡には、

口羽へは絶えず往復、口羽の識見益々進み、詩眼大いに進む。清狂稿論定は口羽へ託し候。跋は兄早々御認め然るべく候。松洞が貌せし図を巻首へ出したし。刻手彼れ是れ撰び置き候様御相談下さるべく候。蕭海、伝を作る筈、是れは像の傍へ附け置くべし。中谷へ託し拙堂へも選択と叙とを頼み置き候。江戸にて藤森へと(ママ)も一叙を乞うては如何、是れも清狂生前の知己なればなり。委細は中谷より申上げ候筈なれども、思ひ出し候所丈け書附け置き候。御考合下さるべく候。淡水へも御相談下さるべく候。

という。口羽徳祐に詩の選択や本文校訂を任せ、松浦松洞に肖像を描かせ、土屋蕭海に伝を作らせる。拙堂にも選定の助力を頼む。志士としても名高い藤森弘庵にも序を頼みたい。といった按配である。松陰たちが出版に不慣れではないことを窺わせる計画ぶりである。

七月六日、久坂玄随宛書簡には、

蕭海の月性伝、至極名文出来候。僕も書事一篇認め候、相替らず粗鄙。 一昨夜、蕭海・秋良来る。
とあり、蕭海の「浮図清狂伝」が撰せられた。ここまでは順調に進んだのである。

全6ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6]

[ 前のページ | 次のページ ]


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事