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九月二十二日、「毀誉は外に在る的(もの)なれば、安(いず)んぞ能く避け得ん。只だ自修何如(いかん)を要するのみ」と抄録されているのは、『伝習録』下の五五の本文であり、毀誉褒貶にこだわることなく、修業すべきことを説いたものであることに、松陰は感銘したのであろう。この毀誉褒貶にこだわらない、という態度は、その後の松陰の過激な行動に通じている所がある。 |
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次に「吾の短を攻むる者は、是れ吾が師なり、師又た悪(にく)むべけんや」(中。周道通に答うるの書、七)を抄録しているのは、自分の欠点を指摘してくれる者は師とすべきである、の意に賛同したのである。 |
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吉田松陰と『伝習録』 |
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しかし、やがて日米修好通商条約の調印を契機として安政の大獄が始まり、藤森弘庵は逮捕され、ついで十二月五日には松陰が投獄され、久坂玄随も元治元年(一八六四)七月十九日に禁門の変で戦死して、計画は頓挫してしまう。 |
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七 『清狂詩鈔』の出版 |



