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草場佩川との交渉

 嘉永三年十二月二十一日に、松陰は佐賀に入り、二十二日、千住大之助・中山に会い、藩校弘道館の寮生が二百八十人ばかりという話を聞いて、その盛んに感じている。二十三日、佐賀の名儒草場佩(くさばはい)川(せん)(六十四歳。弘道館教授)に会った。『西遊日記』には、ただ「夕方、長楽庵にて詩会有り、栄藩(佐賀藩)の諸彦と語る」とあるばかりであるが、以下に引く詩題に見るとおり、「諸彦」の内には佩川も含まれている。千住は、千住大之助。迎(むかえ)は、迎陽という。

当日、佩川が松陰に贈った詩は、次のようなものだ(『吉田松陰の遊歴』六十四頁所引)。

折衝樽俎勢縦横  樽俎(そんそ)に折衝(せっしょう)して 勢い縦横たり
大国威風不負名  大国の威風 名に負(そむ)かず
嬴得団欒一宵話  嬴(か)ち得たり 団欒(だんらん) 一(いっ)宵(しょう)の話
兼将武備結文盟  兼ねて武備を将(も)って 文盟を結ぶ

松蔭君は宴席で敵勢を挫く話をして、存分に尽きる事がない。
学芸が発達した萩藩の気風を示して、その声望に背かない。
私は君と一夕、団欒することができ、
同時に、軍備の話によって詩文の交わりをも結ぶことができた。

〇折衝樽俎 中国春秋時代、晋の平公は斉を攻めようとして、まず范昭に斉の様子を窺いに行かせた。そこで斉の景公は晏子の策通り范昭を宴席に招きもてなし、戦争を回避した故事(『晏子春秋』上)。

 起句は右に示したような故事を踏まえて、当日、松陰が弁舌に詩文に縦横の活躍をした様を詠じた。承句は、佩川が松陰に答えた文章にも言うのだが、蘐(けん)園(えん)派(徂徠学派)の山縣周南以来の漢学の伝統を松陰が負うていることを讃える。結句は、松陰が武備と文事とを兼ねる才であることを指摘したもの。老大儒が年少の若者に与えた言葉としては過分なほどの賞賛である。いくら松蔭が萩藩の兵学師範の身分を持っていたにしても。

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