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同書簡別紙には、また言う。

竹島・大坂島・松島、合せて世にこれを竹島と云い、二十五里に亘っている。竹島だけで十八里有る。三島とも人家は無い。大坂島には、大神宮の小祀が有り、出雲(いずも)地より海路百二十里ばかりである。産物は蛇魚類、良材が多く有り、開墾致すならば、良田美地もできるであろう。此島を、蝦夷の例に倣って開墾するよう命令なされ、下の者から願い出て、航海する者が有るようにしたい。

 前出増田論文などに言うように、当時、竹島と言えば、現在の鬱陵島を言ったようだが、当面それは問題ではない。差し当たっての問題は、松陰が当面この辺の無人島利用に就いて、あくまでも開墾論に止めていることである。前引の書簡資料では武力侵略は言表していないことである。

 松陰がこのような竹島進出論を展開するのには、当時の日本が置かれた国際状況が影響していよう。この安政五年六月十九日には日米修好通商条約が神奈川沖のポウハタン号で幕府とハリスとの間に調印された。ついで続々とオランダ・ロシア・イギリス・フランスとの間でも調印される。これが不平等条約で、松陰ら心ある日本人を激怒させていたことは言うまでもない。

このような洋夷の日本侵略の脅威を防ぐには、劣悪な日本の国力を高めるほかは無いが、その具体的な方策としては交易による経済力の充実と海外情報の導入による科学技術の進化とが最優先事項である。良い意味での富国強兵策である。かくて、松陰は竹島に眼を向けて行く。

 当時の心ある日本人ならば、このように日本の防御と発展を考えるようになるのは、当然自然の動きであって、そのように考えないならば、愚昧であり、安逸を貪っている、としか言いようが無い。こうした愚昧安逸な日本人が多いので、急進的な松陰は憤っているのだ。

 このような当時に於ける知識人の心性の働き方を理解しようとしないで、一概に松陰を侵略論者だと非難するような歴史学者の一群が存在するらしいが、後代からの高みに立った、そうした機械的な批判を行うよりも、まず試みるべきなのは、当時の状況に即してみての松陰ら心ある日本人の心性への理解であろう。

松陰の竹島進出論は、松下村塾の桂小五郎や久坂玄瑞、高杉晋作ら門下生に受け継がれた。松蔭没後の万延元年(1860)七月七日、桂小五郎と村田蔵六の連名による『竹島開墾の建言書』が幕府に提出されている(「竹島は島根の宝わが領土」web竹島問題研究所)。

 結果としては、この建言書は不許可となったが、土佐の坂本龍馬と海援隊による竹島開拓構想へとつながってゆくという(ブログ「賭人がゆく」(二〇一五年二月十八日)「松下村塾と竹島開拓」考)。この事は別に調査考証されるべき一問題である。





   

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