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七月二十日に佐久間象山に入門していたことは既に述べたが、嘉永四年九月二十七日付け杉梅太郎宛書簡には、
節季(せっき)、艮齋・山鹿。佐久間、各の、一分宛(ずつ)入り申し候。
と、節季の挨拶として安積艮斎・山鹿素水と並んで象山へも一分持参することを述べているから、相変わらず通学しているのである。
嘉永四年年十月二十三日、玉木文之新宛書簡には、
真田侯藩中佐久間修理と申す人、頗る豪傑卓異の人に御座候。元来(佐藤)一齋門にて経学は艮齋より良かりし由、古賀謹一郎(茶渓)いへり。艮齋も数々(しばしば)是れを称す。今は砲術家に成り候処、其の入塾生、砲術の為めに入れ候ものにても必ず経学をさせ、経学の為めに入れ候ものにても必ず砲術をさせ候様仕(し)懸(か)けに御座候。西洋学も大分出来候由。会日ありて原書の講釈いたし申し候。一遍やらきき申し候。
と、象山を随分評価するようになっている。オランダ語の原書の講釈も一度聞いているのである。
嘉永四年十月二十八日付け杉梅太郎宛書簡にも、
奥平侯は佐久間修理信仰の由にて、西洋備(そなえ)調練、毎々御下屋敷にて之れあ
る由。また文武とも稽古の為めにのみ都下へ出で、先生家へ入塾いたし居
り候もの、孰れの藩にも多く之れあり候。
と、豊前中津藩主奥平昌服(まさもと)が象山を信奉している状を述べ、諸藩の書生が象山の塾へ入門していることを報告している。松陰の象山への評価は確乎として固まっていくのである。
十一月八日、杉梅太郎宛てに書いた書簡に、
此の節、佐久間修理、奥平侯の為めに上総国姉崎へ大砲ためし打方、小銃
備等稽古に参り、未だ帰らず候事。
砲 ホーイツスル モルチール 十二ポンドガラナーデ 六ポンドガラナーデ
右の通りの由。
とあり、象山の姉崎行を報告している。砲名を種々挙げているのは、象山が試し打ちしているそれを挙げたと思われる。
嘉永六年九月十五日付け杉梅太郎宛書簡には、
佐久間象山は当今の豪傑、都下一人に御座候。朱に交はれば赤の説、未だ
其の何に因るを知らざれども、慷慨氣節、学問あり、識見あり。(藤森・
塩谷・羽倉など、皆国体を知れる者。大義を辨へし者、象山尤も其の人物
なり。
と、象山を最高に評価するに至る。
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