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2019年08月

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 次いで、海外事情探索の方法は、ジョン万次郎の漂流を参考にすべきことを詳細に説く。

すると、土佐の漂流民万次郎が幕府の御召出しに預かり、御普請役にお取立された(嘉永六年)と承けたまわり、心中窃かに喜んだのは、「これまで、いずれの国へ漂流しても外国へ漂流とさえ言えば、その者は終身禁錮されるという御法であるが、万次郎ことは、メリケンへ漂流いたし、彼方に於て少しく書物を読んだという理由を以て御召出しに成った。けれども万次郎というのは偏鄙の地に育った、猟師の子であって、和漢の文字をも心得なく、殊に幼年にて漂流したので、日本の普通の言語さえ差支えが多いほどで、御取立に預ったからといって、大事の御用には立つまい。それならばこの時期、学才がある有志の士が彼の地に渡り、その形勢事情に心を付け、かたわら砲術・兵法・航海の技を学び、二、三年にして帰朝するならば、幕府の御重宝にどれほど成ることか。万一、幕府にて御取用いが無くとも、皇国全体の利益は少なくあるまい」と思い付き、幸いに吉田生は、この節、逆境に居り、何がな功を建て、帰参の願いが叶うよう望んでいる事を熟知しているので、見込の次第を語ってみたところ、当人は骨髄に徹し、いかにもと思っている様子で、私に
「事を謀って見たいです」
と申すので、私が言ったのは、
「とにかく万次郎は此の節の手本であるから、漂流というのでなくては、幕府の御法が改まらぬ間は叶うまい。しかしながら漂流する事は九死一生の至難事であって、天運と人才に係っていると思われる。志があり才がある人でなくては、たとい漂流したとても世の益には成らない。人才に係っているというのは、このような分けである。有志有才の人があったとしても、風に放たれるのでなければ、この国の小舟で以て巨海を渡る事はできず、さて、そのような暴風が必ず起るということは、あらかじめ定め難く、また、その暴風には覆溺(ふくでき)の患いが全く無いとは言えない。天に係っているというのは、こういう理由だからである。とは言うものの、この御時節、天がこの皇国に幸いして下さらば、望む所の風も起り、無難に漂流もできよう。五島列島辺にては風の為に乍浦(さほ)(中国浙江省嘉興市乍浦鎮)辺の漁人が此の方へ来ることも、この方の漁人がかしこに到る事も、一年に五、六度は有るということを聞いている。

この頃、清の天徳の乱(太平天国の乱)も、あれこれ風聞はあるけれども、確かなることは分りかねる。昔、元のフビライが志を得たところ、我に弘安の乱が生じた。唐山の兵乱は我が国に甚だしい開係もあるから、これまた差向き探索したく、唐山地方にさえ漂着できれば、彼の地方にはメリケン等の船の往来が断えず有るだろう。それならば志しているカリホルニヤ、ワシントン辺に至る事も容易であろう。但し幕府には御法もあるから、いづれにしても万次郎に傲うということを忘れるな」
と申したところ、吉田は、
「いかにも心得ました」
と言って、慨然として旅装を整え、

こうして、象山の説に発憤した松陰は、海外万国の形勢情実を観察することこそ過ちを償う方法だ、と考えるようになる。つまり象山は、嘉永六年九月中旬頃に松陰に海外視察の動機付けを行い、松陰またこれに答えて国禁を破る大望を抱くようになったのであろう。

同書簡別紙には、また言う。

竹島・大坂島・松島、合せて世にこれを竹島と云い、二十五里に亘っている。竹島だけで十八里有る。三島とも人家は無い。大坂島には、大神宮の小祀が有り、出雲(いずも)地より海路百二十里ばかりである。産物は蛇魚類、良材が多く有り、開墾致すならば、良田美地もできるであろう。此島を、蝦夷の例に倣って開墾するよう命令なされ、下の者から願い出て、航海する者が有るようにしたい。

 前出増田論文などに言うように、当時、竹島と言えば、現在の鬱陵島を言ったようだが、当面それは問題ではない。差し当たっての問題は、松陰が当面この辺の無人島利用に就いて、あくまでも開墾論に止めていることである。前引の書簡資料では武力侵略は言表していないことである。

 松陰がこのような竹島進出論を展開するのには、当時の日本が置かれた国際状況が影響していよう。この安政五年六月十九日には日米修好通商条約が神奈川沖のポウハタン号で幕府とハリスとの間に調印された。ついで続々とオランダ・ロシア・イギリス・フランスとの間でも調印される。これが不平等条約で、松陰ら心ある日本人を激怒させていたことは言うまでもない。

このような洋夷の日本侵略の脅威を防ぐには、劣悪な日本の国力を高めるほかは無いが、その具体的な方策としては交易による経済力の充実と海外情報の導入による科学技術の進化とが最優先事項である。良い意味での富国強兵策である。かくて、松陰は竹島に眼を向けて行く。

 当時の心ある日本人ならば、このように日本の防御と発展を考えるようになるのは、当然自然の動きであって、そのように考えないならば、愚昧であり、安逸を貪っている、としか言いようが無い。こうした愚昧安逸な日本人が多いので、急進的な松陰は憤っているのだ。

 このような当時に於ける知識人の心性の働き方を理解しようとしないで、一概に松陰を侵略論者だと非難するような歴史学者の一群が存在するらしいが、後代からの高みに立った、そうした機械的な批判を行うよりも、まず試みるべきなのは、当時の状況に即してみての松陰ら心ある日本人の心性への理解であろう。

松陰の竹島進出論は、松下村塾の桂小五郎や久坂玄瑞、高杉晋作ら門下生に受け継がれた。松蔭没後の万延元年(1860)七月七日、桂小五郎と村田蔵六の連名による『竹島開墾の建言書』が幕府に提出されている(「竹島は島根の宝わが領土」web竹島問題研究所)。

 結果としては、この建言書は不許可となったが、土佐の坂本龍馬と海援隊による竹島開拓構想へとつながってゆくという(ブログ「賭人がゆく」(二〇一五年二月十八日)「松下村塾と竹島開拓」考)。この事は別に調査考証されるべき一問題である。





   

同じ書簡の別紙では更に、

竹島論は、よくよく桂(小五郎)へ御相談なさるのが宜しい。秋(あき)良(ら)(敦之(あつの)助(すけ))の論は、考えすぎである。英夷が開きかけているというのならば、尚おさら宜しい。何分、一寸なりとも外へ張出さなければ、やって行けない。水軍を仕向けるというは、尚おさら愚論である。水軍にて行けば彼れも備えをする、商船で行けば彼れも商いをするなり。

という。竹島を根拠地として交易することで、少しでも外地へアンテナを広げなければ、海外進出の道は開けない、というのである。よほど竹島開拓論に執心なのである。しかも、あくまでも交易を選んでいる所が注目される。


 安政五年七月十一日付、桂小五郎宛て書状の別紙には、こうある。

  竹島開拓は、元禄度に朝鮮へ御引渡しの事があったに付き、むずかしくもあろうと此の地にても議論しております。しかし現在は大変革の際でございますから、朝鮮へ懸け合い、「今に至るまで空(あき)島(じま)に相成っております事は無益であるから、此の方より開きます」と申し遣わすならば、異論はあるまじく、もしまた洋夷どもが既に手を下して居る事ならば、なおさらまた閣(さしお)き難く、洋夷の根拠地となるならば、吾が長州に於て非常の難儀になろう。

しかし既に洋夷の所有と成っているならば致し方ないけれども、開墾を名分として渡海致してみるならば、これが即ち海洋雄略の手初めにも成りましょう。蝦夷の事も、精々論じては見たいけれども、(長州の)政府の現状は、なかなかそれ程の雄志が無いので、こればかりが嘆息の至りでございます。

 元禄度に朝鮮へ御引渡しの事があったというのは、幕府が一六九六(元禄九)年一月二十八日、「竹嶋(=鬱陵島)・松嶋(現在の竹島=独島)」を朝鮮国領土として認めて大谷・村川らの渡海を禁止し、一件落着した事実(「元禄竹嶋一件」)をいう(ネットに掲載された、増田郁子氏「竹島‖独島問題 日本政府の主張は正しいか」等。但し、その結論に関しては徳田は判断停止をしておく)。

しかし、松陰の当時は無人島になっていたようで、松陰はそうした事情を考慮し、朝鮮とも交渉した上で、開墾したら如何であるか、と主張する。この「朝鮮へ懸け合い」という松陰の配慮が大切なのである。そして、「海洋雄略の手初め」(原文は「航海雄略の初め」)とは、海外雄飛の第一歩という意であるが、これは必ずしも武力侵略を言っているのではあるまい。前の書簡で「商船で行けば彼れも商いをする」という通り、交易による平和的な進出を言うのである。

 六月二十八日付け、久坂玄瑞宛書簡に、次のように言う。

  竹島が英夷の所有であるということは、甚だ信じ難いです。興膳が、近日も福原(周峰)まで申し来りました。北国船が常々往復し、その前後を通船致しておるけれども、何という事も無い様子であり、また英夷が既に拠っていたとしても構わず、やはり開墾を名分として交易をなし、その事によって外夷の風説を聞けることは尤も結構な事です。英夷が既に拠っているならば、とりわけ差し捨て難いことです。そうしなくては、いつ何時、長門などへ来襲するかも予測できません。寸板も海に降す能わざるの陋を破るには、是れらに及ぶ妙策はありません。黒龍・蝦夷は本藩よりは迂遠だが、それよりは竹島・朝鮮・北京辺の事こそ、本藩の急事に見えます。

 これに拠れば、竹島がイギリスの所有地になっているという説を当時唱える
者があったらしい。松陰は、それに疑義を呈し、また、もしそうだったとして
も、竹島開墾を名分としてイギリスと交易を行い、それに拠って外国情報を入
れたら良い、と佐久間象山流の柔軟な考え方を示している。ただし、他の国の
領分を開墾したりするのは違法になる、という考え方は、まだ持たなかったよ
うである。

「寸板も海に降す能わざるの陋」とは、『全集』注に、「ちょっと
した舟でも海に浮かべて渡ることができぬ悪習。鎖国令による渡航禁止をさ
す」というが、かつて海外渡航を試みた松陰は、竹島を根拠地として朝鮮・北
京辺にまで亘る範囲の海外進出を構想しているのである。こうした海外進出論
は、後述の桂小五郎の継承に見られるように、明治時代に唱えられる考え方の
先駆を為すものである、とも言えよう。

  興膳昌蔵は、萩藩の支藩である長府毛利藩の医家である。松陰とは直接の面識はなかったが、昌蔵の竹島論に賛成した松陰が、その領有策を江戸にいる桂小五郎に寄せ、幕府の許可を得るように運動させようと図ったことを表わす書簡である。

蝦夷(北海道)は、ロシアなど諸外国との緊張が高まった(安政二年、一八五五)には、渡島(おしま)半島の一部を除いて幕府の天領とされているが、松陰は、この蝦夷同様に竹島を幕府の天領として、国姓爺こと鄭成功が台湾を治めた事と同様に日本が治める土地にしたい、と考えた。そして、比較的高く評価している勘定奉行の川路聖謨から提案させたら、幕府も認めるのではないかと、楽観的に構想した。

やがて江戸に到着するはずの久坂玄瑞(松陰の妹の聟)にこの構想を知悉させているから、桂小五郎(後の木戸孝允)と協力して、これを川路など幕府の要路者に伝えてくれ、と言うのである。

それは竹島を萩藩、ひいては日本が朝鮮・満州に開拓の手を伸ばす根拠地とする、という構想に基づいているのである。

 同年二月二十八日付、久坂玄瑞宛書簡にも、次のような竹島に関する発言がある。

  竹島論は、公然と上書するに如(し)くべからずと存じ候。(松浦)松洞も同説なり。

 やはり玄瑞に対して、江戸に到着したならば、秘密にではなく公然と竹島開

拓論を幕府に向かって上書するに越したことはない、と勧告しているのであ

る。画家の松浦松洞も同意見であった。

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