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吉田松陰の竹島開拓論

 臨時に「吉田松陰の竹島開拓論」を設けます。

  松陰の安政五年(一八五八)二月十九日付け、桂小五郎宛書簡に言う。

拙案には六十六国、とても手の下し所なき次第に相成り候やと覺え候。

ここに一名の利奇男子(聡い篤志家)、長府人興膳昌蔵と申すものあり。竹島開墾の策あり。

この段、幕許を得、蝦夷同様に相成り候はば、異時、明末の鄭成功の功も成るべくかと思われ候。

此の深意はさて置き、幕吏変通の議、興利の説、今日の急に候えば、竹島開墾くらいは難事に非ざるべし。是れ一御勘定の主張にて行われ申すべくと黙算仕り候。

委細、玄瑞、存知の事に付き御運籌下さるべく候。天下無事ならば幕府の一利、事あらば遠略の下手は吾が藩よりは朝鮮・満洲に臨むに若くはなし。

朝鮮・満州に臨まんとならば竹島は第一の足溜なり。

遠く思い近く謀るに、是れ今日の一奇策と覺え候。




   なお、この解説は、次回に廻します。

  次に、松陰が功を立てたがっている事情と、ペリー来航の件を述べる。

ところが、一昨年中(嘉永五年十二月)、遊歴の事に由って落度が有り、知行(ちぎょう)を奪われました。もっとも萩御城下、江戸御屋敷の出入(でいり)の免許はあります。十年の家学修行を申し付けられた(嘉永六年正月)という事で、その後もよく宅へ参り、出精致いたしておりました。然るに去夏(嘉永六年六月)、メリケンの事件(ペリー来航)が出来し、本邦開闢(かいびゃく)以来、未曾有(みぞう)の体(てい)たらくにて、私においても慷慨悲憤に堪えず、差当り敵愾(てきがい)(敵に対抗する)の計策を考えましたが、諸事皆手後れと成り、どうにも手の付けようがありません。その儀を認(したた)めましたところ、事は行われない様子で、残念に存じていました。

 米国のために日本が侮辱ばかりされる状況に悲憤慷慨しているのである。そこで、次に、海外事情探索の方法を実に具体的に詳細に説くのである。

しかしながら、「七年の病に三年の艾」という文句通り、当今にて辺備の急務は、彼(米国)をよく知るより先なるはなく、彼を知るの方略は、人才を選び、彼(か)の地方(アメリカ)に遣わし、形勢事情をまのあたり探索させ、火兵の術、水軍の方、海岸の固め、城塁の制等も、書伝ばかりにては何分に埓があかず、往々、靴を隔てゝ痒き所を掻くの歎を免れないから、とにかく松陰を遣わす道を開くより外は無いと存じ、その策をさる要路の御方へも申し試み、川路司農(川路聖謨(としあきら))の御取次を以て福山侯(阿部正弘。老中)へ奉った上書にも、その儀を認(したた)めたが、事は行われない様子で、残念に存じていました。

 この段は、洋夷への対策として松陰を米国へ遣り、海外事情や砲術・兵法などを学ばせる方策を立て、川路聖謨(公事方(くじかた)勘定奉行・海岸防御御用掛)を仲介として福山藩主阿部正弘(まさひろ)(老中首座)へ上書したが、鎖国体制厳しきため、どうにもならない事情を述べた。「七年の病に三年の艾」とは、『孟子』離婁(りろう)上の言葉であって、事態が差し迫って慌てても間に合わない意、前もって準備しておく意である。

話は少し遡って、象山が松陰に海外事情探索を勧めた経緯を、象山の資料に拠って見てみよう。

その経緯が象山の側から詳述されているものが翌安政元年四月二十七日、獄中に在った彼が松代藩の山寺常山及び三村晴山に与えた左記の書翰である。彼は先ず松陰の人となりから説き起こす。

吉田生と申す者は、当年二十五歳の若者ではあるが、元来、長州藩の兵家の子にて、漢書(かんしょ)をも達者に読み下し、胆力もこれ有り、文才もあって、よく艱苦に堪える事は、生得の得手(えて)にて、海防の事には頗る思いを悩ませ、萩藩の兵制の事にも深く心を入れ、存寄(ぞんじより)の次第を書立て、その筋へ申し出でた事も度々(たびたび)有り、私の門人にも多くはいない、忠直義烈の士であります。

 右の段は、松陰の人となりを指摘したものである。それらは第一に、漢籍を達者に読み下すこと、漢文の読解力があることをいう。第二に、文才があること、漢詩文を作る力があることを述べる。第三に、胆力があり、よく艱難に堪えることを指摘する。第四に、海防兵制に関心が深く、藩にたびたび建策していることを説く。

 一方、象山は、九月十八日、松陰が出発に際して自分のもとに立ち寄った折に、松陰の健気な志に感じて、倉卒に彼を送る五言古詩を作って贈り、また松蔭に旅費の補助をねだられて、幾らかを与えた。その事は、翌安政元年四月二十七日、獄中に在った象山が松代藩の山寺常山及び三村晴山に与えた左記の書簡に、次のように回顧されていた。

(松蔭が)慨然として旅装を整え、少々の路費を無心し候につき、用だて遣し候。さて、つらつら存じ候は、此の九死一生の至難の義を当時の御為を存じ候えばとて、よくも速かに決心いたし候,健気なる若者にて候と感心に存じ、遂に詩も胸に浮び候故、一つには彼の志を賞し、一つには彼の心をますます堅くし候わん為に倉卒に認(したた)め遣わし候、其の詩、左の通りに候。

之子有霊骨  之(こ)の子(し) 霊(れい)骨(こつ)有り
久厭蹩躄群  久しく厭う 蹩躄(べつへき)の群(むれ)
奮衣萬里道  衣を奮う 萬里(ばんり)の道
心事未語人  心事 未だ人に語らず
雖則未語人  則(すなわ)ち未だ人に語らずと雖(いえど)も
忖度或有因  忖度(そんたく)すれば 或いは因有らん
送行出郭門  行(こう)を送りて 郭門を出ずれば
孤鶴横秋旻  孤鶴 秋旻(しゅうみん)に横たう
環海何茫々  環海(かんかい) 何ぞ茫々たる
五州自為隣  五州 自(おのず)から隣を為す
周流究形勢  周流して 形勢を究(きわ)めよ
一見超百聞  一見 百聞に超(こ)ゆ
智者貴投機  智者は 機に投ずるを貴(たっと)ぶ
帰来須及辰  帰来 須(すべか)らく辰(しん)に及ぶべし
不立非常功  非常の功を立てずんば
身後誰能賓  身後 誰(たれ)か能く賓(ひん)せん

〇韻字 群・人・因・旻・隣・聞・辰・賓(真部通押)

〇之子 この人。『詩経』によく見られる用法。その国風「桃夭(とうよう)」に「之(こ)の子(し)于(ゆ)き帰(とつ)ぐ」〇蹩躄 ゆっくり歩く様。〇奮衣 衣を払って塵を去る。遠く行く意。晋の左思の「詠史」第八首に「衣を振る千仞の岡に、足を濯う萬里の流れに」。〇孤鶴 孤独な松陰の姿の象徴。〇五州 アジア州・ヨーロッパ州・アフリカ州・アメリカ州・オセアニア州。〇一見の句 「百聞は一見に如かず」(『漢書』趙充国伝)に基づく。〇辰 良い時。〇賓 敬う意。

この人には優れた気骨が備わっており、
ぐずぐずしている連中をずっと嫌がっていた。
衣を払って遠い万里の彼方に行こうとするが、
心中の考えを人に語ろうとはしない。
人に語ろうとはしないけれども、
その考えを推測するに、拠る所があるのであろう。
出発を送って城郭の門を出ると、
たった一羽の鶴が秋の空を横切って行く。
日本を取り巻く四海は何と広々としているのか、
五大州がそれぞれに隣をなしている。
君は、あまねくそれらを廻って事情を極め知りたまえ、
一度、実際に見ることは、何回も聴くことよりも優るのだ。
聡明な者は好機会に乗じることを重んじるものだが、
帰国には良い時期を選びたまえ。
人並みはずれた功績を立てなければ、
死後に誰が敬うことだろうか。

 第一、二句には、松陰の決断の速さが述べられている。また、第七句から第十句にかけては、孤軍奮闘、たった独りで世界の五大州を廻ろうとするという、微小な者と雄大な物との対比が為されている。ただ、最後の二句は、何か結論を取って付けたような感がしないでもないのだが、それは倉卒に作ったからであろうか。

  

嘉永六年九月十八日、晴。松蔭は、長崎に向けて旅立つ。以下、『長崎紀
行』などに拠って記す。

この旅には深密で遠大な謀略がある。象山が当初これを勧め、友人の義所(鳥山新三郎)・長取(熊本藩士永鳥三平)・圭木(桂小五郎)もまた賛成した。その他の親友たちは一人もこの事を知る者がない。朝、桶街の寓居を発し、象山のもとに立ち寄って別れを告げ、品川の駅に出る。義所・長取が送って行く。圭木を待ったがやって来ず、悵然たること之れを久しうするが、きっぱりと袂を振つて去る。
 
一詩あり、象山師及び義所・長取・圭木に留め贈る。云わく。

名利無心世上求  名利 世上に求むるに心なく
一生不顧被人尤  一生 人に尤(とが)めらるるを顧みず
独悲駑駘報恩計  独り悲しむ 駑駘(どたい) 報恩の計
詭遇常為君父憂  詭遇(きぐう)して 常に君父(くんぷ)の憂(うれい)となるを

〇韻字 求・尤・憂(下平声十一尤)

〇詭遇 正しい方法に拠らずに、出世し富を得ること。『孟子』縢(とうの)文(ぶん)公(こう)下に「吾之が為に我が馳駆を範とするも、終日一も獲ず、之が為に詭遇すれば、一朝にして十を獲たり」と。ここでは、長崎に行き、ロシア使節プチャーチンの船に同乗して海外に雄飛しようとする行為を指す。

名誉や利益を世間に求める気は無い。
この人生を人に咎められようと構わない。
ただ悲しいことは、駑馬(どば)のような劣った才能で恩返ししようとするが、
正道を踏まないので、いつも父兄にかえって心配をかけることだ。
 松陰は自身でもそう言い、他からも狂愚の人のように思われているが、実は案外と自己を客観視できる人であり、自分の世人とは異なる性癖を認識できている人物である。この詩の転結句には、そうした処がよく表されている。プチャーチンの船に同乗して海外に赴くなどという行為は、国禁を犯すことであるから、父兄に迷惑を掛けることは自分でもよく承知していることであるが、先覚者である彼には、只今の国際的状況からは、そうした行動が奇矯に見えても採らざるを得ぬものだ、と考えられるのである。已むに已まれぬ行動なのだ。そうした心的経緯を、この詩は詠じているのである。

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