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市河氏所領のムラ
歴史時代に入ってからの栄村に関する記録の最も古いものは、「市河文書」であるが、それによると、栄村は土御門天皇建仁三年九月信濃国春近領志久見郷として現れている。志久見郷の範囲は広く、江戸時代から明治の初年までの志久見村のような狭いものではなく、町村合併前の堺、市川両村全部及び壷山、細越、石橋等豊郷村の一部も含まれていた。
鎌倉時代になって、中野西条の藤原助弘が寿永三年(1184年)に志久見郷の地主に補され、正式には建久三年(1192年)頼朝が征夷大将軍に任ぜられ幕府を開くに及んで同年十二月幕府は正式に助弘を中野西条及び志久見郷の地頭職に補任した。
その後、中野氏と市河氏との領地争いがあったが、鎌倉幕府の下知によって市河氏がこれに代わった。市河氏は南北朝の争いが起きるとこれに参加し、戦功をたて、恩賞に預っている。後醍醐天皇の御味方をして新田義貞、足利尊氏等の軍に馳せ参じ、ある時は足利尊氏の党である信濃国守護小笠原氏に属し、ある時は南朝に降れる直義にくみして尊氏党と戦うなど、時勢に従って変転する小豪族の自ら生きんが為の動きをした。市河氏が地方の小豪族でありながら数百年の間、家を保つことが出来たのは雪深き奥信濃の僻地を本拠地にもつこと、平和主義に基づき本当のにくみ合うような敵を作らなかったこと、さらに同属の結束を堅くする点に細心の注意を払い、こまごまと領域の分配を定め、公事、年貢等などの分担を示し、兄弟睦まじく総領の指図に従って行動すべきことを諭している。このため人々は安堵の生活が保たれていた。
飯山領から天領のムラへ
慶長三年(1598年)越後春日山城主上杉景勝が会津に国替えとなると市河氏は家臣団としてこれに従うことになった。そのため、その後志久見郷は飯山城主の支配を受けることになった。江戸時代になると享保二年(1717年)飯山城主の交代により本村をはじめ水内村、その他の諸村は飯山領から離れた。幕府直轄の天領に編入され明治維新まで数百年間変わることはなかった。その間、ほとんど遠距離のため、年貢上納、その他公用で代官所への往復はすこぶる苦労が多く、多額の経費を要した。そこで、支配代官所を近くの中野陣屋に変更願が高井・水内両郡十六箇所村から提出されることもあった。
検地はすでに行われておったが、地名として現れるのは、現存する資料では慶安五年(1652年)の田畑検地帳が最初である。そこに箕作村、志久見村ともに存在することから、検地によって単に土地を測定して面積や生産高を知るだけでなく、むしろ貢租、賦課の単位の一村一村を把握する必要から村の境界線を明らかにするいわゆる村切を行ったことがわかる。と同時にこれによって、初めて近世的村落が成立することになった。
村切によって志久見村は志久見集落を本村とし、周辺数集落を含んで極野まで広がっていた。また箕作村は箕作集落を本村として月岡、泉平、小滝、野口辺りから秋山郷までを含んでいた。長瀬・北野などの東部谷の数集落は箕作村に属していた。
箕作村の村高は306石余りで志久見村の283石5斗に比べ箕作村が多く、検地帳登録人は箕作村39名、志久見村51名で志久見村の方が多い。従って平均石高は箕作村が七石8斗、志久見村が5石5斗で箕作村の方多い。これは村石高が少ない上に検地帳登録人が十二名も多いことにもよるが、無高農民−下層人が志久見村には多かったことにもよる。
明治以後のムラ
明治四年十月、区制発布により本村箕作村、志久見村は高井第五十二区に属したが二年程で改正になった。明治七年七月、大小区制により、高井郡は十九、二十、二十一の三大区に分かれ、箕作村、志久見村は第二十一大区の中の第六小区に属していた。そして翌年の明治八年六月、箕作村、志久見村は合併して堺村と称することになり、戸長は島田三左ヱ門となった。
その後、明治十一年には千曲川西岸の白鳥村と平滝村が合併して下水内郡豊栄村に、森村と青倉村が合併して下水内郡北信村となる。
そして、明治二十二年のいわゆる町村合併によって豊栄村と北信村が合併して下水内郡水内村となった。
これより、堺村と水内村の二村による行政が施行され明治二十四年、千曲川西岸の道路改修工事が行われ、いわゆる県道谷街道が完成し、そして大正九年に国道十号線に昇格し、荷馬車の運行が頻繁になった。現在の国道117号線である。
大正に入り、十四年十一月に飯山鉄道(現JP飯山線)が開通し、森宮野原駅が設置されると交通体系は一変した。
昭和に入り三十一年九月二十二日、県の裁定により、水内村と堺村が合併して旧堺村が下高井郡から下水内郡に編入され下水内郡栄村となった。
昭和三十六年に懸案の百合居橋が永久橋に架け替えられ千曲川両岸の交通が容易になり、物心両面の結びつきがさらに強くなっていった。
昭和六十年八月新森宮野原橋、十一月に栄大橋、青倉橋開通に始まる大型架橋工事が次々と完成した。平成元年(1989年)九月青倉トンネル完成に伴い、同二年十月国道117号栄道路全線開通をみた。昭和五十七年上越新幹線開通と合わせて、栄村―東京間は2時間30分と時間的距離は飛躍的に短縮され、現在の栄村はかつての秘境の村ではなくなっている。
栄村の民族 ―― 箕作・極野を中心に ――
平成5年11月30日発刊 発刊者 社団法人飯水教育会 引用
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