気ままな日記

千曲川が信濃川に変わる場所からのブログ

市河文書と志久見郷

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太刀の刃長は79センチ
備前刀の傑作
上杉景勝所蔵品の名作三十五腰の中の最高の名刀で
昭和27年3月に国宝に指定された。
この国宝「太刀 無銘一文字」の購入に
上越市が動き出す。
現在は岡山県立博物館に寄託されている。(備前刀なので当然か・・・)
上越市の春日山を居城としていた両者の遺品は
この山城のみで、上杉景勝が豊臣秀吉の移封で会津、
そして徳川家康の移封でさらに米沢へ渡った
上杉の太刀が上越に戻ってくる意義は大きい。
新潟県にある国宝は火炎型土器だが
この火炎型土器といい
上杉家の国宝の太刀といい
おおいに栄村にも関係が深い。
上杉の家臣だった市河氏は
栄村志久見の内池館に居城があり、
平安時代から400年もの間、
この地を治めていた地方豪族であり、
戦国時代に
前段30年間は武田氏へつき、
後段17年間は上杉についた。
そして、上杉の家臣団として
住み慣れたこの地を景勝とともに
会津へ、そして米沢へ移ることになった歴史がある。

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市河氏の子孫は、その後、屯田兵として北海道の現在の釧路市へ渡った。


北野天満宮鰐口

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市河文書の動き

志久見の地を離れてから、江戸時代は米沢の地で市河氏の子孫によって大切に引き継がれた「市河文書」は、明治初年に米沢在住の伊佐早謙氏の手に渡るが、昭和に入ってその存在が一時不明となる。
栗岩英治氏は長野県史編纂の一環として六郡の教育会の援助を受け、昭和六年(1931)に伊佐早氏が亡くなってから3年間にわたってこの文書の所在を調査し、昭和初年から伊佐早氏の好意で酒田市の本間家に贈られ、その所蔵となっていたことをつきとめた。栗岩氏は本間家に懇願して、すべての文書をキャビネ版の写真に撮影し、これが後の『信濃史料』の校正に使用されたのである。
当時は戦国期になされた30巻の上品な藍色の軸装になっていた。それが昭和11年(1936年)56日に国の重要文化財に指定され、現在のような16巻の姿にもう一度装丁されて(財)本間美術館に所蔵されているのである。
この文書は平安時代末期から戦国時代末期におよび、嘉応二年(1170年)二月七日の平家某下文から永禄十二年(1569年)十月十二日の武田氏朱印定書までの146通におよぶ。
時代別では平安時代4通、鎌倉時代49通、南北朝時代7通、室町時代26通、戦国時代1通などである。その内訳は平安時代から鎌倉時代の文書の大部分は中野氏関係の文書であり、以後はすべて市河氏関係のものであるが、これを総称して「市河文書」と呼んでいる。
 この文書からは地方に土着してきた小領主の実態と、この間に信濃国で生起した大きな出来事を出所の確かな史料として知ることができるのである。本間美術館所蔵の市河文書を時代別に見ていくと、応永三十年(1423)まではほぼ連続しているが、それから145年もとんで永禄十二年(1569年)の文書が現われ、戦国の動乱期である30年間の文書が皆無なのである。
 これらは、信濃史料の調査で同じ米沢市の吉川吉蔵氏らのもとに18通が存在することが明らかになった。その後昭和44年十月、北海道釧路市史編纂の過程で、武田晴信の書状が元米沢藩主で屯田兵として当地に入植した市川良一氏宅に存在することが、信濃史料刊行会にもたらされたのである。
市川氏の曾祖父にあたる房熙氏(天保元年〜大正元年)は安政二年(1855)、十七歳で家督を継ぎ、明治維新の大変革の中で先祖伝来の文書・什器を手放し、意を決して明治二十三年(1890)六月陸軍の屯田兵となって米沢市門東町を引き払い、一族で北海道厚岸郡太田村に移住して開拓に従事するのである。その後明治二十六年には太田小学校の教員となり、以後数校に赴任した後、昭和十六年には同郡鳥取町(現釧路市鳥取)に転任し、その子の房成氏は鉄道員となり、良一氏は釧路市の松浦郵便局長を勤めた。
同家には曾祖父が入植の際持参した桐箱に納められた文書が伝えられ、それは先祖伝来の重宝であるので毎年大晦日には床の間に供え、お頭づきでお祭りをするのが恒例であったとのことである。
この中には小笠原長秀安堵状、武田晴信書状、上杉景勝宛行状など40通と本間美術館所蔵文書の控、藤原姓市川氏系図、常慶院由緒など7通の計47通の文書が入っており現在も釧路市の同家に保管されている。
この市川良一夫妻は昭和四十八年十月二十九日、先祖の故地である志久見を訪れ、その際、北野天満宮にも立ち寄られ、天正二年(1574年)「市河中」という銘のある鰐口も見ている。
釧路の「市河文書」は、その後良一氏によって釧路市立図書館に寄託され、昭和五十一年十二月九日には釧路市有形文化財に指定された。昭和五十三年に良一氏が亡くなり、文書は良一氏の子息の元に戻った後、釧路市在住の坂井進氏に譲られ、現在は坂井氏が市有形文化財として大切に保管している。    
 宮下健司先生 栄村公民館報寄稿文引用(平成14年)

昨日上田史談会の皆さんと交流会がありました。
月岡集落の裏山の仙当城に皆で登りました。
仙当城保存会はまだ発足して3年目ですが、
上田史談会は発足30周年を迎え、NHK大河ドラマ天地人の実現を
果たした立派な任意団体でした。
当村を治めた市河氏は後年上杉方についたわけで
市河氏と上杉家との関係も様々なお話をお聞きしました。
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市河氏内池館跡

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市河氏の館があったとされる志久見の内池館跡の位置は
自分の思いこみで
もっと写真左の山手の方にあったと
誤解していたが
この昔の写真で
館跡の位置が良くわかった!
石碑が現在建立されているが
そこは八幡様のあった場所だと勝手に思いこんで
勘違いしてました。貴重な写真です。

ムラの歴史変遷

市河氏所領のムラ
 歴史時代に入ってからの栄村に関する記録の最も古いものは、「市河文書」であるが、それによると、栄村は土御門天皇建仁三年九月信濃国春近領志久見郷として現れている。志久見郷の範囲は広く、江戸時代から明治の初年までの志久見村のような狭いものではなく、町村合併前の堺、市川両村全部及び壷山、細越、石橋等豊郷村の一部も含まれていた。
 鎌倉時代になって、中野西条の藤原助弘が寿永三年(1184年)に志久見郷の地主に補され、正式には建久三年(1192年)頼朝が征夷大将軍に任ぜられ幕府を開くに及んで同年十二月幕府は正式に助弘を中野西条及び志久見郷の地頭職に補任した。
 その後、中野氏と市河氏との領地争いがあったが、鎌倉幕府の下知によって市河氏がこれに代わった。市河氏は南北朝の争いが起きるとこれに参加し、戦功をたて、恩賞に預っている。後醍醐天皇の御味方をして新田義貞、足利尊氏等の軍に馳せ参じ、ある時は足利尊氏の党である信濃国守護小笠原氏に属し、ある時は南朝に降れる直義にくみして尊氏党と戦うなど、時勢に従って変転する小豪族の自ら生きんが為の動きをした。市河氏が地方の小豪族でありながら数百年の間、家を保つことが出来たのは雪深き奥信濃の僻地を本拠地にもつこと、平和主義に基づき本当のにくみ合うような敵を作らなかったこと、さらに同属の結束を堅くする点に細心の注意を払い、こまごまと領域の分配を定め、公事、年貢等などの分担を示し、兄弟睦まじく総領の指図に従って行動すべきことを諭している。このため人々は安堵の生活が保たれていた。

飯山領から天領のムラへ

 慶長三年(1598年)越後春日山城主上杉景勝が会津に国替えとなると市河氏は家臣団としてこれに従うことになった。そのため、その後志久見郷は飯山城主の支配を受けることになった。江戸時代になると享保二年(1717年)飯山城主の交代により本村をはじめ水内村、その他の諸村は飯山領から離れた。幕府直轄の天領に編入され明治維新まで数百年間変わることはなかった。その間、ほとんど遠距離のため、年貢上納、その他公用で代官所への往復はすこぶる苦労が多く、多額の経費を要した。そこで、支配代官所を近くの中野陣屋に変更願が高井・水内両郡十六箇所村から提出されることもあった。
 検地はすでに行われておったが、地名として現れるのは、現存する資料では慶安五年(1652年)の田畑検地帳が最初である。そこに箕作村、志久見村ともに存在することから、検地によって単に土地を測定して面積や生産高を知るだけでなく、むしろ貢租、賦課の単位の一村一村を把握する必要から村の境界線を明らかにするいわゆる村切を行ったことがわかる。と同時にこれによって、初めて近世的村落が成立することになった。
 村切によって志久見村は志久見集落を本村とし、周辺数集落を含んで極野まで広がっていた。また箕作村は箕作集落を本村として月岡、泉平、小滝、野口辺りから秋山郷までを含んでいた。長瀬・北野などの東部谷の数集落は箕作村に属していた。
 箕作村の村高は306石余りで志久見村の283石5斗に比べ箕作村が多く、検地帳登録人は箕作村39名、志久見村51名で志久見村の方が多い。従って平均石高は箕作村が七石8斗、志久見村が5石5斗で箕作村の方多い。これは村石高が少ない上に検地帳登録人が十二名も多いことにもよるが、無高農民−下層人が志久見村には多かったことにもよる。

 明治以後のムラ

 明治四年十月、区制発布により本村箕作村、志久見村は高井第五十二区に属したが二年程で改正になった。明治七年七月、大小区制により、高井郡は十九、二十、二十一の三大区に分かれ、箕作村、志久見村は第二十一大区の中の第六小区に属していた。そして翌年の明治八年六月、箕作村、志久見村は合併して堺村と称することになり、戸長は島田三左ヱ門となった。
 その後、明治十一年には千曲川西岸の白鳥村と平滝村が合併して下水内郡豊栄村に、森村と青倉村が合併して下水内郡北信村となる。
 そして、明治二十二年のいわゆる町村合併によって豊栄村と北信村が合併して下水内郡水内村となった。
 これより、堺村と水内村の二村による行政が施行され明治二十四年、千曲川西岸の道路改修工事が行われ、いわゆる県道谷街道が完成し、そして大正九年に国道十号線に昇格し、荷馬車の運行が頻繁になった。現在の国道117号線である。
 大正に入り、十四年十一月に飯山鉄道(現JP飯山線)が開通し、森宮野原駅が設置されると交通体系は一変した。
 昭和に入り三十一年九月二十二日、県の裁定により、水内村と堺村が合併して旧堺村が下高井郡から下水内郡に編入され下水内郡栄村となった。
 昭和三十六年に懸案の百合居橋が永久橋に架け替えられ千曲川両岸の交通が容易になり、物心両面の結びつきがさらに強くなっていった。
 昭和六十年八月新森宮野原橋、十一月に栄大橋、青倉橋開通に始まる大型架橋工事が次々と完成した。平成元年(1989年)九月青倉トンネル完成に伴い、同二年十月国道117号栄道路全線開通をみた。昭和五十七年上越新幹線開通と合わせて、栄村―東京間は2時間30分と時間的距離は飛躍的に短縮され、現在の栄村はかつての秘境の村ではなくなっている。
       栄村の民族  ―― 箕作・極野を中心に ――
       平成5年11月30日発刊 発刊者 社団法人飯水教育会 引用

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