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いつもいつも同じところばかり走っていては飽きがくるものです。 気分を変えるためにもあるところまで電車等で行ってから走る 「マラニック(マラソンとピクニックの造語?)」も楽しいものです。 ブロ友のKAZU氏は紀伊半島分割走というのをやっておられる。 行き帰りは電車で、前回途切れたところからまた走り出し、 紀伊半島を1周しようという壮大な計画だ。 練習にもちょうどいいし、うらやましいと思っていたところに、通勤で使っている 名鉄電車の広告が目に入った。 「東海道キャンペーンinあいち2008『ぶらりみてある記 トコトコ東海道』」 面白そうじゃん! 東海道を飛脚になって走ってみるのも悪くない。(愛知県内だけでもね) 今日の予定は愛知県内最東の「二川宿」まで行き西に向かって帰ってくるもの。 どこまで帰ってこれるか?息子「りゅう」が学校から帰ってくるまでがタイムリミットだ。 まずは電車で東海道線「二川駅」まで。 もう11時。3時半には帰らないと。。。電車だけでも時間かかりすぎ! ここからスタンプをもらうために「豊橋市二川宿本陣資料館」へ行く これから向かう方向と逆方向だったし、スタンプが有料施設の中にあるのが気に入らなかったが、 せっかくなので行ってみる(ネタのため?)。 でも、、行って良かった〜〜〜っ!! 受付のお姉さんにパンフを見せ、割引してもらう。 割引額はたった80円だが、ワシの質問に丁寧に答えてくれているとき、 あまりの熱の入りようで、お姉さんは席を立ち、こちらに乗り出してくる。 お姉さん、、、そ、そんなに前かがみになったら、、、 胸元が丸見えですって!! OH!モーレツ! 可憐なピンクの下着を前にワシは質問の答えを聞くどころではない。。。 その価値は「プライスレス!」 割引してもらうのが申し訳なくなりました。 そんなハプニング?もありましたが、真剣にここの資料館はおすすめです! ちょろっと見るつもりが、、はっきり言ってナメてました。充実しすぎです! 展示品は江戸時代の旅の様子が中心ですが、もっと時間をかけて見たかった。 江戸当時、二川から江戸まで3人の一行の旅費は現在の価値で約80万円くらいかかったそうですよ。 また改めて来ます。 隣接する本陣の建物は1850年頃の物で東海道で2ヶ所現存するうちの一つだそうです。 これもイイ! 広くて写真では伝えきれなかったので動画で。 その隣は民衆のための旅籠が復元してあります。 どれ、、、ワシも旅人。 足の埃など洗ってもらおうかの。。。 ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ いやあ、、、すっかり長居しすぎた。。。 えっ?もう11時45分? いかんげ〜! 隣の吉田宿までも行けるか怪しくなってきた。。。 急がねば! 長くなってきたので つづく。。。
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実践歴史
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国宝犬山城(愛知県犬山市)の城主だった、成瀬家の第12代当主で同市名誉市民の成瀬正俊氏が 4日未明、敗血症のため、東京都内の病院で死去した。77歳。東京都出身。 成瀬家は、江戸時代初期の成瀬正成を初代に、代々犬山城を所有し、 尾張藩主の補佐役である付家老を務めた。 犬山城は国内に残っている城郭で唯一、個人所有だったが、2004年4月に成瀬家から 財団法人犬山城白帝文庫に所有権が移管された。 学習院大文学部を卒業後、角川書店やテレビ朝日に勤務。俳人としても知られ、句集「星月夜」、 随想「とのさま俳話」など多数の著書がある。 4月5日付け中日新聞岐阜版より 葬儀情報部分一部省略 何年か前にNHKで夜中にやっている「アーカイブス」?で、 昭和40年代に放送されたと思われる番組をやっていて、そこでお姿を拝見した。 番組の趣旨としては、 「東京に住んでおられる成瀬の殿様を犬山にお迎えする地元商工会?の人々」 そんな感じだったのだが、興味深かったのは、やはり、お城を個人で持つ事の難しさである。 番組内で「江戸家老」と紹介されていたナニガシさんと 固定資産税のやりくりを相談している姿など、涙ものである。 12代も受け継いでこられた財産を手放した折は断腸の思いだったでしょうが、 それまでのご苦労を偲びながら 故人のご冥福をお祈りしたいと思います。
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司馬遼太郎著、国盗り物語によると、、、 この徒死の6月、美濃名物の洪水があった。 木曽川が氾濫し、頼芸の革手の府城も土塁から上を残したまま水面にうかんだ。 洪水嫌いの頼芸は参ってしまった。 「洪水からのがれる良い方法はないか」 この一言が頼芸の運命を変えた。 「この革手城からどこかへお移りあそばせばいかがでございます?」 頼芸は驚いた。むりもない。革手城は数百年の美濃の首都である。 庄九郎(道三)はいろいろと言葉を並べ、頼芸を説得した。 頼芸も段々と乗ってきた。 洪水と縁がなく、わずらわしいまつりごととも無縁の場所に移りたくなってきた。 「それがし、心当たりがござりまする」 「ほう、どこじゃ」 「枝広。。。」 司馬遼太郎著 国盗り物語2巻より(一部略) 枝広館のあった場所は今日では長良公園のある場所と思われる。 長良公園とは、 長良公園 当公園は、岐阜大学教育学部の移転に伴い、その跡地を県と市がそれぞれ折半により取得し、都市公園として整備した地区公園です。 岐阜市の長良地区にある公園。 国立岐阜大学旧長良キャンパスの跡地を利用。大学時代の木もいくつか残っている。 また、この公園を作る時には「城之内遺跡」発掘作業も行われ、洪水痕の地層の下から枝広館の痕跡が出土したそうです。
結局、現在は公園内に何も「枝広」関連の事は書いてありませんし、遺構もありません。 ちょっと残念ですが、仕様がないです。マイナーなところですし。 また、この周りは学校が多いです。公の施設が多いところって、何かの跡ってことよくありますよね! また、この公園は無料のフィールドアスレチックもありますが、 冬には広い敷地で「長良公園イルミネーション」が行われています。 高さ28mのメタセコイアの木をはじめ、園内の木々とオブジェが35万個の電球で飾られるそうです。 地元では結構有名です。 |
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=革手城(川手城)= 司馬遼太郎著、国盗り物語によると、、、 「庄九郎(道三)」は、鷺山城の土岐頼芸のとの酒宴の席で、二間(ふたま)向こうから長さ三間半の 槍で絵の虎の黒目が突けるか賭けをした。庄九郎が勝てば頼芸の側室「深芳野」を頂戴したい、負ければ腹を切ると。 しかも、勝って「深芳野」を頂戴したあかつきには、その代償として頼芸に美濃一国を 差し上げましょうと言い出た。 そして、庄九郎は、見事、虎の目を突き、「深芳野」を手に入れ、その約束として現在の国主土岐政頼を追い、頼芸を後釜に据えようと働くのである。 「庄九郎」は革手城の様子を調べられるだけ調べた。なにしろ革手城といえば、土岐氏の全盛時代、美濃、尾張、伊勢の三ヵ国百数十万石の鎮めとしてつくられた城館である。壮大な規模をもっている。 この城は、今では岐阜市南郊の高校のグラウンドになってしまっている。 城跡であることをかろうじて偲ばせるよすがとして、もちの樹があり、老樹といっていい。 樹のそばに「史蹟川手城址」という石碑が立っている。それだけである。 城をめぐって外濠の役をなしていたという境川も、いまは溝ほどでしかない。 が、庄九郎の見た革手城はちがう。なんといっても、府城である。 濠は深い。渡れそうもない。濠のむこうはお土居になっている。石垣ではなく、濠を掘った土をかきあげたものである。およそ、防禦力はない。 城内の建物は、どれをとっても華麗すぎ、およそ戦闘用建築物という実感が湧かない。 もっとも、平地にある大名の居館というのはこのころまではこの程度のもので、それが戦闘用として大きな進歩をとげるのは、庄九郎ののちの斉藤道三が稲葉山城(岐阜城)をきずいてからのことである。 (これはもろいな) それにもうひとつ、この中世風な旧式城館のよわいところがある。 城内や城下に、戦闘員が常駐していないことであった。高級武士たちは、みな知行地で小城を作って住んでいる。 城から使番が駆けつけたり、陣触れの法螺貝、太鼓がきこえ渡ってはじめて駈け付けるのである。 (それではこれからの時代に堪えることができぬ。攻防用のための一大巨城をつくる必要があろう) 庄九郎の脳中には、白亜で塗りこめた夢のような巨城がうかびあがっている。その城にくらべると、 現実の革手城は子供だましのようにみえる。 そして、庄九郎は頼芸との約束どおり、大永七年八月の明月の世、鷺山城下に五千五百の軍勢を集結せしめ、クーデターを起こすのである。クーデターは成功し、土岐政頼は越前朝倉氏をたよって落ち延びた。 かくて、土岐頼芸は美濃守護職となり、庄九郎は国主の執事となった。 また、庄九郎にとって幸運が舞い込んだ。加納城主、長井利隆が病床にあり、隠居したいため、長井の名跡と城を受け継いでくれないかと言ってきたのである。利隆には子がなかった。 庄九郎は養子という形になり、「長井新九郎利政」という名前にかわり、晴れて加納城主となった。 司馬遼太郎著 国盗り物語1巻より(一部略) と、ある。 司馬氏によると、ここも、遺構は何も残っていないらしい。。。 しかも、高校(数年前まで女子高)のグラウンドになってしまっているというではないか! 現地には徒歩にて取り付いた。 学校の周りを一周してみた。どこにあるのかわからん ↓その済美高校です これではいかぬ。。。と、地元民に金銀を渡し、情報を得る。 適当な野良仕事の婦人を捕まえる。が、わからぬと言うではないか。。。 おのれ!高校の隣に住んでいながら分からぬとは何事ぞ! 怒ってみても仕様がない、、、世間話をしているうち、 「そこの社長ならこの辺のことに詳しいで知ってござるかも」重要な証言だ。 社長のところへ案内してもらう。 そこは不動産屋であった。これなら期待できる!ご婦人、ありがとう! 場所を聞くだけのつもりだったが、「説明するのも面倒やで一緒についてったる!」と、 有難いお言葉。今度は社長の好意で案内してもらう。 たしかに不審者と間違われないように「誰か」と行きたかった面もある。 (社長!あの折は本当にお世話になりました!) 学校の中央を東西に横切っているカラー舗装の道路を入っていくと、、、 ↓ありました! これはわからん、、、しかも、カラー道路の入り口には柵が置いてあるので、 てっきり学校の敷地内かと。。。よう入りませんでしたわ! 通報されないようにと用心が過ぎたか?(平日昼間の訪問です) 社長に柵のことを聞くと「これは学校が勝手にやっとることやで!」と、言わっせた。 皆の者、安心せい! ↓この案内板も社長達が中心となって立てたそう。 さすがは地元の名士、面白い話を聞かせていただきました。 なんでも、案内板を立てたのも、盛り上がってるすぐ近くの「加納」地区への 対抗心もちょっとあったとか。 徳川家康が「革手城」の土まで全部「加納城」に持っていってしまって 何にもなくなってしまった「川手」が不憫で、、、とも。 さらに、70年代までは貴重な出土品(畑から勝手に出てくる器のかけらとか)があったらしい。 社長にはすっかりお世話になり、お礼を何度も言って、陥落した革手城をあとにした。。。 カラー舗装の道が目印じゃ! 道に置いてある柵が威圧感たっぷりじゃろう? くれぐれも通報されぬよう、各々方の健闘を祈る! 今回は加納城とセットで行きましたが、全工程5里ほど。いいトレーニングになりました! 地図リンク |
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=鷺山城= 司馬遼太郎著、国盗り物語によると、、、 庄九郎(斉藤道三)は「常在寺」の住職・日護上人のつてで日護上人の兄・加納城主、 長井豊後守利隆に仕える。 長井豊後守利隆は、家督騒動の時、次男の土岐頼芸(よりよし)を押し立て、敗れた。 敗れた次男頼芸は、「鷺山」に華麗な城館をつくり、歌舞音曲にあけくれている。 長井豊後守利隆は庄九郎の才を見込み、土岐頼芸に推挙しようと言ってくれたのである。 庄九郎と利隆は2頭、馬首をならべて加納から鷺山への街道を進みはじめた。 長良川を渡り、やがて鷺山の城下町についた。 城下町といっても、この小城の消費生活をまかなう程度の町家と農家が五十軒ほどかたまっている 程度である。 丘の上に白い白館がみえる。大手門は東面している。 二人は城に入った。 「贅美な建物でござりまするな」と、庄九郎は楼門を見上げた。 本丸、櫓、武者走りなどには、たっぷり油を入れて練りあげた白壁で化粧されており、 どの建物も青黒く焼しめた美濃瓦が、ずしりとのっている。 「小さいがいい城だろう」と、長井利隆はいった。 (いい城だ。この国を頂戴したあと、隠居でもするときに住もうか) ・・・ (別の日) 大手門を入ると騎馬五十騎を収容できるほどの平地があり、 すぐその上は岩盤をけずった石段になっている。 司馬遼太郎著 国盗り物語1巻より(一部略) と、ある。 たしかに、、、ここは、平地の中に唯一つ盛り上がるようにしてある、山というより丘のようなものである。 案内板によると、遺構は何も残っていないらしい。。。 ↓地元作成の案内板 この城の周りは道が狭く、取り付きが困難である。マーサ21に馬をつなぎ、徒歩にて攻めるのもまた良し。 できるだけ近くまで馬にて行きたい方のため、、、 ↓駐車場までの道のり ↓駐車場から攻めると、東面、、、大手門じゃ。 ↓大手門から登ったところじゃ 道三の居館があったところか?不明じゃ ↓西から攻めようとするときは注意が必要じゃ。心洞寺の門に偽装されておる。 ↓西の攻め口じゃ。ゆくゆく『心洞寺太子堂跡(3/3修正)』に出ようぞ。 ↓南面は小高い丘に登り、途中からは東面の道に合流じゃ。マーサから首尾よく直登するとここに出る。 その道は困難じゃが、、、 ↓北面は鷺山小学校前から攻める。ゆくゆく『心洞寺太子堂跡(3/3修正)』に出ようぞ。 ↓『心洞寺太子堂跡(3/3修正)』である。東面から登ると見ることはない。(以後の記述は3/4削除) ↓『心洞寺太子堂跡(3/3修正)』から頂上を望むあとは決戦である ↓頂上である。そんなに広くはない。石碑があるのみである。 低い山であるので、攻略は比較的簡単である。
各々方の健闘を祈る! 各方面からの攻略を紹介いたしたが、 やはり、駐車場があるので東面からの攻略をおすすめいたす。 今回は何度も登り降りしたので、いいクロスカントリートレーニングになりました! 地図リンク |



