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			<title>航空技術廠</title>
			<description></description>
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			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>航空技術廠</title>
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		<item>
			<title>B-29のコピー機　ツポレフ Tu-4</title>
			<description>&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-bd-93/butagakari11/folder/172962/65/1746865/img_0?1325710030&quot; width=&quot;560&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_800_523&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;Tu-4はソ連の航空機設計機関であったツポレフ設計局が、当時の指導者ヨシフ・スターリンの指示により開発したレシプロ4発爆撃機である。第二次世界大戦中にアメリカで生産された爆撃機B-29をリバースエンジニアリング（解体調査）によりほぼコピーした機体。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;スターリンは第二次世界大戦中にアメリカに対しレンドリース法によりB-29を供与するように要求したが、アメリカは重爆撃機をソ連に渡したくなかったため、拒絶されていた。そうした最中の1944年7月、8月及び11月に日本の九州及び満州国を爆撃した3機のB-29が機体の故障などによりソ連領内である沿海州に不時着した。搭乗員は抑留された後にアメリカに送還されたが機体はそのまま没収され、スターリンの命によりリバースエンジニアリングされた。そしてアンドレイ・ニコラエヴィッチ・ツポレフらにより解体した部品に基づく設計が行われ、1946年夏に完成したのがTu-4である。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;忠実にB-29をデッドコピーした機体といえるが、オリジナルがヤード・ポンド法の尺度で設計されていたため、メートル法に換算する際に誤差が生じ、さらに同じ材料が調達出来なかったためか機体重量がオリジナルよりも重く出来上がっている。スターリンから寸分違わぬコピーを厳命されていたので、没収したB-29についていた弾痕やそれの補修跡、あるいは製造ミスでリベット用として空けられた部品までもが全てのTu-4の機体に忠実に再現されているとのアネクドート（真相は不明だが、再現しないと命令無視として粛清される、だからといって弾痕まで再現すると兵器に対する不義として粛清される）がある。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;ただし実際にはTu-4とB-29にはいくつかの違いも認められる。まず、ターボチャージャーはコピーであったものの、エンジンはB-29に搭載されたR-3350のコピーではなく、ソ連製エンジンM-25（R-1820のライセンス生産）の流れを汲むASh-73TKであった。また、性能面では航続距離に大きな差がある。これはB-29の調査の際にインテグラルタンクのコピーに失敗したためとされている。前後通路や機銃塔の火器管制装置もコピー出来なかったとされる。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;運用・評価&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;1947年5月19日に初飛行し、8月3日にはモスクワで行われた航空記念日パレードで初めて披露されたTu-4はその後もエンジンやプロペラなどの改良が行われ、1949年半ばにはソ連戦略爆撃軍で本格的に運用された。後継機が登場する1950年代の終わりまで製造された。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;一方、アメリカ空軍は片道飛行の「特攻」であればTu-4にアメリカ本土への攻撃能力があることを理解してパニックに陥り、レーダーや地対空ミサイルなどの防空設備の開発を急ぐこととなった。まさに日本の広島・長崎に対し行った都市への核兵器による攻撃を自分たちの兵器のデッドコピーにより受けるのではないかという恐怖であった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;なお、アメリカ人はB-29のあからさまなコピーなのをみてTu-4を「ボーイングスキー」と呼んだという。これは、「ロシア人には&amp;#12316;スキーという姓が多い」というステレオタイプに基づいた命名で、同様のものにR-77ミサイルに対してつけられた「アムラームスキー」や、Tu-144超音速旅客機に対して付けられた「コンコルドスキー」というものもある。ロシア語で“スキー”を名詞に付けると「&amp;#12316;の」という意味の形容詞となる（例えば「ボーイングスキー」は「ボーイングの」という意味）。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;Tu-4は、後継機であるTu-95などが実戦配備されたため早々に退役した。その内数機は博物館に展示されている。また、多くの機体は開発・研究用の機体として活用された。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;中華人民共和国の人民解放軍空軍にも引き渡されており、現在では北京にある中国空軍航空博物館に2機のTu-4が展示されている。そのうち1機は早期警戒機仕様で1988年に退役した機体である。中華人民共和国では現在でも複数の機体が戦略爆撃機として実戦配備されているといわれているが、この確証はなく、Tu-16など後継の爆撃機が多数配備されていることに鑑みて敢えてTu-4を配備しておく理由は見当たらない。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;性能&lt;br /&gt;
最大速度: 558 km/h （315 kt, 349 mph） 高度 10,250 m (33,600 ft) &lt;br /&gt;
航続距離: 6,200 km （3,875 マイル） （爆弾1.5tで3,000km、後期型は爆弾2tで5,100km） &lt;br /&gt;
実用上昇限度: 11,200 m （36,700 ft）&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/butagakari11/1746865.html</link>
			<pubDate>Fri, 09 Oct 2009 18:52:16 +0900</pubDate>
			<category>飛行機</category>
		</item>
		<item>
			<title>グラマン A-6 イントルーダー</title>
			<description>&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-bd-93/butagakari11/folder/21634/03/645903/img_0?1252160834&quot; width=&quot;560&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_800_539&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;A-6はアメリカ海軍と海兵隊が1963年から1997年までの34年間運用した艦上攻撃機。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;ベトナム戦争や湾岸戦争をはじめとする就役期間中に発生したアメリカ海軍の艦上機が何らかの形で関わったほとんどの戦争や紛争に参加した。派生型のEA-6 プラウラー電子戦機は2007年現在も運用中。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;爆弾などの対地攻撃兵器を大量に搭載し、全天候下で精密攻撃を行う攻撃機として開発された。大型のレドームに合わせ並列複座としたために機体前部が丸く大きくなっている。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;主翼は中翼配置で折り畳み機構を備える。2基のターボジェットエンジンを胴体下部に搭載している。&lt;br /&gt;
&lt;div class=&quot;alignCenter&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-bd-93/butagakari11/folder/21634/03/645903/img_1?1252160834&quot; width=&quot;560&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; class=&quot;popup_img_800_569&quot;&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;アメリカ海軍は1957年3月にアメリカ国内の航空機メーカーに対して、朝鮮戦争における艦上機の運用実績評価から構想した全天候下での低空侵攻能力と精密攻撃能力を持つ機体の開発提案依頼を行った。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;1958年5月に提案の中からグラマン社(現ノースロップ・グラマン社)が提案したG-128案を採用しA2F-1の名称で開発契約を締結した。その後1959年3月に8機の試作機製造契約を結び、1960年4月19日に試作初号機が初飛行している。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;1963年2月より初期型のA-6Aを実戦部隊で配備した。1965年3月よりベトナム戦争に参加している。本機は全天候運用・精密攻撃のために複雑な電子機器を搭載していたが、実戦環境での搭載機器の稼働率が低く、また夜間に移動する車輌を捕捉するまでの索敵能力には至っていなかった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;しかし1966年の年末の気象条件の問題の中、唯一作戦行動可能な艦上機であったことを海軍は評価してA-6Eまで改良が進められた。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;1996年に行われた環太平洋合同演習に参加していた厚木基地に展開中のアメリカ海軍第115攻撃飛行隊 (VA-115) 所属のNF500 (CAG) が標的曳航中に海上自衛隊のあさぎり型護衛艦「ゆうぎり」の高性能20mm機関砲CIWSによって撃墜される事故が起こった。&lt;br /&gt;
&lt;div class=&quot;alignCenter&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-bd-93/butagakari11/folder/21634/03/645903/img_2?1252160834&quot; width=&quot;560&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 3&quot; class=&quot;popup_img_574_385&quot;&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;機体詳細データ（Ａ－６Ｅ）  &lt;br /&gt;
寸法（Ｌ×Ｗ×Ｈ／翼面積） １６．６９×１６．１５×４．９３ｍ　／　４９．１３ｍ2 &lt;br /&gt;
機体重量（自重／全備） １２，１３２kg　／　２６，６００kg（陸上基地運用時は２７，４００kg） &lt;br /&gt;
飛行速度（最大） １，０３７km/h（海面高度） &lt;br /&gt;
上昇率（海面上） ２，３２３ｍ／ｍｉｎ &lt;br /&gt;
上昇限度（実用） １２，９２５ｍ &lt;br /&gt;
離着陸距離（離陸／着陸） 約１，３００ｍ（最大重量時）　／　不明 &lt;br /&gt;
航続距離 ５，２１８km（空輸時、増槽使用）、１，６２７km（最大兵装過重時） &lt;br /&gt;
エンジン プラット＆ホイットニー社製　Ｊ５２－Ｐ－８Ｂターボジェット×２基&lt;br /&gt;
推力　４，２１８kg×２　　機体内燃料搭載量７，２３０kg &lt;br /&gt;
武装 胴体下および翼下にハープーン対艦ミサイル×４、２２７kg通常爆弾×３０、Ｍｋ８４ペーブウェイ誘導爆弾×４、Ｍｋ３６空中投下機雷×１２、Ｂ４３戦術核爆弾×１、増加燃料タンクなど最大８，１７０kgの兵装を搭載可能 &lt;br /&gt;
乗員数／機体初飛行 ２名　／　１９６０年４月１９日（原型機）&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/butagakari11/645903.html</link>
			<pubDate>Sat, 05 Sep 2009 23:27:14 +0900</pubDate>
			<category>飛行機</category>
		</item>
		<item>
			<title>ミコヤン・グレビッチ　ＭｉＧ－１５”ファゴット”</title>
			<description>&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-bd-93/butagakari11/folder/172962/13/608713/img_0?1252161911&quot; width=&quot;560&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_800_533&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;第二次世界大戦後、アメリカやソ連は占領したドイツ国内から大量の先進的航空技術やデータ、そして開発技術者を入手し、それらの技術やデータを活用した航空機の開発を進めた。中でも、戦時中にドイツが研究していた後退翼のデータを入手したことにより、それまでソ連が独自に開発していたジェット戦闘機よりも高性能な機体を開発できるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;MiG-15はエンジンをイギリスから入手したロールス・ロイス ニーン2の独自改良型RD-45Fとし、アメリカやイギリスの戦闘機に対抗するため、機体は徹底的に軽量化され艤装品なども必要最小限に止められた。なお「Ta 183の設計図をもとに開発された」と言われたが、これは俗説である。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;開発は急ピッチで進められ、1947年には初飛行に成功し優れた性能を示したため、すぐに大量生産が開始された。しかしMiG-15は、あまりに開発を急いだため、欠陥を改善されぬまま第一線の任務をこなすこととなってしまった。その一つに高高度飛行や高速飛行中に突然、スピンに陥るという重大な欠陥が存在したが、これに対しては速度計とエアブレーキが連動してマッハ0.92を越えないようになっていた。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;その他にも、急ぎすぎた開発のために様々な欠点を抱え込んだが、当時のソ連にはアメリカなどに比べて優れたジェット戦闘機が無かった上、それらの欠点を補って余りあるほど素晴らしい性能を保持していたため、約15000機以上が生産され、ソ連の衛星国や友好国にも大量に供与された。なお、それらの欠陥は多数開発された改良型で徐々に解決されていき、最も多く生産されたMiG-15bis (МиГ-15бис) は、当時の大抵の西側戦闘機を遙かに凌駕する性能を発揮できた。なお、MiG-15bisは大幅な改良型のVK-1エンジンを搭載した。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;なお、MiG-15は改良型MiG-15bisで完成したように思われることが多いが、実際に機体が完成したのはMiG-17Fになってからであり、さらに言えばMiG-19やMiG-21もMiG -15の直系の改良機である。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;派生型は量産されたものだけでも数知れず存在し、西側ではいまだにきちんとした認識はされていないようであるが、初期型のMiG-15、改良主生産型のMiG-15bis、複座練習機型のMiG-15UTI（またはUTI MiG-15；МиГ-15УТИ или УТИ МиГ-15）の三つの名称を把握しておけば大抵は事足りるであろう。これらの中で最も重要なのは複座型のMiG-15UTIで、極めて多くの国で高等練習機として長期間使用された。2004年現在で、まだ数カ国が使用しているとされる。これらは様々な訓練や試験に用いられた。数種開発された偵察機型の内、MiG-15Rは300機以上が生産されたが、偵察能力は極めて限定的であった。なお、MiG-15ではレーダー搭載型も複数開発されたが、結局レーダーはMiG-17に装備することとなり、MiG-15のレーダー搭載型はいずれも生産されなかった。また、戦闘機型の機体はのちに後継機の配備により余剰化したため、非力ながら戦闘爆撃機として使用された。その他、最後は標的機として使用されたものも多くあった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;MiG-15はソ連以外の国でも生産され、主なものとしてはチェコスロヴァキア製のS-102（MiG-15相当）、S-103（MiG-15bis相当）、CS-102（MiG-15UTI相当）、ポーランド製のLim-1（MiG-15相当）、Lim-2（MiG-15bis相当）、SBLim-1（MiG-15UTI相当）、SBLim-2A/B（Lim-2をSBLim-1同様の複座型に改修）等がある。また、それぞれに偵察型（Lim-2Rなど）や多くの改修型が製作された。ハンガリーでもライセンス生産が許可される予定であったが、ハンガリー動乱の発生により中止された。また、中華人民共和国では従来MiG-15bisを殲撃二型として生産したと言われてきたが、実際にはその呼称は使用されておらず、生産も行われなかったようである（代りにMiG-17F相当の殲撃五型を生産している）。&lt;br /&gt;
&lt;div class=&quot;alignCenter&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-bd-93/butagakari11/folder/172962/13/608713/img_1?1252161911&quot; width=&quot;560&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; class=&quot;popup_img_610_240&quot;&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;MiG-15は朝鮮戦争にて国連軍の戦闘機を相手に大活躍し、その活躍は米国などの西側に衝撃を与えた。国連軍の参戦当初は、北朝鮮軍に本格的な航空兵力が無かったため、制空権は完全に国連軍のものとなっていたが、中国義勇軍が介入し、MiG-15が鴨緑江を越えて来るようになると国連軍側にあった制空権は揺らぎ始める。第二次世界大戦中に、日本本土を焦土と化し、撃墜されがたく「超空の要塞」と名を轟かせたB-29もMiG-15の強力な37mm機関砲によって次々に撃墜され、爆撃機を護衛する筈の戦闘機までもが自らの身を守るのが精一杯という状況に陥ってしまった。これに驚いた米空軍は急遽、後退翼を持つ、当時最新鋭のF-86Aセイバーを投入し制空権の回復に努めた。その後もアメリカ合衆国は改良型のF-86EやF-86F等を投入していったが、中国・北朝鮮側も改良型のMiG-15bisを投入するなどして双方の制空権は南北に激しい移動を繰り返した。最終的には、MiG-15は乗員の技量の差、装備品の差、上述の欠陥等により多数が撃墜された（アメリカ合衆国では当時10:1の撃墜率を主張したが、1990年代半ばに4:1であったと修正した。実際のところ、この数字にはF-86以外のジェット機や爆撃機の損害が計算されていない。一方ロシア側の資料では2:1の損失とされているが、これはあくまでソ連軍部隊のみの数字である。なお、中国・北朝鮮軍のパイロットは前期には一部がソ連軍人であった。その後徐々に中国人パイロットが主役となる。ソ連軍部隊は、38度線以南および海上での飛行を禁じられていたが、しばしば戦闘に参加している。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;MiG-15は、その後直系の改良型であるMiG-17が大量に生産・配備されたこともあって朝鮮戦争以外の実戦においては華々しい活動は見られない。第二次中東戦争（スエズ戦争）ではエジプト軍等のMiG-15bisがMiG-17Fとともに実戦活動を行ったが、撃墜された情報はあっても戦果を挙げたという情報は伝わっていない。また、人民解放軍空軍の機体は中華民国空軍の戦闘機としばしば空中戦を行っているが、こちらも芳しい結果は残していないとされる（人民共和国側の情報では別であるが）。こういった不首尾な結果というのはMiG-15自体の欠陥によるものというよりは、パイロットの練度の問題あるいは（使用国側の）整備が問題であると考えられる。MiG-15自体の欠陥が関わる、著名人の死亡例としてはユーリイ・アレクセーエヴィチ・ガガーリンの事故死が挙げられるが、このときの彼の搭乗機はMiG-15UTIであった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;MiG-15が西側に与えた衝撃は大きく、MiG-15の小型・軽量の単純な機体に大出力エンジンを搭載する、というコンセプトに影響を受け、米空軍はF-104スターファイターを、イギリスはフォーランド ナットを開発している。しかしながらその影響は一時期のもので終わり、F-104もナットも開発した本国ではあまり使われなかった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;結果として、戦闘機の対地攻撃任務の活躍を重視した米国の戦闘機は次第に大きく重い機体となってゆき、ベトナム戦争でMiG-15の後継機であり軽快な運動性能を誇るMiG-17やMiG-19、MiG-21に苦しめられることとなってしまった。&lt;br /&gt;
&lt;div class=&quot;alignCenter&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-bd-93/butagakari11/folder/172962/13/608713/img_2?1252161911&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 3&quot; class=&quot;popup_img_378_599&quot;&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;機体詳細データ（ＭｉＧ－１５ｂｉｓ） &lt;br /&gt;
寸法（Ｌ×Ｗ×Ｈ／翼面積） １０．８６×１０．０８×３．７０ｍ　／　２０．６ｍ2 &lt;br /&gt;
機体重量（自重／全備） ３，６８０kg　／　６，０５０kg &lt;br /&gt;
飛行速度（最大） １，０８０km/h（海面高度） &lt;br /&gt;
上昇率（海面上） 不明 &lt;br /&gt;
上昇限度（実用） １５，５００ｍ &lt;br /&gt;
離着陸距離（離陸／着陸） 不明 &lt;br /&gt;
航続距離 １，９００km（空輸時） &lt;br /&gt;
エンジン クリモフ設計局製　ＶＫ－１ターボジェット×１基&lt;br /&gt;
推力　２，７００kg &lt;br /&gt;
武装 ３７mm機関砲×１、２３mm機関砲×２、翼下に最大５００kgまでの兵装搭載可能 &lt;br /&gt;
乗員数／機体初飛行 １名（単座）、２名（複座）　／　１９４７年末？&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/butagakari11/608713.html</link>
			<pubDate>Fri, 04 Sep 2009 18:26:17 +0900</pubDate>
			<category>飛行機</category>
		</item>
		<item>
			<title>ロッキード　Ｆ－１０４  スターファイター</title>
			<description>&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-bd-93/butagakari11/folder/21634/55/597555/img_0?1252054734&quot; width=&quot;560&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_800_527&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;アメリカ合衆国初のマッハ2級のジェット戦闘機であり、F-100 スーパーセイバーを起点とするセンチュリーシリーズに含まれる一機種である。第2世代ジェット戦闘機に位置付けられる。初飛行は1954年2月。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;細い胴体に短い矩形の主翼を有し、切り詰められた小型軽量の機体に強力なJ79型エンジンを一基搭載した機体である。その特異な外観から「最後の有人戦闘機」とも称された。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;アメリカ空軍では短い期間の運用に終わったが、冷戦下において日本やイタリア、中華民国や西ドイツなど世界15ヵ国で供与・運用された。高度な操縦・整備技術を要し、高価であった事もあり、発展途上国への供与はF-5A/Bへ譲られたが、ライセンス生産を含め2,578機が生産された。2004年にイタリア空軍のF-104Sの退役を最後に、全機が退役した。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;ロッキード社の設計者であったクラレンス（ケリー）・ジョンソンは、朝鮮戦争の最中の1951年12月に韓国を訪問した。目的は、実戦を経験した戦闘機パイロットたちが、どんな戦闘機を望んでいるかについて意見を聞く為であった。当時、アメリカ空軍のF-86を駆るパイロットの前には、ソ連の援助により投入されていたソ連製のMiG-15戦闘機が出現していた。ジョンソンは、パイロットたちが求めているのは、構造が複雑で大型の機体ではなく、Mig-15の様な軽量化され、装備なども必要最小限なものとした機体と結論付けた[2]。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;アメリカに帰国後、ジョンソンは早速航空機のデザイン作成に取り掛かった。1952年3月にジョンソン率いる開発チームは、数種類の航空機スケッチを描いた。デザインを重ねるごとに機体スタイルは洗練され、重量が50,000lb（23t）の大型のものから、8,000lb（3.6t）という小型機のデザインに変わっていった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;同時期、アメリカ空軍もMiG-15 との戦訓から、出来る限りの軽量な機体に強力なジェットエンジンを搭載し機動力と高速性を高めた戦闘機を欲していた。そして、迎撃戦闘機の開発要求を1952年5月に国内のメーカーに提示し、ジョンソン率いる設計チームスカンクワークスは小型軽量機の開発計画案を1952年11月にアメリカ空軍に提出した。ロッキード社の案にアメリカ空軍は大変興味を示し、他社の開発案との比較の結果、ロッキード社が1953年3月12日に開発の契約を結び、2機の原型機発注が行われた。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;エンジンには当初、J79型エンジンの搭載が予定されていた。しかし、開発が間に合わなかったため、J65-B-3型エンジンが搭載される事となった。試作1号機であるXF-104（53-7786）の製造は、ロッキード社カリフォルニア工場で1953年より開始された。1954年に機体が完成し、3月4日に初飛行を行った。試作2号機（53-7787）の製造は、1953年秋に始まっている。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;1954年3月30日にはエンジンをYJ79-GE-3に換装し、強化したYF-104が17機発注されている。なお、YF-104は1955年4月27日にマッハ2を記録している。&lt;br /&gt;
&lt;div class=&quot;alignCenter&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-bd-93/butagakari11/folder/21634/55/597555/img_1?1252054734&quot; width=&quot;560&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; class=&quot;popup_img_800_534&quot;&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
アメリカ空軍では、1958年2月に防空軍団において部隊運用が開始された。しかし、1959年に同じマッハ2級の戦闘機であるF-106の部隊配備が開始され、公式には「SAGE（半自動地上管制迎撃システム）との連携機材が搭載できない」という理由で早くも防空軍団では1960年には退役し、機体は空軍州兵や海外供与に回された。1963年に一時現役復帰するが、1970年以降にまた退役した。 &lt;br /&gt;
実際の所、F-106のMA-1はともかく、F-102に搭載されたものであれば充分に搭載可能な機体内空間は存在していたが、航続距離の短さや装備可能な空対空ミサイルがサイドワインダー4発だけという武装の貧弱さが嫌われたのでは無いかと言われている。また戦術航空軍団においても、搭載力や航続距離の不足が問題視され、同じくごく少数の配備で終わっている。戦術航空軍団では1969年まで使用された。 &lt;br /&gt;
ただし、これらの欠点は軽量戦闘機である以上はやむを得ないものであり、基本的には昼間制空戦闘機であるF-104を全天候迎撃機や戦闘爆撃機として使う事自体が、上述の「軽快なMiG戦闘機に対抗する」という本来の開発目的からは外れている。この時期のアメリカ空軍が、制空戦闘機というカテゴリを軽視していた事の表れである。開発目的から見てのF-104の欠点は、高翼面荷重とT字尾翼による運動性の低さである。 &lt;br /&gt;
1965年にベトナム戦争においてMiG戦闘機が出現した時、それに対抗するために南ベトナムに派遣されたのが、アメリカ空軍において唯一、本来の目的に使われた例である。ただし北ベトナム戦闘機との空戦の機会は無く、ミスにより中華人民共和国領空に入った機体が撃墜されたりしている。なお、装備部隊は1年で本国に帰還している。 &lt;br /&gt;
&lt;div class=&quot;alignCenter&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-bd-93/butagakari11/folder/21634/55/597555/img_2?1252054734&quot; width=&quot;560&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 3&quot; class=&quot;popup_img_800_589&quot;&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;機体詳細データ（機体寸法、武装はＦ－１０４Ｇのもの）  &lt;br /&gt;
寸法（Ｌ×Ｗ×Ｈ／翼面積） １６．６９×４．１１×３．６３ｍ　／　１８．２２ｍ2 &lt;br /&gt;
機体重量（自重／全備） ６，７６０kg　／　１４，０６０kg &lt;br /&gt;
飛行速度（最大） Ｍ２．２（高空）、Ｍ１．２（海面高度） &lt;br /&gt;
上昇率（海面上） ７，９８０ｍ／ｍｉｎ &lt;br /&gt;
上昇限度（実用） １７，６８０ｍ &lt;br /&gt;
離着陸距離（離陸／着陸） ８２５ｍ　／　不明 &lt;br /&gt;
航続距離 ２，９２０km（増槽使用） &lt;br /&gt;
エンジン（Ｆ－１０４Ｓ） ジェネラル・エレクトリック社製　Ｊ７９－ＧＥ－１９ターボジェット×１基&lt;br /&gt;
推力８，１１９kgf（アフターバーナー使用時） &lt;br /&gt;
武装 ２０mmＭ６１Ａ１バルカン砲×１（弾数７５０）。両翼端および翼下４箇所のパイロンにＡＩＭ－９サイドワインダー×２、コルモラン対艦ミサイル×２、３，４００kgまでの爆弾、ロケット弾ポッド、増槽等を選択搭載可能 &lt;br /&gt;
乗員数／機体初飛行 １名（単座型）、２名（複座型）　／　１９５４年２月２８日（原型機ＸＦ－１０４）&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/butagakari11/597555.html</link>
			<pubDate>Thu, 03 Sep 2009 22:24:20 +0900</pubDate>
			<category>飛行機</category>
		</item>
		<item>
			<title>ブリュースター　Ｆ２Ａバッファロー艦上戦闘機</title>
			<description>&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-bd-93/butagakari11/folder/21634/22/573622/img_0?1251888085&quot; width=&quot;560&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_800_401&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;アメリカ海軍の艦上戦闘機の近代化のための1936年の要求は、単葉機であること、折りたたみ翼、引き込み脚、密閉式コクピットをもつことであった。ブリュースターもグラマン社、セバスキーとともに競争試作に参加した。なお、このときグラマン社が提出したものは、後に改良されF4Fワイルドキャットとなっている。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;ブリュースターの XF2A-1試作機は1937年12月に初飛行した。1938年1月から評価が始まり、6月に海軍は66機の初期生産型F2A-1の発注を行った。引渡しは1939年に始まったが55機しか納入されず、サラトガのVF-3戦隊に10機が配備され、44機はB-239としてフィンランドに供与された。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;エンジンの出力向上などの改良を加えたF2A-2は、43機が発注され1940年9月から引渡された。次に防弾装備を強化したF2A-3が、108機発注され1941年7月から引渡された。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;F2Aはすでに枢軸国軍の戦闘機（ただしイタリア及び日本機には対抗できると考えていたようである）に対して性能が劣ることは明白であったが、イギリス、ベルギー、オランダ（主に蘭印東インドで使用）は陸上型のF2Aを数100機も購入した。ただしベルギーは発注し受領する前にドイツの進攻にあったため、すべての機体がイギリス領クレタ島にまわされ枢軸国軍機と戦闘を行っている。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;イギリス空軍はバッファローと命名した。ナチス・ドイツのメッサーシュミットBf109に対抗できないと判断された当機は地中海方面及び極東、シンガポール、マレーシアに配備された。当時イギリスを含めた連合国は日本軍機の性能をイタリア軍機と同程度と考えており、当機でも十分戦えると判断されたようである。しかしながらシンガポールなどに配備された当機は零戦隊と戦闘を行い、そのほとんどを撃墜、及び地上撃破されることとなる。 その後、太平洋方面においては、海兵隊航空団VMF-221所属のF2A-3が19機ミッドウェー海戦に参加したが、零戦との戦闘の結果、13機を喪失する敗北を喫し、これを最後に運用されなくなった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;このように太平洋方面では活躍の機会には恵まれなかった当機ではあったが、アメリカがフィンランドに供与した44機は、フィンランドがソ連との冬戦争中のため、交戦国に軍事物資の輸出を禁止する法律により、アメリカ海軍制式装備が撤去され、照準機、エンジン、計器などスペックダウンしたタイプが提供されたが、フィアットG.50やモラン・ソルニエMS406、ホーカー ハリケーン機果ては鹵獲したポリカルポフI-16、I-153等雑多な戦闘機で構成されていたフィンランド空軍にあって、それらの性能を凌駕する本機は「ブルーステル」の愛称で呼ばれ、冬戦争でフォッカーD21を装備し大きな戦果を挙げた第24戦闘機隊に配属され機首に隊のマークである白地に黒の山猫を描いたB-239は継続戦争序盤から奮戦、21機の喪失に対しソ連軍機を456機撃墜する約21対1の圧倒的な勝率により、35人[1]ものエースパイロットを生み出し「タイバーン・ヘルミ(空の真珠)」と賞賛された。なお、B-239のトップエースは総撃墜機数75機(フィンランド空軍第2位)のうち39機を撃墜したハンス・ヘンリック・ウィンド大尉。本機の性能に惚れ込んだ空軍当局は後にタンペレ国営航空機工場で主翼を木製化した海賊版「フム」(機体番号HM-671)の開発(完成は1945年、現在もタンペレに保存されている模様)をおこなった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;1943年3月にメッサーシュミットMe109Gが導入されるとさすがに第2線機扱いとされたが継続戦争と続くラップランド戦争終結の1945年まで運用された。敗れはしたもののフィンランドの占領を妨げた最後のバファローが退役したのは1950年代前半であった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;一説では日本機と交戦した米英の機体は、航空母艦上での運用のための様々な装備が付いており、鈍重なため惨憺たる結果をもたらしたが、こちらの供与機体はそれらの装備が省かれているため軽く、このような良好な性能を発揮出来たとも云われている。&lt;br /&gt;
&lt;div class=&quot;alignCenter&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-bd-93/butagakari11/folder/21634/22/573622/img_1?1251888085&quot; width=&quot;560&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; class=&quot;popup_img_610_280&quot;&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
機体詳細データ（Ｆ２Ａ－３）  &lt;br /&gt;
全長 　８．０３ｍ 全高 　３．６８ｍ &lt;br /&gt;
全幅 １０．６７ｍ 翼面積 １９．４１ｍ2 &lt;br /&gt;
自重 ２，１４６ｋｇ 最大重量 ３，２４７ｋｇ &lt;br /&gt;
最高速度 ５１７ｋｍ／ｈ（高度５，０７０ｍ） 上昇限度 １０，１２０ｍ &lt;br /&gt;
航続距離 １，５５３ｋｍ 巡航速度 ４１５ｋｍ／ｈ &lt;br /&gt;
発動機 ライトR-1820-40「サイクロン」空冷星形９気筒　１，２００馬力×１基 &lt;br /&gt;
乗員数 　１名 総生産機数 ５００機以上 &lt;br /&gt;
武装 １２．７mm機銃×４、４５kg爆弾×２等&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/butagakari11/573622.html</link>
			<pubDate>Wed, 02 Sep 2009 19:41:25 +0900</pubDate>
			<category>飛行機</category>
		</item>
		<item>
			<title>ノースアメリカン F-86 セイバー</title>
			<description>&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-bd-93/butagakari11/folder/21634/55/558155/img_0?1251885817&quot; width=&quot;560&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_610_230&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;アメリカ空軍をはじめ、多くの国で採用されたジェット戦闘機。第1世代ジェット戦闘機に分類される。初飛行は1947年。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;武装は当初機関砲のみであったが、後にミサイル（サイドワインダー）が開発されるとその有効性を実証し（ミサイル万能論）、9,860機が製造された。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;1980年にポルトガル空軍機の引退により、全機が退役した。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;第二次世界大戦末期ノースアメリカン社は艦上ジェット戦闘機案NA-134をアメリカ海軍に提案していた。これを受けて、1945年1月1日、アメリカ海軍は艦上ジェット戦闘機XFJ-1の開発を発注した。これは、P-51の主翼と尾翼をそのまま流用し、胴体のみジェットエンジン搭載の新設計のものに変えた機体である。この機体の開発を受けて、アメリカ陸軍航空隊は1945年5月23日にXFJ-1の陸上型XP-86の開発を発注した。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;第二次世界大戦後、アメリカ合衆国はドイツ国内の占領地から大量の航空機の先進的実験データを得た。このデータを基にノースアメリカン社は開発中のXP-86の設計を変更し、P-51から流用した主翼・尾翼に代えて新設計の後退翼を採用した。試作機XP-86の初飛行は1947年10月1日。初飛行前から性能が期待されたために、P-86A-1として陸軍航空隊に採用された。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;この後、陸軍航空隊は陸軍から独立してアメリカ空軍となり、それに伴って使用する航空機の命名法が変更された。陸軍航空隊の戦闘機は追撃機と呼ばれ、追撃 (pursuit) の頭文字 P から始まる一連の番号が振られていたが、1948年6月から戦闘機 (fighter) の頭文字 F が与えられるようになった。そのため、P-86AはF-86Aと改称された。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;-86の名を上げたのは朝鮮戦争における活躍であった。国連軍が朝鮮戦争に参加した当初、金日成の朝鮮人民軍は本格的な航空兵力を持たず、海軍の艦載機グラマンF9F パンサーや米空軍のリパブリックF-84G、ロッキードF-80 シューティングスターなどの直線翼を有するジェット戦闘機、果てには第二次世界大戦中に活躍したF-51DやF4U コルセアが活躍出来る程であったが、中華人民共和国の抗美援朝義勇軍が参戦すると、鴨緑江を越えて中国人民解放軍所属のMiG-15が飛来するようになり、直線翼のジェット戦闘機では抗しきれないと判断したアメリカ空軍は急遽、F-86を投入し、朝鮮半島上空にて史上初の後退翼ジェット戦闘機同士の空中戦が繰り広げられた。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;結果、投入から休戦までの約2年間に損失78機に対し、撃墜数約800機と言う、実に10対1の戦果を上げた。その後、その優秀性からF-86は世界各国で採用された。&lt;br /&gt;
&lt;div class=&quot;alignCenter&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-bd-93/butagakari11/folder/21634/55/558155/img_1?1251885817&quot; width=&quot;560&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; class=&quot;popup_img_800_548&quot;&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;F-86A&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;全幅：11.3 m &lt;br /&gt;
全長：11.4 m &lt;br /&gt;
全高：4.5 m &lt;br /&gt;
主翼面積：26.7 m&amp;sup2; &lt;br /&gt;
最大離陸重量：6,300 kg &lt;br /&gt;
エンジン：J47-GE-27 &lt;br /&gt;
推力：27.1 kN &lt;br /&gt;
最高速度：570 kt &lt;br /&gt;
実用上昇限度：14,330 m &lt;br /&gt;
航続距離：1,026 nm &lt;br /&gt;
固定武装：12.7 mm M2機銃 6門 &lt;br /&gt;
爆弾：最大 900 kg &lt;br /&gt;
乗員：1名&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/butagakari11/558155.html</link>
			<pubDate>Tue, 01 Sep 2009 21:01:59 +0900</pubDate>
			<category>飛行機</category>
		</item>
		<item>
			<title>SB2C ヘルダイバー急降下爆撃機</title>
			<description>&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-bd-93/butagakari11/folder/21634/29/524729/img_0?1251685453&quot; width=&quot;560&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_625_381&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;ダグラスSBDドーントレス急降下爆撃機の後継機として開発された。原型機の初飛行は1940年12月のことである。ドーントレスより速度・爆弾搭載量が強化され、機銃も12.7mmから20mmに強化された。SBDと違い、爆弾は胴体下部の爆弾倉内に収納する。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;開発においては、要求性能的に大型になる事が避けられない機体を航空母艦のエレベーターに収めるために無理やりに機体後半部を切り詰めた設計にしたことと、性能より生産性を重視した仕様の為、操縦性・離着艦性能などの安定性はあまり良くはなく、トラブルの多い機体だった。当時の操縦士達からは型番をもじって「サノバビッチ・セカンドクラス（Son of a Bitch 2nd Class：二流のロクデナシ）」と暗に呼ばれ、忌み嫌われていた。[1]&lt;br /&gt;
生産機数は実に7000機以上にも及び、SBDに替わってアメリカ海軍の戦争後期の主力艦上爆撃機となっている。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;1943年11月から実戦に投入され、主に太平洋各地・日本本土空襲で活躍した。大きな活躍と言えば坊の岬沖海戦での戦艦大和攻撃が挙げられる。アメリカ陸軍航空軍でもA-25として採用されたが多くの機体が再び海兵隊のSB2Cとなり米陸軍機としては標的の曳航などの支援任務に従事し実戦には参加しなかった。また、イギリス海軍の艦隊航空隊では少数の機体がカーチス・ヘルダイバー Mk.I（Curtiss Helldiver Mk.I）として使用された。戦後、フランス海軍航空隊に供給された機体はインドシナ戦争に参加した。また、ギリシャ、タイ、イタリアにも供与され、1950年代半ばまで使用された。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;A-25 &lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;第二次世界大戦初期において本格的な急降下爆撃機を保有していなかった陸軍では、海軍の機体を陸軍仕様とすることで機体を調達した。SBDをA-24として調達したのに続き、試作機が初飛行したばかりのSB2Cに対してもA-25として900機の発注を行った。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;A-25は海軍型のSB2C-1と基本的には同一の機体だったが、陸上で必要のない着艦フックや主翼の折りたたみ機構が廃止されていた。また、主輪は不整地での運用を考慮して大型化されていた。内部儀装については陸軍仕様に変更されていたが、海軍からの要請により容易に海軍仕様に戻せるようになっていた。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;SB2Cが実用へ向けての改修に手間取ったためA-25も実用化が遅れ、初飛行は1942年の9月になってしまった。この頃には陸軍では急降下爆撃機に対する興味が薄れ、一次発注分の900機で生産を中止することとした。生産機については約4分の1をオーストラリア空軍にレンドリースすることにし（実際に引き渡されたのは10機）、残りを配備することとした。最終的には410機が海兵隊に引渡されSB2C-1Aとして使用され、残った機体はRA-25Aと改称され訓練や標的曳航に用いられた。このため、陸軍機としては実戦に参加することなく終わった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;なお、A-25にもカーチス社の攻撃機の伝統とも言える&amp;#39;シュライク（Shrike：モズ科の鳥の総称）&amp;#39;の愛称が与えられている。&lt;br /&gt;
&lt;div class=&quot;alignCenter&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-bd-93/butagakari11/folder/21634/29/524729/img_1?1251685453&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; class=&quot;popup_img_354_543&quot;&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
データ&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;全長：11.2m &lt;br /&gt;
全幅：15.2m &lt;br /&gt;
全高：4.5m &lt;br /&gt;
自重：4.5t &lt;br /&gt;
エンジン：ライト R-2600 レシプロエンジン（1,900馬力）1基 &lt;br /&gt;
乗員：2名 &lt;br /&gt;
武装：20mm固定機銃2門、7.62mm旋回機銃2門、爆弾（2,000lb)または魚雷1発&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/butagakari11/524729.html</link>
			<pubDate>Mon, 31 Aug 2009 11:24:13 +0900</pubDate>
			<category>飛行機</category>
		</item>
		<item>
			<title>ユンカース Ju87 シュトゥーカ</title>
			<description>&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-bd-93/butagakari11/folder/147152/15/501715/img_0?1251613878&quot; width=&quot;560&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_800_528&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;ユンカース Ju87 シュトゥーカは、ドイツにおいて第二次世界大戦中に使用された急降下爆撃機である。愛称の「シュトゥーカ」(Stuka)とは、急降下爆撃機を意味する「Sturzkampfflugzeug」（シュトゥルツカンプフルークツォイク）の略で、本機が急降下爆撃機の代表として扱われたため、この名が用いられるようになった。日本語では「スツーカ」とも表記されている。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;第二次世界大戦以前の1935年春に初飛行を行っているにもかかわらず、後継機に恵まれなかったこともあって大幅なバージョンアップも無く終戦まで使用され続けた機体である。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;逆ガル主翼の複座機で固定脚が外見上の大きな特徴で、急降下爆撃機らしいガッシリとした武骨なフォルムをもつ。急降下爆撃の機動に耐えるため機体構造が頑丈で、整備も容易であったため反復攻撃をこなす事ができる実用性に富む機体であった。逆ガル式の翼が生み出す下方視界の良さと、安定した急降下性能のため、精密な爆撃を行うことが出来、急降下時にサイレンのような音を立てることから連合国側からは「悪魔のサイレン」の異名で恐れられた。後に機体に小型プロペラにより駆動されるサイレンを取り付け標的となった陣地等の敵兵を恐慌へと追いやり地上部隊の進撃を爆撃と心理面で援護することになる。しかし、大戦も後期になると逆に航空優勢な連合軍に対してサイレンの効果が薄れたためサイレンを取り外し、台座だけが残っている記録写真もある。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;急降下爆撃機の特性ゆえの弱点があり、速度が遅く鈍重で防弾設備が貧弱だったため、空戦能力は低く制空権を確保した状態での攻撃にしか適さなかった。また航続距離が短く行動半径が狭かった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;開戦当初のJu87は大きな戦果を上げたのだが、ドイツ空軍上層部は能力を過信し、「急降下爆撃こそが至上の爆撃である」と誤った認識をもった者も多かった。特に、ドイツ空軍最高司令長官ヘルマン・ゲーリングの“急降下爆撃熱”はひどかったと言われている。 そのため、戦略爆撃機He 177を含めた水平爆撃を任務とする機体の多くに急降下爆撃能力を求めたり、戦略爆撃機、後継機の開発を怠るなど開発に悪影響を与えた。また、その認識の甘さはバトル・オブ・ブリテンでの大損害を生む原因ともなった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;1942年頃から陸上では単発爆撃機は活躍の場を失いつつあり、ドイツ空軍でもFw190FやGなどの対地襲撃機・戦闘爆撃機型が登場しているが、旧式化したJu87もダイブブレーキを外し、襲撃機として生産され続けていた。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;威嚇用吹鳴機（サイレン）「ジェリコのラッパ」について &lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;Ju 87と言えば急降下時のサイレン音が有名であるが、元々はサイレンを特別に取り付けていたわけではなく、急降下時に発生した風切り音がそのように聞こえただけであった。[要出典]音の発信源については2つの説があり、ひとつはダイブブレーキのスリットが発生させていたという説、もう1つは主脚から発生していたという説である。[要出典]その後、威嚇効果の高さが認められ、B型やD型の一部の主脚根本に、プロペラに風を受けて駆動させるサイレンをとりつけた機体が生まれた。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;この風斬音は「ジェリコ（エリコ）のラッパ」とドイツ兵たちに呼ばれ、その音で空爆に不慣れなスペイン内乱時にスペインや英仏の兵士に恐れられた。なおジェリコのラッパとは旧約聖書の預言者ヨシュアが人々に命じて一斉に吹かせたラッパのこと。この音でジェリコの城壁が崩れ落ちたと伝えられている。1941年以降はあえて隠密性を破壊する「ラッパ」は使用されなくなっているが、連合軍兵士に風説として流れた。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;概要&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;開発はユンカース社。主任設計者はヘルマン・ポールマン。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;モックアップは1934年。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;1935年にドイツ空軍省(RLM)による競争審査に勝利し正式な生産命令を得た。対抗機種は、アラド社・ハインケル社・ブローム・ウント・フォス社のそれぞれ Ar 81（試作3機のみ）・He 118（生産機数不明、4号機は日本陸軍に、5号機は日本海軍に売却）・Ha 137（試作1機。開発途中で終了）。Ju87の試作機は3機製作されそれぞれV1&amp;#12316;V3の番号があたえられていた。V1は双尾翼でダイブブレーキがついていないのが特徴で、試験中にキリモミ状態になり墜落し失われている。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;最初の量産型Ju87A型は1937年から生産が開始され、スペイン内戦で実戦投入され多くの戦果をあげた。また同年、改良が行われたB型も生産されスペイン内戦に続けて投入された。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;1939年にはじまるポーランド侵攻や開戦当初の電撃戦（ブリッツクリーク）において非常に大きな戦果を挙げたが、1940年の対イギリス戦（バトル・オブ・ブリテン）では、防弾性能の低さと制空権を確保していない地点への投入によりスピットファイアやハリケーンなどのイギリス軍機に多数が撃墜され、大きな損害を出した。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;以後さまざまなタイプに発展しながらも、（少なくとも外見的には）大きな改変は無く終戦までに5,709機が生産されることになる。1940年以降は主にアフリカ戦線および東部戦線に配備され、特に東部戦線においては絶大な対地戦闘能力を発揮した。しかし大戦後半には本機の性能では昼間の作戦行動は自殺行為となり、夜間行動型に改修されて使用された。なお、本機に代わって地上支援任務についたのは Fw 190 の戦闘爆撃機型であった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;Ju87はその操縦の容易さからも前線のパイロット達に好まれ、各シリーズ、特に後期にはG-1型を愛用したハンス・ウルリッヒ・ルーデルは終戦までに519両(630両との説もある)もの戦車を破壊し、“スツーカのルーデル”の異名を得たという。他にもシュトゥーカ乗りには単独（複座なので二人一組）で大きな戦果を挙げたパイロットが多い。&lt;br /&gt;
&lt;div class=&quot;alignCenter&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-bd-93/butagakari11/folder/147152/15/501715/img_1?1251613878&quot; width=&quot;560&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; class=&quot;popup_img_800_561&quot;&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
機体詳細データ（Ｊｕ８７Ｄ－１）  &lt;br /&gt;
全長 １１．５０ｍ 全高 　３．９０ｍ &lt;br /&gt;
全幅 １３．８０ｍ 翼面積 ３１．９０ｍ2 &lt;br /&gt;
自重 ２，８１０ｋｇ 最大重量 ５，７２０ｋｇ &lt;br /&gt;
最高速度 ４１０ｋｍ／ｈ（高度３，８００ｍ） 上昇限度 ７，３００ｍ &lt;br /&gt;
航続距離 １，５００ｋｍ 巡航速度 ３００ｋｍ／ｈ程度 &lt;br /&gt;
発動機 ユンカース「ユモ」211J-1 液冷Ｖ型１２気筒　１，４１０馬力×１基 &lt;br /&gt;
乗員数 　２名 総生産機数 ５，７０９機（５，７５２機説あり） &lt;br /&gt;
武装 7.92mm機銃×３（前方固定２、後方旋回１）、&lt;br /&gt;
爆弾最大1,800kg（1,000kg爆弾または500kg爆弾×１、50kg爆弾×４）&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/butagakari11/501715.html</link>
			<pubDate>Sun, 30 Aug 2009 12:20:22 +0900</pubDate>
			<category>飛行機</category>
		</item>
		<item>
			<title>三菱　一〇〇式輸送機 重爆改造の高速輸送機</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-bd-93/butagakari11/folder/21631/81/501281/img_0?1251601170&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
一〇〇式輸送機は大日本帝国陸軍の輸送機で、九七式重爆撃機（キ21）を元に設計された。設計は三菱重工業。連合軍のコードネームはTopsy。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
昭和14年（1939年）に日本陸軍は、三菱に対して新型輸送機の開発を指示した。指示の主な内容は九七式重爆撃機の胴体部分を改設計し、人員輸送を主目的とするというものだった。昭和15年（1940年）に初飛行した本機の諸性能は、母体である九七式重爆撃機の特性をそのまま引き継いでおり、飛行試験でも特に問題はなかったため一〇〇式輸送機として制式採用された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
九七式重爆撃機との胴体以外の相違点は、低翼となったことと、爆撃機においては被弾火災の面から嫌われた外翼内燃料タンクを設け、必要に応じて使用できるようになっていたことなどである。後に一〇〇式一型輸送機と呼ばれるこの機体はハ5改（出力850hp）を装備しており、太平洋戦争初期のパレンバン攻略作戦等で落下傘部隊の輸送に活躍した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
落下傘部隊用には、座席をすべて木製ベンチとする、扉を内開きの大型のものとする、指揮官用のぞき窓の設置、客席両側窓に銃座を設置、などの改修が施されている。なお、一型は一部の機体が海軍に譲渡されてL4M1（三菱双発輸送機）として試用された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
昭和17年（1942年）には、エンジンをハ102（出力1,080hp）に換装し主翼の強化や貨物室の増設を行った二型（一〇〇式二型輸送機）が登場し、陸軍の主力輸送機として兵員輸送、グライダー曳航、物資輸送等の任務で終戦まで活躍した。二型において行われた改修はエンジン換装と主翼強化の他は以下のようなものである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・中央翼燃料タンクに排出装置を設置（23号機から） &lt;br /&gt;
・客室窓を利用した非常脱出口の設置（2号機から） &lt;br /&gt;
・航法室の移設（23号機から） &lt;br /&gt;
・尾輪を回転式に変更（100号機から） &lt;br /&gt;
・翼前縁とプロペラに防氷装置を設置 &lt;br /&gt;
・集合排気管を外側にだけ開口（1号機から） &lt;br /&gt;
・客席の15席への増加（405号機から）。17～19人用の長椅子に変更も可能 &lt;br /&gt;
・滑空機の曳航装置の追加（昭和19年3月試作、同年8月以降標準装備） &lt;br /&gt;
本機は、当時の国産輸送機としては機体性能も運用性も最良の機体で、他国の双発輸送機と比べても遜色のないものだった。ただ、九七式重爆撃機のスリムな機体が原型だったためか、他国の同一規模の輸送機と比べると搭載量や輸送人員が少ない点が欠点であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
昭和16年から昭和20年1月まで、三菱において軍用民用合わせて一型101機、二型406機の合計507機製造された。生産は昭和20年1月以降、日本国際航空工業に移管されたが、移管後の生産数は不明とされている（10機製作とする資料あり）。これは、国産輸送機としては最多であった。民間機としてはMC-20の名称で製造され、航空会社や新聞社などで多数使用された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
機体詳細データ（一〇〇式輸送機Ｉ型［キ５７-Ｉ］）  &lt;br /&gt;
全長 １６．１０ｍ 全高 　４．７７ｍ &lt;br /&gt;
全幅 ２２．６０ｍ 翼面積 ７０．０８ｍ2 &lt;br /&gt;
自重 ５，５２２ｋｇ 最大重量 ７，８６０ｋｇ &lt;br /&gt;
最高速度 ４３０ｋｍ／ｈ（高度３，４００ｍ） 上昇限度 ７，０００ｍ &lt;br /&gt;
航続距離 １，５００ｋｍ プロペラ 可変ピッチ３翅 &lt;br /&gt;
発動機 中島九七式改（ハ５改）空冷複列星形１４気筒　離昇９５０馬力×２基 &lt;br /&gt;
乗員数 　４名 総生産機数 　５０７機（民間型含む） &lt;br /&gt;
武装 武装なし：客席に１１名搭乗可能</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/butagakari11/501281.html</link>
			<pubDate>Sun, 30 Aug 2009 11:59:30 +0900</pubDate>
			<category>飛行機</category>
		</item>
		<item>
			<title>三菱　九九式襲撃機</title>
			<description>&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-bd-93/butagakari11/folder/21631/16/56416/img_0?1251732293&quot; width=&quot;560&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_603_282&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;九九式襲撃機は大日本帝国陸軍によって1939年（昭和14年）に正式採用され、主に太平洋戦争で使用された襲撃機（後述）である。本機に割り当てられた日本陸軍の航空機開発番号はキ-51、連合国側のコードネームはSoniaであった。開発は三菱重工業（以下、三菱）が担い、生産は三菱を中心に1939年（昭和14年）から太平洋戦争期を通じて行われた。派生型として九九式軍偵察機（開発番号は同じくキ-51）がある。また性能向上型としてキ-71が設計されたがこちらは制式採用には至らなかった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;襲撃機とは、敵地上施設（飛行場や地上部隊陣地）および敵地上部隊等に対し低高度から爆撃（特に急降下爆撃）や機銃掃射を行って攻撃を加えるというコンセプトの基に開発された日本陸軍の軍用機のカテゴリーであり、戦闘機と軽爆撃機の中間的な性格を有す、所謂「攻撃機」に近い存在であった。ただし本機の他にはあまり例がなく、キ-93やキ-102、キ-201などが襲撃機の名を冠するが、キ-93は試作段階で終戦を迎え、キ-102はどちらかといえば防空戦闘機的役割で使用されており(ただし、キ102の母体である二式複座戦闘機は軽爆部隊にて襲撃機として多用されており、「二式双襲」との通称名も存在する）、キ-201は戦闘機兼襲撃機（戦闘攻撃機）というコンセプトであった（こちらも設計段階で終戦を迎えている）。もともと襲撃機の役割は直協機（九八式直接協同偵察機など）とも共通しており、地上部隊支援のための戦闘攻撃能力と汎用性の高さが求められた。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;そのような襲撃機の開発指示が1937年（昭和12年）に三菱に対して内示された。大木喬之助技師を主務とする三菱の開発陣は指示書に従い、レシプロエンジンとして三菱製ハ-26II（瑞星）を採用した単発複座単葉の機体を設計した。固定武装は両翼内に7.7mm機銃を2挺、後部座席に旋回式7.7mm機銃を1挺装備した。ただし翼内7.7mm機銃は実戦投入後に空戦及び地上銃撃時の威力不足が指摘されたため、大戦後半（1943年（昭和18年）11月）より12.7mm機銃に換装された。爆弾は当初200kg（12kg×12または50kg×4）まで搭載可能であった。また低空飛行で地上を攻撃する任務の性格上、敵地上部隊からの反撃を受ける可能性が高いことから当時の日本機としては珍しく防弾性が考慮されており、11号機（増加試作機）からはエンジン下面、操縦席下面、背面、胴体下面、中央翼下面を6mm厚の装甲板で保護していた。なお降着装置は固定脚であった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;試作機におけるテスト結果は飛行性能および取扱いも良好であったが、機体の振動や着陸時の失速特性の悪さといった問題も指摘され、量産型では主翼前縁にスラットを設けることでその解決を図った。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;また本機は生産過程で一部仕様（艤装）を変更するだけで軍偵察機型にする事もでき、この型は九九式軍偵察機と呼ばれた。この派生型では後部座席の副操縦装置を取り除き、胴体下・横に開けられた窓から外部を撮影するための写真機が設置された。この仕様変更に対応するため、胴体内に爆弾を収納するスペースは無くなり、爆弾は両翼下に搭載された。また視界を広げるために機体に比して風防が大きく設計されている。ただし艤装以外は元の九九式襲撃機とほとんど同じものである。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;1941年（昭和16年）、性能向上のために九九式襲撃機のエンジンを三菱製ハ-112（金星）に換装し、固定脚を引込脚に変更したキ-71が満州飛行機によって試作されたが、期待した程の性能向上が見られなかったため実用化には至らずに終わった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;九九式襲撃機は日中戦争末期から太平洋戦争全期に渡って使用され、中国大陸から南方戦線（マレー半島、ビルマ、フィリピン、インドネシアなど）まで広い範囲で活躍した。本機は固定脚であり、また搭載されている翼内前方機銃は機首配置の場合のプロペラ同調式ではないため整備性が良く、戦地での酷使にも耐える実用性の高い機体であった。また低空での運動性の高さ（敵戦闘機撃墜の報告もある)、不整地からの離着陸性能、素直な操縦性も高く評価され、教導訓練用の機体としても重宝した。 しかし大戦後半になると旧式化は否めず、敵戦闘機に比べ相対的に低速になったために撃墜される事が多くなり損害が増大している。また他の日本機と同様に爆弾の搭載量が小さく、航続距離も不足しがちであった。それでもその信頼性の高さから終戦まで第一線で活躍し続け、大戦末期には胴体下に250kg爆弾が搭載できるように改造されて対艦攻撃機もしくは特攻機として用いられることも多かった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;生産数は三菱製が1,472機であり、1944年（昭和19年）以降は立川陸軍航空工廠でも1,000機近くが生産され、軍偵察機型も含めた総数は2385機に上る。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;戦後、海外に残存した一部の機体が現地の軍隊で運用された。特に、国共内戦の際の中国人民解放軍やインドネシア独立戦争の際のインドネシア人民軍で運用されたことが知られている。その内、現存機としては修復された実機がインドネシアの博物館に保存・展示されている。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;本機は有名なアメリカの飛行家である、チャールズ・リンドバーグの駆るP-38戦闘機とも戦っている。リンドバーグの仲間の2機を相手に、高い運動性をもって翻弄していた1機が、リンドバーグ機との反航戦での撃ち合いに破れ撃墜されている。&lt;br /&gt;
&lt;div class=&quot;alignCenter&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-bd-93/butagakari11/folder/21631/16/56416/img_1?1251732293&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; class=&quot;popup_img_399_190&quot;&gt;&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
機体詳細データ（九九式襲撃機［キ５１］：後期型）  &lt;br /&gt;
全長 　９．２０ｍ 全高 　２．７３ｍ &lt;br /&gt;
全幅 １２．１０ｍ 翼面積 ２４．０２ｍ2 &lt;br /&gt;
自重 １，８７０ｋｇ 最大重量 ２，９００ｋｇ &lt;br /&gt;
最高速度 ４２５ｋｍ／ｈ（高度３，０００ｍ） 上昇限度 ８，３００ｍ &lt;br /&gt;
航続距離 １，０６０ｋｍ プロペラ ハミルトン定速３翅 &lt;br /&gt;
発動機 中島九九式（ハ２６－II）空冷複列星形１４気筒　公称９５０馬力×１基 &lt;br /&gt;
乗員数 　２名 総生産機数 １，４７２機 &lt;br /&gt;
武装 ７．７ミリ機銃×１、１３ミリ機銃×２、２５０キロ爆弾×１&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/butagakari11/56416.html</link>
			<pubDate>Wed, 05 Aug 2009 18:42:32 +0900</pubDate>
			<category>飛行機</category>
		</item>
		</channel>
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