AndreaとLucasの旅…

もしも瞳に涙がなければ、魂に虹は かからない

小さくされた人々とともに

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何が出来る?

自分の与えられた能力を考えてみたことがあるだろうか?
何が出来るんだろう?
 
学生のころは、
テストが帰ってくると、平均点と最高点のはざまで、一喜一憂したものだ。
仕方ないかぁ。
なんて自分を慰める。
だってちっとも勉強しないんだから当たり前だよね。笑
選択する科目や単位、どうしようか、と悩んだよね。
 
自分が好きなものと成績が合致していればいいけど、
そうじゃなかったりするから、余計にややこしい。
 
わたしは、
国文と歴史と地学と数学と生物ともちろん、体育と保健?爆
が、好きだった。
 
中学まではみんな机を並べて一緒に勉強する。
公立校に行っていればの話だが…
だけど、どうしても
勉強が出来ない子っていたよね。
集中力がないのか?
まったく聞いていないのか?
不思議だった。
 
それと同じように
 
福祉の世界にかかわっている男の子が
なんで生活保護になるのか?わからないって言っていたことがあった。
 
与えられている機質的な能力の違いだよね。
持って生まれたもの、与えられたものが違う。
 
多く与えられたものは、
(人の目から見たら)少なく与えられたものの気持ちはわからない。
 
理解出来ない。
 
自分が生きてきた世界の中でしか物事をとらえることが出来ないから。
 
正職についている両親の存在と兄弟姉妹、
ほとんど同じ環境で暮らす友人たち
自宅があって、
勉強する環境が整えられていて
多少なり悩みはあってもすんなり大学まで出て就職できたら
 
そうでないひとのこと
わからないで当たり前だ
 
知的障碍、精神障碍の親から、生まれた女の子、
やっぱり障碍を持って生まれ成長し、
無防備なゆえにいいようにヤクザのような人間に
売春婦にさせられて搾取され
誰の子供だかわからない子供産み、
また、その子が知的障碍を持って生まれて来る。
そんな悪循環の連鎖の中に生きている人々の気持ちはわからないであろう。
 
そんな事実があることすら、知らないだろう。
 
釜ヶ崎にい行くと、それまで見えなかったものが見えてくる。
わたしは専門家でもないし、能力判定をしたわけでもない。
でも、彼らの大半が知的、精神の障碍を持っていることがわかる。
 
仕事も出来ないだろうし、家族も持て余すであろう。
 
わたしが子供のころは、特殊学級なるものがあり、知的な障碍や精神障碍を持っている子供、そして小児麻痺や身体の障碍を持っている子供たちもその教室にいた。
知的能力が高くても、身体障害があるとそのクラスにいた。
彼らは障害者として、生きる権利を持っていた。
健常者と言われる人々とは雲泥の差だが、障碍年金、必要最低限度しか、つまり雀の涙しかでないが、住むところや最低の保証は与えられる。
でも、
今なら、自閉症、アスペルガー症候群、学習障碍と判断されるであろう子供たちは、障害者と診断されずに、同じクラスで席を並べていた。
大人になった今なら、彼らがなんで勉強ができなかったか、よくわかる。
理解する能力に乏しかったのだから、同じような水準点に達するように求めるほうが間違っていたのだ。
でも、そのころはそんな診断は下されないから、
中学校を卒業すると同時に社会へと旅立っていった。
 
社会へと出た彼らは、いかに?
仕事に就くことができても、なかなか覚えることもできずに
上司や同僚との人間関係さえ築くこともできず、そんなんなら辞めてもらうしかないねと、首を切られ、何度も同じことを繰り返している間に、
心も病んでいくだろうし、経済的にも困窮するだろう。
それこそ、その場しのぎの仕事にしか就くことができず。
街頭で手配師の来るのを待ち…
気が付いたら、釜ヶ崎にいるわけだ。
 
親から愛された覚えがない知的障碍をもった女の子。
男から、性的に求められ、初めて愛されていると感じてしまう。
その場しのぎでしかないのに可愛がられたと感じてしまう。
玩具にされてもそれを愛情だと感じるこころって、いったい。
 
そのときだけでも、大切にされ、優しい言葉をかけられ、
肉体的にも気持ち良く、お金もくれる男の人についていく女の子。
 
 
悪の連鎖を断ち切らない限り
不幸は蝿のようについて廻る。
 
社会的に成功している立場の親を持ち、良い大学を出て
良い会社に就職し良い異性と巡り合って結婚し子供が生まれ
 
幸せの連鎖
 
 
なにが幸せで不幸せかは
ひとりひとりのこころが決めることだけど
 
多くを与えられた人は
多くを多くの人に与えることが出来得る
 
自分のもっているものを与えることが出来る
 
能力は
分かち合うために与えられたもの
決して自分が使うためだけに与えれたものではないんだってこと
この地球の資源と同じように
皆で分かち合って使うとき
それがよろこびで幸せなこと
人間が持っている能力でさえ
神様は分かち合うために与えてくださったのだ
 
 
苦労して働いて
あいつらが働きもしないで楽をして
自分たちの税金で楽して生活保護を貰っていると思うと
腹が立つっていう人がいる。
 
確かに、中には
要領良く、保護を受けている人もいるかもしれない。
だが、生活保護なんて雀の涙なのだ。
誰が好き好んでそんな生活をしたいと思うだろうか?
 
それよりも最低な暮らしをしているから、少しでも
つまり、安心してごはんを食べることが出来る、屋根のあるところで眠れる。
そんな最低限度の暮らしを求めているだけだ。
 
 
苦労して働ける能力をあなたは神様からいただいている。
家族のために汗して働ける能力と健康と力を
 
障碍を持って生まれてきた人々は
その能力を貰っていないの。
代わりに他の何かを貰ってきているかもしれないけれど…。
 
誰かが手を差し出さないと
今日も
彼ら、小さくされた人々は公園のベンチで高速道路の陸橋のたもとで
凍えて死んでいくんよ。
孤独に震えながら…
 
知的障害を持つ女の子を誰かが守らなければ
今日も性的虐待を受けてしまうんよ。
哀しいことに虐待とは思わずに受けていることがまた、悲しみをもたらす。
 
 
わたしたちが与えられた能力
 
器質的なもの
 
そして
 
なによりも
 
こころ
 
 
こころは磨けば磨くほど
 
輝くことができる
 
 
そして
 
人生を楽しむ能力
 
仕事に励み
 
釣りやツーリング、海や山に抱かれて遊び
 
友と語らい
 
 
そして
 
小さくされた人々とともに歩む選択をすることが出来たなら…
 
 
いろいろな考え方の人がいて良いと思う。
 
懸命に生きている人を真剣にサポートしている人々がいる。
 
頭が下がる思いだ。
 
ほんとうに人が真剣になったら、何もかも捨ててそうするのだろうか?
 
わたしは?
 
わたしは、神様が創られたこの美しい地球を楽しみたい!
神様が造られた素敵な人々を味わいたい!
 
それが真剣ではないことだと思わない
 
聖書を読む自分も
 
FTRに乗って風を感じている自分も
 
おんなじ自分
 
両方とも神様を感じている
 
 
わたしはたくさん遊びたい
 
 
そして
 
彼らとも連帯したい
 
わたしができる何かを差し出すことによって
 
 
釜ヶ崎に住む人々だけではなく
 
今日、悲惨な軽費老人ホームに住む方にも
 
家族に拒絶されて生きている方にも
 
寄り添って立つことが出来たなら…
 
 
いろんな自分
 
でも自分
 
解放されて
 
主がわたしを遣いやすいようにすること
 
わたしが遊んでいるときに主も喜んで遊んでくれること
 
 
 
今日、
 
悲しみの隣に寄り添って立ったら
 
笑顔が返ってきたよ
 
 
自分の気持ちを吐き出すことで
 
解放されるときもある
 
わたしはいつもイエス様がいろいろなことを聴いてくださるけど、
 
今日は
 
イエス様のようになんにも言わずに黙って聴いていた
 
彼がわたしにそうしてくださるように
 
彼がわたしを抱きしめてくれるように
 
わたしも抱きしめながらね…
 
 
 
 
小さなことから始められるといい
 
なにかちっちゃなことから
 
ちっちゃなこと、仲間から
 
やがて大きなうねりになって世界へと広がっていく
 
小さな小さなマザーテレサが世界中に愛を運んだようにね
 
わたしたちの心の中には
 
きっと
 
ほんまは
 
びっくりするほどの愛が眠っているんよ
 
自分が気が付かないだけでね。
 
そこから愛を汲みだす魔法を習ったら
 
きっと
 
いつでも人を愛し続けることができるんよ
 
キリストのように愛することが
 
男が女を愛するようにではなく
 
御父が御子 を愛するように…
 
 
 
 
わたしも
 
たくさん愛したい
 
今日
 
であう人
 
ひとりひとりを大切にすることが出来たら…
 
 
小さくされた弱い立場のひとのこころを大切にすることが出来たら
 
 
明日は
 
阿倍野教会でミサに与り、
 
釜ヶ崎に行って炊き出しを手伝い
 
また、教会に帰って掃除を手伝い
 
玉造のそばの自転車屋さんに行ってパーツを受け取り
 
いったん家に帰って掃除をして
 
タイチにヘルメットを見に行き、
 
その足で、河内小阪、ベタニアチャーチへアフリカから来た奇蹟の賜物をいただいた牧師に会いに行って
 
その日はおしまい。
 
さぁ、
 
明日は恵みの一日
 
神様からのプレゼントを開ける日
 
喜びにあふれて…
 
 
Andrea
 
 
 
 
 

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Glory To God ,
Peace on Earth !

今日の釜が崎
メニューは野菜丼

ジャガイモの皮むきを手伝いました。
おっさんたちと世間話
楽しかった

午後は千里で研修
ここでサヨウナラ

しっかし寒いね。
バイクで出かけよう思うてるけど、うひゃ〜だねぇ。



God bless you !
Andrea
今日は、17:30まで仕事をして30分切り上げて、事務所を後にする。
 
火曜日はふるさとの家で夕方のミサがあるからだ。
 
前回の「初めてミサに与った時」のことを詳しくは書いていないが、わたしが求めていたミサ聖祭がそこにはあった。
 
イエス・キリストの御言葉を味わうこと。
 
わたしは言葉を上手に使うことが自分の望むようには、うまくできていないが、それでも、とっても大切だと思う。
ましてや、それが聖書の言葉、つまり、イエス様、その人そのもの、だとしたら、こだわらないではいられないであろう。
主がお話になった、その言葉、そのまんまを聴きたい。
ニュアンスを曲げずに、彼の言葉、肉声のように聴きたい。
彼そのものに会いたい。
聖書を読むとは、彼に出会うことそのものだから。
 
イエズス会のディアス神父様も、こだわっておられた。
パンは割って与えるのではなく、裂いて与えるのだ!って、ただし、教会がちゃんと訂正しない限り、ミサでは仕方がないので割ってと言います。と、言っていた。
従順が大切と教えられているからか?
 
わたしは何をしに教会に行っているのだろう?
真理に出会うために行っている。
御言葉に出会うということを求めている。
だとしたら、ほんまの言葉を味あわせてほしい。
 
今まで信じてきた言葉が、聖書の言葉が違うとしたら、かなりショックだ。
でも、これはどうやら真実の話のようだ。
 
イエス様は大工だと、信じていた。
家を作る大工ではなく、家具職人とも聞いていた。
でも、ほんとうは石を切り出す職人だった。
つまり石切り大工。
 
イエス様はわたしのお父さんのように肉体労働者で、その中でも特に低い地位の労働者だった。
イエス様はきっと筋肉隆々だっただろう。
 
本田神父様は聖書の解釈をしてくださる、原文にもっとも近い訳だ。
イエス様の御言葉を聴きたいとほんまに望んでいたら、神様がわたしに本田神父様を与えてくださった。
わたしは常識や理屈を聴きたいわけではない、人には親切にしましょうとか、そんな類の一般常識を聴きに教会に行っているわけではない。
厳しくともイエス様の言葉が聴きたいのだ。
 
それは、みんなそうなんじゃないか?
ぬるま湯に浸かっていたい人もいるから、わからないけど。
 
 
大切なことは、
 
恐れないこと。
 
小教区や修道院は、天国ではない。
だから仕方ないのだ、恐れに取り付かれた人がおったとしても。
自分も完璧でないように、相手も完ぺきではない。
自分が不安になるように彼らも不安になるのだということ。
だからこそ大切なことは、赦しあうこと。
赦しあうことをイエス様は望まれていらっしゃる。
ただわたしは前に進みたいだけだ。
恐れに取り付かれた今の教会を打破したいのだ。
 
イエス様の御力さえ働けば、一昼夜にしてすべては変えられる。
主に願えばできないことは何一つないのだから。
わたしはイエス様を信じます。
 
 
イエス様を見つめていたい。
イエス様とともにおったら、怖れない、恐れなどない。
 
イエス様に会いたい、会いたい、いつか実際にあえたらと思っていた。
そしてイエス様は釜ヶ崎にいらっしゃった。
 
イエス様は、おっしゃった。
小さくされた人々の中にわたしはいる。
 
彼らの側に立つことによって、彼らから見る世間によって
わたしは正しきことを
イエス様が望まれる社会を、この世を見ることができる。
独りよがりの正しさではなく、
イエス様が求められる義を理解することができるようになる。
 
わたしたちは
すぐに恐れる
 
イエス様から目を離すからだ。
 
わたしにつながっていなければ、枯れて死んでしまう。
つまり、小さくされた人々につながっていなければ、真理は見えず、自分勝手な義にしかなりえないのかもしれない。
 
 
わたしはこの恐れに取り付かれたキリスト教の世界にがっかりすることなく、
希望を持って旅していくのだ。
 
なぜなら、
わたしたちには死に打ち勝ったイエス様がおられるから。
 
わたしたちがイエス様の御名によって願えば
必ずかなえてくださると知っているから。
 
 
イエス様は今日、わたしにこうおっしゃった。
 
『娘よ、勇気を持ちなさい。わたしはいつもおまえのそばにいる。』
 
 
わたしは
たくさんの良いもので満たされている。
 
きっと誰よりも誰よりも幸せだ。
わたしは恐れない
イエス様が一緒におってくださるから
わたしはミサに与るごとに
命の泉から水を汲んで飲んでいる
永遠の命に至る水
乾くことがない水
 
人々よ、
 
恐れるな
 
わたしは世の終わりまであなたがたとともにいる。
 
 
信頼をもってあなたに仕えます。
 
 
Andrea
 
 
 
 

釜、デビュー♪

主の平和。
 
今日はお休み、休みたくないくらいの仕事の量だが、休みはしっかり休まにゃいけん。
いつものように朝ミサに与り、いったん帰宅。
朝ごはん、食べながら今日のスケジュールを組み立てる。
(そういえば、外食を一度もせずにずっと食事を作り、お弁当も持っていっている。
バイトしなきゃ、できるよね。そのくらい。笑)
ほんまはバイトしたいのだが、首になるらしいので止めておく。
冬のボーナスが出るまで食いつながないと…。
主よ、経済の祝福をお与えください。
 
京都までの初ツーリング?
MTBのメンテナンス?
美容院に行くか?(だって、もう半年近く行ってない。すごいことになっている爆)
それとも送ってきてくれたガジマ氏のDVDを見るか?
イエス様は釜ヶ崎に行きなさいと、おっしゃる。
 
それで、毛糸の帽子を持ってヴィンセンシオ・パウロの修道会にシスターを訪ねる。
もらってもらうと、三角公園で炊き出しをしているようなので、横目で見ながら、通り過ぎ、守護の天使のシスターたちのおうちにお邪魔して自転車を停めさせてもらう。
そこから炊き出しを手伝いに行く。
ただのお皿を拭くだけだが…。
たくさんの人々がお手伝いしている、阿倍野教会で一緒に朝ミサに与っている人もいる。まだ、話をしたことがないけれど、きっといつか親しくおはなしするだろう。
たくさんの人々が行列を作って並んでいる。
お代わり自由らしい。
最初の中華丼のようなものから、お粥さんになる。
プラスティックでできた丼を拭きながら、わたしは100均で買う皿で食事をすることがとても哀しかったことを思い出した。
広島の家に一人で暮らすときに、食器がなくて買おうとしたら、同僚に100均で十分と、言われ我慢して買ったけど、やっぱりあまりの醜さに食事が不味くなって、哀しくなったのだ。
自分で選んだ趣のある皿に手料理を盛る、目で楽しんで味わう。
普通と思っていることが、普通ではないことに気がつく。
生活する、生きていくってことがどういうことか?
『食べられる』ということのありがたさ。
彼らは今日食べられることが大切なのだ。
わたしは食べられて当たり前で、その上に優雅に食事をしたいのだ。
この違い。
わたしは一体何者?
 
シスターから声がかかる、今朝もミサで一緒だった。
午後から、『元気祭り』というおっちゃんたちや、子供たちで元気に遊ぶお祭りがあるから、良かったら手伝ってね。って、ついでに食事まで誘っていただき、美味しいお昼にありついた。
横浜におった頃は、よくフランシスコ会のシスターたちに食事を御馳走になった。
あるものでもてなしてくださるそのともに食事をいただける嬉しさ、はたとえようがない。
イエス様も本当に食事をともにすることを大切にされた。
食事を共にするっていうことは、仲間であると相手に伝えること。
わたしはうけいれられ、幸せだ。
 
午後から喫茶部でお手伝い、コーラの売れ行きがとっても良い。
フリーの喫茶と書かれているチケットをもぎ取って、好きな飲みものを選ぶ、聞いてから紙コップに注ぐ、そして手渡す。
わたしの手と彼らの手が触れる。
どちらかと言うと、おっちゃんたちは手が触れないように気をつけながら、コップを受け取ろうとしている様子だった。
食事をともにするのと一緒で、手が触れるということは大切なこと。
大切な存在として接すること。
お母さんがご飯を盛ったお茶わんを家族に渡すとき、家族の手に触れるでしょ?
それと同じだから。
一人だけ、色気が抜けてないおっちゃんもおったけどね。まったく仕方ない。
 
客観的にみているとイエス様がおっしゃっていたことがよくわかる。
貧しくされているもの、弱い者、苦しんでいるもの、のそばに立つこと。
 
どうして、世の中には、富や、健康や、美貌に恵まれている人もいれば、障碍を持って生まれてきた上に、病気がちで貧乏で、また、天涯孤独だったり、等不幸続きのような人もいるのだろうか?
と、考えたことがないだろうか?
この世の不条理に神様など、いないと思ってしまう人もたくさんいるかもしれない。
でも、わたしにはわかる。
今のわたしだからわかる。
それで良いのだ。
なぜなら、人生はチャレンジだから、何への?
分かち合うことへのチャレンジなのだ。
持っているものは多く与えるために、
持たざる者は喜んで貰うことへのチャレンジ。
 
与えあうことへのチャレンジ。
 
不完全な形で生まれてきて、完全になるために試行錯誤を繰り返す。
御国とは天国とは分かち合うこと。
愛し合うことへの誘い。
 
神は唯一無二のものだから。
そのままで完成されているけれど、わたしたち人間は不完全。
だからこそ完全を目指し、ある人間としての時が与えられているのだ。
 
この人生は短く。
その後に続く魂の道は長い。
それは永遠。
永遠に神とともにいるか、悪魔に地獄に連れて行かれるかのどちらかなのだ。
チャンスは与えられている。
人の魂に神様はおまえはわたしのもの、と書きこんであるから。
人は知っているのだ。
だから、言い訳はできない。
自分の魂を見つめよう。
そしてそこに答えがある。
 
真理を求めよう。
 
わたしは彼らと分かち合って初めて、キリストと一致することができるのだ。
キリストは一人ではない。
わたしたちが一部だから、すべての人の協力が必要なのだ。
わたしたちは欠けた者同士。
人の悪口を言うものも、自分のことだけしか考えないようにしか見えないものも、はっとするほど優しい人も、みんな神様の愛する子供。
だから、赦しあい、教えあい、謙虚に生きること。
愛はわけ隔てをしない。
 
御国とはキリストの身体を一人一人が形作っていくこと。
 
イエス様がそう、教えてくださった。
 
自分の足りなさに涙する時も、
この世の尺度から見たらどうしようもない程に貧しくされた人々を見て、自分は与えられていた賜物を使っていなかったことに気がついた夜も、
すべては赦されて
 
これからだよ、っておっしゃる。
 
やっと用意ができた。
 
主はこれからわたしを用いてくださる。
 
イザヤが叫んだように、
 
わたしも叫ぶ。
 
主よ、わたしがここにいます。
 
わたしを用いてください。
 
わたしがあなたの証びとになります。
 
日本の人々があなたの御名によって救わるように。
 
わたしにあなたの御臨在を運ばせてください。
 
皿を拭くところから、連帯が始まります。
 
一つのパンを分かち合うところから、キリストの身体は形造られます。
 
 
彼らの中にいらっしゃる主、イエスよ。
 
どうかあなたの御足に香油を塗らさせてください。
 
 
わたしの霊と魂と精神が、あなたを求めますように…。
 
 
神に感謝。
 
あなたは素晴らしい!ハレルヤ♪
 
 
Andrea
 
 
 
 
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主の平和
 
あなたがたに平和があるように
 
 
大阪に来てから、ほんまにいろいろなことがありすぎて
よう書くことができないでいる。
仕事が忙しすぎて業務日誌と支援経過記録ができていないのといい勝負だ。
 
でも、残しておきたいような気がするので記録しておこう。
 
阿倍野教会に導きたもう主は、わたしを確実に魂の望む道、
主イエスが望まれている道へとわたしを招いている。
 
聖木曜日から阿倍野教会へ
道で偶然出会った夫妻、教会共同体の一員。
喜びにあふれて
わたしは聖金曜日、聖土曜日、そして復活の主日。
土曜日はお休みだったので、準備を手伝った。
その日の18時からミサが始まり二時間ちょっと。
ミサの後はパーティだ。
婦人たち、そして少ないながらも男性陣もお手伝いして出来上がった料理はとても素晴らしかった。
隣にはSさん、という方が座られて、その隣にはTさん。
釜ヶ崎のふるさとの家に本田神父様がいて良い神父様だから
ミサに与りにくるチャンスがあれば、寄りなさい。とのこと。
よくよ聞いてみると、守護の天使の姉妹会のシスターだった。
じゃぁ、あなたがあの…。
あなたって?
そう、聖木曜日の日に知り合ったご夫妻の紹介でこれまた、路上で出会ったスペイン人のシスターに紹介されて、隣でミサに与ったのだ。
そのシスターと同じ修道会なので、あなたが噂の…というわけだ。
本田神父様の話は聞いているし、いつか必ずお邪魔します。
とお話し、その日はお別れする。
11日が日曜日だが、わたしは仕事なので18日にしか行けない。
だいぶ先ですね。って話していた。
 
だが、イエス様は待っておられなかった。
あの例のアマゴをH氏が送ってきてくださったのだが、冷凍で送ってね!とは言ってあったのだが、宅急便のお兄さんが持ってきたのは冷蔵だった。
程よく解凍されていて、もう二度は冷凍にはできるはずもなく、せっかく美味しいアマゴが…。
どう見ても食べきれる量ではないので、どうしよう?
これって、好き嫌いあるし…。
そうだ、こういうときは聖職者に、寄付だ。笑
そこで、先日知り合ったシスターに連絡すると喜んで貰ってくれるそうなので、
火曜日に仕事が終わってから、自転車で萩之茶屋までかっ飛ばす。
住吉区から西成区まで約、5キロ弱、一旦、自宅に戻り魚を取って、三角公園の向かいにあるふるさとの家を目指す。
ダッシュだ。
なぜなら、火曜日の18時半からミサを奉げるから、司式は本田神父様。
汗だくの中、なんとか間に合う。
自転車を敷地内に入れさせてもらい、二階に上がると質素な会議用の古いデスクの上に白い布が敷かれその上に、陶器でできた聖杯とパンを載せるくるみの木?でできた器。
そして半円形にならんだシスターたち。+男の人が一人。
ミサが始まる。
とっても変わったミサだった。
 
そして本田神父様にガツンとやられた。
 
わたしはここで何をすべきか?
お前の信仰は?
イエス様は何を求めているのか?
キリストに似たものとなるためには?狭い門から入れとは?
洗礼とは?
 
ぐいぐいと喉元にナイフを突き付けられているようだった。
わたしはぐうの音も出ない。
実際に実践してる人々の前でわたしは一体何もの?
 
日曜日にBMに行った自分が恥ずかしかった。
 
洗礼を受けて己に死んだはずなのに
まだまだというより、何のためにキリストと結ばれたのか?
わたしには使命がある。
そして選択可能だ。
いつでも拒否できる。
いつでもそれを選ぶことができる。
おまえはイエスの十字架をともに担う覚悟ができているのか?
 
ラ・ブゥ〜ニィ
わたしはあなたに従います。
 
従いたいのです。
だからどうぞ、従えるようにわたしを強めてください。
主よ、わたしは貧しいものです。
だからこそ、あなたの愛と慰めが必要です。
主よ、あなたを心から愛したいのです。
 
娘よ
小さくされた人々の中にいるわたしを
おまえは愛せるか?
飢えて汚れて排泄物にまみれて
今日食べるものにもありつけない人々の中にいるわたしを
おまえは愛せるか?
排泄物にまみれアルコールや薬物に汚染された人々の中にいるわたしを
おまえは愛せるか?
牢獄にいるわたしを
おまえは愛せるか?
 
ラ・ブゥ〜ニィ
あなたが裂いてわたしにくださるあなたの御身体を
むしゃむしゃと喰らい尽くすことで、
あなたが流す御血に満たされた杯を飲み干すことで
わたしはあなたを
小さくされた人々の中にいらっしゃるあなたを愛することができるでしょうか?
 
わたしは勇気を持って
前進します。
あなたがそう望まれるのなら
あなたはわたしに愛し合いなさいとおっしゃいます。
わたしがあなたがたを愛したように
互いに愛し合いなさいと
 
わたしはあなたがわたしに残してくださった
慰め主である聖霊様とそして聖書に書かれている御言葉のすべてを信じます。
そして行うものとなります。
聖書の世界を生き抜くものとなります。
それは祈りによって可能です。
それは聖霊様の満たしによってしかなしえることではありません。
すべては神様の御心によって
 
あなたは本田神父様を通してわたしに語りかけられました。
あなたの言葉を実践しているシスターたちを通してわたしに無言で語りかけられます。
 
あなたが確かにわたしを深く深く愛していてくださっているのがわたしにはわかります。
なぜなら多くをあなたはわたしに求めるからです。
多くを与えられたものは、多くを求められるからです。
主よ、わたしの持っているものでよかったら
すべてあなたのものです。
どうぞ、今すべてをあなたに差し出します。
お受け取りください。
 
あなたを
ただ愛したいのです。
人々の中にいらっしゃるあなたを
苦しむ人々の中にいらっしゃるあなたを
喜ぶ人々の中にいらっしゃるあなたを
ただ愛したいのです。
 
わたしにたくさんの良いものをお与えになる主よ
わたしはあなたを愛します。
 
 
どうか、あなたの愛でわたしを満たしてください。
 
 
 
あなたの婢Andreaより愛をこめて
 
 
 
 

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