ぶ〜じゃえもんの戯れ言

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維新前夜の文久三年(一八六三)、屋井先蔵は越後(新潟県)長岡藩の下級武士の子として長岡に生まれた。幼くして父を亡くし、母や姉と共に親戚に身を寄せて暮らした。十三歳になった時、先蔵は一大決意をする。東京へ出て技術を身に付け、家名を興すことだった。反対する叔父を説き伏せ、九日間歩き通して東京へ出た。そして神田の大きな時計店で丁稚として働くことになる。「時計」は、まさに文明開花のシンボルだった。この時代の最先端を行く機械に魅せられた先蔵だったが、残念なことに病に倒れ、一年半後には故郷へ帰る。大きな夢を描いて出てきた少年には辛い出来事だった。

ふるさと長岡に戻った先蔵は、母の手厚い看護を受けて快復し、長岡の豪商「絹五」で働くことになる。「絹五」は、戊辰戦争(一八六八〜九)の折には官軍の本陣となり、西園寺公望が逗留していたという立派な構えの商家だった。「絹五」の主人は、新潟県村上のお茶を横浜や東京築地の居留地の外国商人に売りさばき、彼らから時計を買い求めて帰った。銀座に服部時計店が出店する以前、明治七年(一八七四)に長岡には既に時計店があったのである。先蔵は、この「絹五」で修理工として七年の年季奉公をする。しかし修理の仕事では飽き足らず、先蔵は"永久機関"を作ろうと思い立つが、基礎がないため失敗を繰り返す。そして「やはり東京へ出て勉強し、機械の世界に進もう!」と再度心に誓った。

再び東京へ出た先蔵は、郷土出身の代議士の家に書生として住み込み、夜間は明治十四年(一八八一)に誕生して間もない東京物理学校(現・東京理科大学)に通う。同校は誰でも入学できる代わり、進級が難しかった。先蔵は、物理学校に身を置きつつ、職工学校(現・東工大)を受験したが失敗。更に一年猛勉強を重ね挑戦しようとしたが、五分の遅刻で受験できなかった。当時はラジオも無く、時報も無い。時計もどれが正しいのか分からなかったと思われる。これは、先蔵にとって、一大痛恨事であった。というのも、年齢制限で、先蔵には最後の受験のチャンスだったのである。

ひらめいたが厚い壁

先蔵は、不屈の精神力があり、苦境に立つとそれをバネにして、新たなチャレンジを始めるといった青年だった。この遅刻事件を契機に挑戦したのが、電気の作用で数百個の時計が同時刻を示す「連続電気時計」だった。発展し続ける鉄道にも郵便にも、必要とされると確信したからである。まさに文明開化の必需品! 青年発明家は時代を読み、燃えた!進学を諦め、物理学校の職工として働きながら、夜も眠らず試作に没頭。完成にこぎ着ける。しかし、彼が使用した電池は英化学者の発明したダニエル電池と同じで、電解液をこまめに変えなければパワーが落ちるし、大きくて持ち運びに不便だった。

「もっと使いやすい"乾いた電池"が必要だ!」・先蔵のモノヅクリの心にまたまた火がついた。基礎の勉強をしていない先蔵にとって、この挑戦は苛酷なものだった。電極は何にするか? 実験を重ねて辿り着いたのが、亜鉛の筒のマイナス極と、炭素棒によるプラス極だった。電解液は? スタートは、海水あたりからだったと言われている。これはまだ序の口だった。二酸化マンガンに辿り着くまで、また、電解液がマンガンに染み込まないための工夫、電解液を扱いやすくするためにドロドロにするには……などなど。最大の難関は、陽極の炭素棒に電解液を染み込ませない方法を見つけ出すことだった。ほとんどクリアしたのに、炭素棒の微小な穴に電解液が染み込み電池を腐食させてしまう……この問題は、三年近く先蔵を悩ませた。壁は、思わぬ出来事から解決を見る。研究室の机にこぼした水をロウソクのロウが流れていた所だけ弾いている。溶かしたロウで炭素棒を煮て、微小の穴をロウで埋めればいいのだ!世界最初の「乾電池」が、ここに完成した。時に明治二十年(一八八七)、先蔵二十四歳。

特許を取らなかった

昨今、知的財産(権)の問題は数々の話題を呼んでいる。この大発明のその後を見れば、誰しも口惜しい思いに駆られるだろう。当時は特許の重要性が理解されず、また貧しい先蔵には特許申請の費用も無かった。この頃、欧米各地を巡ってきた大倉喜八郎は、先進各国にも乾電池は無かったと証言している。大倉喜八郎は、先蔵と同郷の越後出身の実業家で、大倉財閥の基礎を作った人物である。明治二十四年(一八九一)二十八歳になった先蔵は所帯を持ち、浅草七軒町の長屋に「屋井乾電池合資会社」の看板を掲げた。しかし注文はサッパリ無く、清貧の日々を過ごす。先蔵とその大発明は、時代より少し先を駆けていた、と言えるのだろう。

失意の先蔵に、さらに無念なことが追討ちをかける。明治二十五年(一八九二)、アメリカの「シカゴ万国博覧会」に日本から地震計が出品され、それに先蔵の乾電池が使用された。ところが万博の二年後、先蔵が創ったのと全く同じ乾電池がアメリカから輸入され始めたのである。先蔵は「ドライ・バッテリー」というその商品名そのものも自分が名付けた「乾電池」の直訳だと、大いに憤慨したと言う。先蔵は、しかし改良を加え続け、その製品は徐々に認められていった。日清・日露戦争を勝利に導くのに、小型で寒冷地でも凍結しない屋井乾電池が大いに威力を発揮する。当時、中国やロシアが使っていた蓄電池は、寒冷地では電解液が凍結して無線が打てなかった。情報戦で、これは決定的な差であったろう。明治、大正、昭和と、近代化を目指す国造りの分野で、屋井先蔵の乾電池は大活躍。宮中茶話会(大正天皇の時)にも招かれ、面目をほどこした。明治という極めてユニークな時代に、越後の一青年が、困窮のなかで苦学しつつ、世界で最初に乾電池を完成させたということは、深い感動を誘う。

平成の屋井青年よ…

今日、乾電池のない生活は考えられまい。その端著を開いたのが先蔵であった。この時代に先駆けた発明家は、昭和二年(一九二七)、六十四歳で永眠する。しかし、そのモノを創り出す歓びは、いつの時代にも受け継がれていくことだろう。そして現在の東京理科大学のキャンパスにも、平成の屋井青年がきっといるに違いない。

東京理科大学ホームページより

イザナミ

イザナミ(伊弉冉、伊邪那美、伊弉弥)は、日本神話の女神。文中に「妹伊邪那美」の記述があるためイザナギの妹であると誤解されるが、この場合の「妹」は妻や年下の女性を親しみを込めて使う言葉であって、自分より年下の女子の兄弟の意味ではない。イザナギの妻。別名 黄泉津大神、道敷大神。

天地開闢において神世七代の最後にイザナギとともに生まれた。国産み・神産みにおいてイザナギとの間に日本国土を形づくる多数の子を設ける。その中には淡路島・隠岐島からはじめやがて日本列島を生み、更に山・海など森羅万象の神々を生んだ。火の神カグツチを産んだために陰部に火傷を負って病に臥せのちに亡くなるが、その際にも尿や糞や吐瀉物から神々を生んだ。なきがらは、『古事記』によれば出雲と伯伎(伯耆)の境の比婆山(現在の島根県安来市伯太町)に、『日本書紀』の一書によれば紀伊の熊野の有馬村(三重県熊野市有馬の花窟神社)に葬られたという。死後、イザナミは妻に逢いたくて黄泉国までやってきたイザナギに腐敗した死体を見られたことを恥じ、恐怖で逃げるイザナギを追いかける。しかし、イザナミに対してイザナギが黄泉比良坂で道を塞ぎ、会えなくしてしまう。そして、イザナミとイザナギは離縁した。イザナミは黄泉国の主宰神となり、黄泉津大神、道敷大神と呼ばれるようになった。

名前の「いざな」は「誘う(いざなう)」の意で、「み」は女性を表す語である。また、イザ・ナミ(波)と解してイザ・ナギ(凪)と対の神名であるとする説もある。別名の黄泉津大神は黄泉国の主宰神の意、道敷大神は(黄泉比良坂でイザナギに)追いついた神という意味である。このような死と戦争をつかさどる性格が黄泉津大神からは読み取れるが、比較神話学的にはハイヌウェレ型神話などに関係付けられる。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

イザナギ

イザナギ(伊弉諾・伊邪那岐)は、日本神話に登場する男神。イザナキとも呼ばれる。文中に「妹伊邪那美」の記述があるためイザナミの兄であると誤解されるが、この場合の「妹」は妻や年下の女性を親しみを込めて使う言葉であって、自分より年下の女子の兄弟の意味ではない。『古事記』では伊邪那岐命、『日本書紀』では、伊弉諾神とされる。イザナミの夫。

天地開闢において神世七代の最後にイザナミとともに生まれた。国産み・神産みにおいてイザナミとの間に日本国土を形づくる多数の子を儲ける。その中には淡路島を筆頭に本州・四国・九州等の島々、石・木・海(大綿津見神)・水・風・山(大山津見神)・野・火など森羅万象の神が含まれる。イザナミがカグツチを産んだために陰部に火傷を負って亡くなると、そのカグツチを殺し(その血や死体からも神が生まれる)、出雲と伯伎(伯耆)の国境の比婆山に埋葬した。

しかし、イザナミに逢いたい気持ちを捨てきれず、黄泉国まで逢いに行くが、そこで見たものは腐敗し、ウジにたかられ、雷(いかづち)が乗ったイザナミの姿であった。その姿を恐れてイザナギは逃げ出してしまう。追いかけるイザナミ、雷(いかづち)を振り切り、黄泉比良坂でイザナミと離縁した。

黄泉国のケガレを落とすために日向国で禊を行うと様々な神が生まれ、最後にアマテラス・ツクヨミ・スサノオの三貴子が生まれた。イザナギは三貴子にそれぞれ高天原・夜・海原の統治を委任した。しかし、スサノオがイザナミのいる黄泉国へ行きたいと言って泣き止まないため、スサノオを追放し、近江の多賀大社(滋賀県犬上郡多賀町)に篭った。又、現在の日本の事を浦安と名付けたと日本書紀に記されている。

名前の「いざな」は「誘う(いざなう)」の意で、「ぎ」は男性を表す語である。また、イザ・ナギ(凪)と解してイザ・ナミ(波)と対の神名であるとする説もある。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

大谷 米太郎(おおたに よねたろう、1881年7月24日 - 1968年5月19日)は富山県小矢部市出身の実業家。

1881年(明治14年)、貧農の小作農家の長男に生まれる。弟妹が5人いて、小学校にも満足に通えなかった。

13歳から24歳まで、百姓奉公と酒屋奉公をする。

24歳の時、父親が死亡。父の変わりに、家族8人のために小作を続ける。一方、酒屋奉もする。文字通り、朝から晩まで闇雲に働いた。けれども、生活は一向に楽にならなかった。食事も、鶏が食べるような屑米を食べていた。と、いう。

そういう赤貧洗うが如しの状態にあって、唯一の楽しみは 、村で行われる相撲大会だった。米次郎はいつも、優勝して、賞品を手にしてた。それだけに、「田舎の横綱」として、その方面では名前が知られてた。

明治44年、31歳の時に、いつまでも田舎に逼塞していても、将来の目算が立たない。と、判断して、母親に三年の暇をくれるよう懇願する。そして、僅かな金(20銭)を親から借りて、裸一貫で上京する。

しかし、単身田舎から出てきたばかりの保証人もいない男に、まともな仕事は見つからなかった。

職探しに奔走しても、保証人のない悲しさ。広い東京で、相手にしてくれる人は、誰もいない。母親の作ってくれたおにぎりもなくなり、15銭の宿賃を払って投宿したものの、明日からはなんの目安もない。

だが、一日の疲労と楽天的性格で泥のように眠りこけた。

だが、同宿の荷揚げ手配師の世話で、翌日から港湾人夫として働く。体力があったから、普通の人夫の2・3倍働くので、一日にして重宝がられる。

日雇人夫の仕事にありつけても、雨が降ったり、仕事の無い時には遠くまで探しにいくので食べるのが精いっぱい。そんな時、仕事にあぶれて仕方なく、畑の大根を失敬したり、ごみ箱を漁ったこともあった。と、いう。この当時が、最も貧窮のどん底であったろう。

だが、何が何でも種銭を作る事が先決。といって、乏しい賃金の中から、貯金をする。

日雇い稼業から足を洗い、色々な店で働くようになる。そんな時、昔とった杵柄で、両国の国技館で力士になる。

フンドシ担ぎから、幕下筆頭にまで出世する。しかし、田舎相撲で指をなくしていたので、幕内に上る事を断念する。

そして、酒屋稼業に転身する。その当時、相撲時代から相思相愛の女性と結婚する。けれど、慣れない商売は、大変だった。

しかし、人の気持を掴むのが上手だったので、成功にこぎつける。その後
、更に儲かる仕事を求めて、田舎から上京した弟の竹次郎とともに、鉄鋼圧延用のロールを作る町工場を経営するようになる。

以降、米太郎は弟の竹次郎と二人三脚の事業展開を行なう。

1923年9月1日、関東大震災が発生する。米太郎の町工場も焼けて、跡形も無くなる。けれど、持ち前の前向き志向と、機を見るに敏なる性格で、禍を福に転じてしまう。

米太郎は、震災復興を行なう土建事業や鉄鋼事業に注目して、大谷重工業を起業して、基礎が確立する。

やがて、満州に工場進出して、事業拡大を図る。「鉄鋼王」とまで、呼ばれるようになる。

しかし、太平洋戦争の敗戦で、これまで築いてきた財産が半減する。けれど、公職追放にならなかった。それが幸いして、戦後復興に全力を挙げる。
戦後の朝鮮特需の勢いに乗って、大谷重工業は息を吹き返す。そして、巨万の富を築く。

その後、米太郎は経営不振に陥った会社を再建する事業を行なう。その一つに、星製薬がある。

両国国技館は占領軍に接収されてしまったので、蔵前に国技館の建設に協力するなどの慈善事業を行なう。

1964年、東京オリンピックの開催が決まる。東京都から2万坪の元伏見宮邸跡地を買うよう要請された土地に、オリンピックの宿泊施設不足からホテルニュ−オ−タニの建設事業を起こす。

また、浅草・新宿・大森に「少年センタ−」の設立に寄付。
郷里富山県小杉町に大谷技術短期大学を作る。

米太郎は家庭の都合で、学校は行けなかったが天性カンがよく、目で覚えるのに優れていた。従って技術もすべて独学で習得した。この事は、美術収集にも生かされ、浮世絵のコレクターでも知られ、彼のコレクションはニューオータニ美術館で見ることが出来る。

1968年(昭和43年)、86歳のときに脳腫瘍で死去。

生前、「いくら口がうまくても実行しなければ、人は信用してくれない。」
と、言う人生訓を堅持して、大谷米次郎は、あまり知られていない。

1997年5月、鎌倉佐助に鎌倉大谷記念美術館が開館した 。鎌倉中央図書館の近くの、丘を背にした奥まった閑静な場所である。この美術館には、大谷米太郎が長年収集した日本画と三男米一の西洋画のコレクションが、所蔵されていて随時展覧されている。もと米一の住居を一般に開放して、私設美術館にしたものである。

「いくら口がうまくても実行しなければ、人は信用してくれない。」
と、言う人生訓を堅持して、あまり知られていない。

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鈴木 梅太郎(すずき うめたろう、1874年4月7日 - 1943年9月20日)は、日本の農芸化学者。東京帝国大学教授で理化学研究所設立者の一人。

明治7年(1874年)静岡県牧之原市(旧・相良町地頭方村堀野新田)で農業を営む鈴木庄蔵の次男として生まれる。

地頭方小学校に学び14歳の春大志を抱いて単身徒歩にて上京、勉学に励み東京帝国大学農科大学農芸化学科を首席で卒業、大学院に進む。

明治34年、桑の萎縮病の研究により27歳で農学博士の学位を得る。同年、スイス、次いでドイツに留学し、有機化学を学んだ。

翌年、文部省留学生としてドイツに派遣され、ノーベル化学賞受賞者であるエミール・フィッシャーの下でタンパク質やアミノ酸の分析技術を学び、幾多の研究を完成させる。

フィッシャーは「日本でなければできないような問題を取り上げて、一つ一つ解決していくのがよい」とアドバイスされ、日本人の主食である米を生涯の研究対象とすることを決意する。

明治39年に帰国し、翌40年、東京帝国大学農科大学の教授に就任し、後輩の指導及び研究に没頭する。

当時、日本では陸海軍の兵士に脚気(かっけ)患者が多く、また、地方から上京した者が多数脚気にかかり、そのため死亡する者も少なくなかった。
原因も不明であり、死亡する者も少なくなかった。政府は臨時脚気調査会を設置して、その対策を考えねばならない情勢にあった。

そこで彼は、この問題を解決するため研究に着手し、米糠中に脚気を治癒する成分のあることを実験的に確認する。

1910年(明治43年)12月13日、米の糠(こめぬか)のなかから、脚気をなおす成分の抗脚気因子として世界初のビタミンであるアベリ酸(のちにオリザニンと改名=ビタミンB1)を発見する。

当時、原因不明の病気として恐れられていた脚気は、医学界では細菌によるものと考えられていた。
農芸化学者である鈴木が医学に口を挟んだことを、日本の医学界は快く思っていなかった。東京帝国大学医学部を中心とする多くの医学者の間で脚気感染症説が信じられていた。某医学者(青山胤通あるいは森林太郎(森鴎外)のことともいわれる)は「農学者が何を言うか、糠が効くのなら小便でも効くだろう」と非難したという。しかし実際にこれによる脚気の治癒例が相次ぎ、脚気感染症説論者もオリザニンの効果を信じざるを得なくなった。ただし、森林太郎は死ぬまで自説の誤りを認めなかったと伝えられている。

「オリザニン」は、イネの学名「オリバ・サティバ(Oryza sativa)」から命名された。鈴木は、ハトに白米を与え続けると脚気にかかり、糠を与えると回復することを見出し、糠から脚気に効く成分を取り出すことに成功する。

当初、その成分はアベリ酸と呼ばれていたが、後に酸でないことがわかりオリザニンと改められた。

さらに、ビタミン研究は英米が中心で、このときの論文をドイツ語に翻訳される際、「これは新しい栄養素である」という一行が訳出されなかったためオリザニンは世界的な注目を受けることがなく、第一発見者としては日本国内で知られるのみとなってしまった。

そのような経緯から、1年後に脚気の研究で同様な結果を得たポーランドの生化学者カシミール・フンク(C.Funk)がビタミン(Vitamine)と名付け発表する。
ビタミンは“生命(ビタ)に必要な有機化合物(アミン)”という意味になる。世界的には、フンクが最初の発見者として知られる。

1912年、この物質を「オリザニン」と名付けて、ドイツで発表する。

その後、この「アベリ酸」が不可欠の栄養素であることを動物実験により証明し、今日のビタミン学の基礎を確立する。
また、米糠中から「アベリ酸」の分離に成功し、特許権も得ています(特許第20785号、明治44年)。

1917年(大正6年)に設立された(財)理化学研究所にも研究室を構え、主任研究員としてビタミン類タンパク質等の研究、薬品や食品の開発、合成酒の製造法等多大な業績をあげる。

合成酒のアイデアは、鈴木の生涯のテーマである“米”に起因しており、将来の米(食料)不足を憂えてのものだった。

1922年には、合成清酒を発明している。
1924年に、米を原料としない合成酒として、「理研酒」の名称で市販される。後の「三倍増醸清酒」開発の基礎ともなった。東京帝国大学を退官後、東京農業大学の教壇に立った。

ビタミンB2とB6の複合剤である「理研ビタス」。
鈴木研究室門下の高橋克己とともにタラの肝油からビタミンAを抽出し、「理研ビタミン」として製品化。当時流行していた肺結核の特効薬との噂が広まる。
さらに、女性研究者を単なる助手ではなく有望な後継者として指導する。緑茶に含まれるビタミンCの研究で女性初の農学博士となった辻村みちよ、米国留学から帰国してビタミン研究に取り組んだ丹下ウメらが名高い。

長岡半太郎(主任研究員)、本多光太郎(同)とともに“理研の三太郎”と並び称される鈴木梅太郎。

1943年(昭和18年)勲一等瑞宝章を受けた。
1943年(昭和18年) 没。鈴木は文化勲章を受章する。

昨年末、12月13日は「ビタミンの日」として制定され、鈴木の偉業を後世に伝える日となる。

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