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61体の仏像のうちの1体

2016225
61体の仏像
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明治維新になって、政府の廃仏毀釈(仏を廃し神を敬する)の令きびしく、大神神社の神宮寺であった平等寺は、ことさらにそのあらしを強く受け、有名な金屋の石仏をはじめ61体にのぼる仏像が他所に運び出され、堂塔ことごとく整理を迫られました。
本日、そのうちの1体を拝ませていただきました。心を込めて読経させていただきました。修復された仏像は眩しく輝いていました。ご縁を繋いでいただきました皆様には、深く感謝申し上げます。ありがとうございました。合掌
 
 ところで43日(日曜日)には、紫燈大護摩により不動心を開発し、世界の平和、家内安全、身体健全、商売繁昌、交通安全の祈祷大法会を厳修し、釈尊花まつりを記念し『ちごおねり行列』を催したく存じます。『ちごおねり行列』参加者全員、当日、三輪不動明王(大日大聖不動明王)御前にて身体健全、学業成就、家内安全の祈願をいたします。また、護持会の皆々様の懇親を深めて頂きますよう桜の花の下で観楼会が開催されます。この時には、お食事、竹酒等も準備し、共に楽しい一時を送りたいと思いますので、是非ご参加下さい。
 
 一、ちごおねり行列 午前9時半平等寺出発、午前10時より法念寺様出発
 一、大般若法要 午前10時半
 一、紫燈大護摩祈祷会 午前11時
 一、御供餅まき 正午
 一、護持会観桜会
 
長島愛生園の石田雅男さんと懐子さん出演のビデオ。ぜひ、ご覧ください。[http://www.kyowafilm.com/hansen.htm 「今を生きる」へ]
 
[http://blogs.yahoo.co.jp/byoudouji/26428753.htmlやさしい地球、残そう子ども達に!]

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 慶円さまは1140年にお生まれになりましたが、その時すでに眉間に琥珀色の肉が出ていて、お釈迦さまの白毫大丈夫の相のようであったと伝えられています。
 成人して自ら「三界は元より空なり、萬法は幻の如し、栄華の世相なんぞ常に保つべけんや」といわれたそうです。
 和州(奈良)の吉野の堯仁阿闍梨について修行し安倍寺で修行を重ね、三輪山遍照院にうつられ、1204年、差別のない平等の世の中を願求して『三輪山平等寺』と改号されたのです。慶円さまは、生まれつき慈悲の心あつく、すべての人を救う神仏のような思いをおもちのお方でありました。
 まだ夜もあけぬ朝、平等寺のみ仏にお供えするあかいの渓水を汲みにいかれた時、三輪明神が貴女の姿になって石上にあらわれ、慶円さまと問答をなさるのです。慶円さまが「あなたさまのお名前をおきかせ下さい」と尋ねると、貴女は、「この山の杉です」とお答えになり、自ら「おのづから いわきをおのが すがたにて かげはずかしき みむろやまかな」と詠ぜられ、御身を消されたといわれます。
 この31文字の和歌が平等寺のご詠歌として伝えられております。
 慶円さまは、仏教各宗のご開山と同格に、わが国最初の仏教史書「元亨釈書」(ゲンコウシャクショ)に出ている高僧で、そのご一代が明らかであります。三輪山平等寺中興の祖として、また三輪流神道の祖として、正法の興隆につくされた慶円さまは、1223年正月27日遷化され、84歳の尊いご一代に幕をおとされました。

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黒坂さんから月参りの際に4年前の奈良新聞のコピーを渡されました。島津家を平等寺がかくまった話は師匠や、平等寺廃仏毀釈の最後の住職の御子孫である勝井先生から聞いていましたし、このコピーも手元にあるのですが、汚れていて字が読みにくかったのです。黒坂さんには、文字のはっきりとしたきれいな記事をいただきまして、ありがとうございました。

元天理大学教授の平井良朋さんの説が、平成22年8月6日発行の奈良新聞に掲載されています。これは、大神神社広報誌「大美和 119号」で論文「三輪山平等寺と薩摩国島津氏」で発表された内容であります。その中で、関ヶ原の戦いで、島津軍が通った退路は名張(現三重県名張市)から奈良県桜井市三輪の平等寺に入り、大阪堺へ逃れた、とする説を述べられています。以下記事の内容を転載します。

関ヶ原の戦(1600年)で東軍に追われることになった薩摩の島津藩は、伊賀国名張から桜井市三輪の平等寺に入り、大阪・堺に逃れたー。「薩摩公伝」の信楽―奈良通過説に対し、橿原市町の元天理大学教授(日本史)、平井良明さん(88)が新説を発表した。

「鍵握る修験道の大先達」
関ヶ原脱出当夜、東軍の追撃を振り切った島津軍勢約80人は現・滋賀県彦根市でしのいだ。その後のルートについて、鹿児島県では信楽町から奈良市内、暗峠越えで大阪入りと伝承されている。大将・島津義弘は、大阪から航路で無事薩摩に帰国した。
 平井さんの説は、彦根市を出た一行は水口町より4キロ南の飯道山梅本坊(甲賀市信楽町)で一泊。翌日、名張市を経由して笠間峠(奈良県宇陀市室生区)から三輪山に入り、平等寺へ。山伏の護衛で、島津公のみを竹内峠越えで堺市の商人の元へ送り届けたとする。
 研究のきっかけは昭和33年、「大三輪町史」編さんに伴う調査で目に留まった慶長5(1600)年の古文書。島津家重臣の連名で、「三輪山大先達」から金を借用したことが記されていた。以来、平等寺と島津家の関係に注目することになった。
 その後、天理大図書館蔵の古文書から、島津退軍が「伊賀国名張」を通過したと確信。帰国後に島津義弘が協力者に与えた感状にも「伊賀」と記されていた。信楽―奈良では伊賀を通ったことにならない。
 平井さんは、信楽―奈良通過説の流布は、徳川方の処罰が協力者に及ぶことを避ける島津公の「陽動作戦」だったと結論付けた。
 平井説で鍵を握るのは修験道の大先達。島津家は、遅くとも平安時代後半から修験道を信仰対象としていたという。平等寺に大峰山修行の代参を頼むなど長年のかかわりも分かった。
 また平等寺は、江戸中期以後、急激に寺勢が衰えると、建造物の修理費用を「薩州様」に懇願し、数度、多額の援助を受けた記録も残されている。今は廃寺だが、飯道山も大先達寺院の系譜をひく。
 平井さんは論文「三輪山平等寺と薩摩国島津氏」を、先月発行の大神神社広報誌「大美和」(119号)で発表。「50年がかりの調査研究になり、長かったが楽しかった」と話している。

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