終戦 満州引揚げ「母の記録」

終戦後68年 平和な今だからこそ知ってほしい‥…

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安心したせいか、しばらく熱が出て寝込む日が続きました。
いきなりまともな食事をすると死んでしまう事を知っていたので、主人は元気になるまでしばらくの間、お粥などを作ってくれて食べさせてくれました。おいしかった。うれしかった。おかげで次第に元気を取り戻す事ができました。

 純子が麻疹の時に借りたお金を返しに、主人がKさんの家を探しに行ってくれました。
ところが、いくら探しても見つからず、近所の人に聞いたら御主人がハルピンから来た避難民の女の人と何処かへ逃げてしまい、Kさんは直行ちゃんを連れて、友達の家に居候をしているという。
人を苦しめると、いつか自分も苦しむ時がくるものと思いました。
私はお金を借りたとはいえ、言い様のない辛い仕打ち受けてきました。人の心はこのように極限状態になると本性が剥き出しになるものだとつくづく感じました。
人を極限状態に追いやり、みじめでむごい多くの人の死を目のあたりにしてきて、人が犯す戦争というものを二度と繰返してはならないと思います。

・・・ここで、母の記録は終わっていました。

 この母の記録は、母が亡くなり、続くように四年後に父も亡くなってしまったので整理をしていましたら、母が使用していた引き出しの中から出てまいりました。
小さな手帳に書かれていて、所々抜けている部分を後で書き足したしたのでしょうか、小さなメモ用紙がたくさんはさんでありました。
それから、母からこの満州からの引揚体験を時々聞いていましたので、部分的に、記録で記載されていない箇所は補足して書き足しました。
二人が再開した後、それこそ着のみ着のままと聞いていましたが、確か多くの方の遺骨を首から下げて舞鶴に無事帰国できたと聞いております。
引揚の日付けは、父の古い就職用の履歴書が出てきて、そこに昭和二十一年七月奉天より引揚と記載されていました。
仲の良かった横井さんは岐阜県に戻られたそうです。

詳細に付いてはもう答えてくれる二人はいません。

母は、平成九年十月六日に、七十五歳で他界いたしました。
父は、その四年後、平成十三年十一月一日に、八十三歳で他界いたしました。

私は、父と母が日本に帰国後の同年、昭和二十一年十一月二十日に生まれる事ができました。
今は、妻と二人の子供に恵まれ、やがて六十才歳の定年を迎えようとしています。

 私にとって、父も母も、優しく、とてもよい両親でありました。
私がまだ五、六歳の頃に、父が丸太ん棒を斧で削って、真っ赤なペンキを塗って作ってくれたプロペラ付きの飛行機は今でも脳裏に焼き付いています。今思うと随分と無骨な飛行機だったと思いますが。
 母もそのころ何も無い時代でしたが、夏は寒天を煮て、ところてんや甘くしたものを井戸水で冷やしておやつとして作ってくれました。近所の子供にもお裾分けなどしておりました。
冬は、七輪に火を入れて、小麦粉を水に溶き、父が持ってきてくれた鉄板を敷いて、いろんな形をしたお好み焼きを一緒になって焼いてくれました。やはりこんな時も、近所の子供などを連れてきて一緒に作ってくれたものです。ただ、殆ど中に具のようなものが入っていた記憶はありませんが。
両親とも、養子、養女で小さい頃からいいなずけだったそうですが、本当をいうと母は父のことをあまり好きでは無かったようです。ですが、軍隊には入って凛々しい姿を見てから、気持ちが変わったと言っていました。
母は大正十一年一月に日本橋の生まれでしたが、翌年の大正十二年九月一日に起きた関東大震災で母親の背中におんぶされて火災の中を逃げまどいながらも何とか一命は取り留めることができたそうです。
けれど住む家も無くなってしまった実母は仕方なく、二人いた娘を養女に出すことになったそうで、器量の良かった姉の菊枝姉さんは柳橋のお茶屋へ、自分は品川の家へ養女へと日本橋のたもとで別れ別れとなり、もらわれていったそうです。
 母は養女であった事で、殆ど自由な事ができず、好きだった絵画などの習い事もさせてもらえず、父と結婚をして始めて、父のまじめで暖かい人柄にふれ、幸せを感じたようです。
 父は埼玉県で養子時代を過ごし、尋常小学校に行かせてもらったそうですが、いつも背中にはその家の実子を背負っての登校だったそうです。もっとも農家だったので、学校に行くよりも農作業の方が多く辛い子供時代だったそうです。
学校を卒業すると同時に、中野区にある酒屋店に住み込みで働き、そこから満州に出征したそうです。ですから満州帰国後、父は埼玉に戻る気持ちはなく、母の養女時代の品川に取りあえず住むことにしたそうです。 
そんな時、近所に政府からの払い下げの家が出たので、引揚の僅かなお金と、それまで必死になって働いたお金とを合わせて、狭いながらもその家を購入したそうです。
長家だった隣の家も払い下げに出されていましたが、それを購入したい秋元さんは御主人が居られずまだ小さい息子さんと娘さんお二人の四人暮らしでしたので、買いたくても買うお金がないとの話を聞き、父は「ある時払いの催促なしでいいよ。」と言ってお金をお貸ししたそうです。秋元さんは涙を流してとても感謝していたそうです。
 その頃の父は、芝浦で船舶の荷揚げの仕事に従事しており、停泊している船の掃除なども仕事の内だったそうです。人一人やっと入る事のできるような船の煙突の中でスス払いをやり、当時シャワーなんかもちろんないので、真っ黒のすすだらけの格好で帰るしかありませんでした。
さすがに恥ずかしかったそうで、自宅まで駆け足で帰ってきていたそうです。もちろん乗り物に乗るお金なんか無かったそうです。
その後、起重機操縦の免許を取得して定年まで港湾業務に従事し、働き続けてくれました。
母も一日中、寝る間も惜しんで家事と内職仕事に明け暮れ、こつこつと家計の助けをしていました。
そんな苦しい生活状態であっても、苦しいとか辛いとかの泣き言は、両親から聞いたことがありませんでした。生活は決して楽では無かったですが、小さい時から養子、養女で恵まれない子供時代を過ごし、更に終戦という極限の中で生き抜いてきたためでしょうか、互いに苦労を分かち合えたのではないのでしょうか。

たくましくて陽気で明るい両親であったこと、二度と起こしてはならない戦争の悲惨さを、この記録をまとめながら改めて感じることができました。

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貴重なお話ありがとうございました。日常の何気ない幸せを、いま一度改めて感謝して生きていこう。と思いました。

2013/6/19(水) 午前 6:16 [ とこちゃん ]

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とこちゃんさん、ご覧下さいまして有り難うございました。
この日本が、世界がいつまでも平和であり続けてほしいと思います。とこちゃんさんの心の中に、何か一つでも残るものがあったなら幸いと存じます。どうぞ、いつまでもお元気でご活躍下さい。

2013/7/22(月) 午後 6:24 [ シーチャン ]


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