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寝るのも、起きるのもいつも一緒なんですもの。
向うの方で、誰かが大きな声で話している。何気なく振り向いた。みんなが泣いている。
『どうしたのかな・・・』
小野さんの赤ちゃんの良子ちゃんが、今朝、顔に麻疹の発疹が出かかっていたのだそうだ。
毛布で包んでおんぶして来たが、二時間も冷たい中を歩いていたので、死んでしまったのだった。
無理だったのだ。でも、そうしなければ、永久に帰れるかどうか分からないですもの。
朝鮮の駅員が来て、「死んだものを汽車に乗せてはだめ」と言った。
黙って内緒にして、乗ってしまえば良かった・・・。
やがて汽車が来た。
みんな少しでも早く帰りたい、早く乗ったら、早く満州に着くような錯角を抱いて、みんな慌てて乗り込む。
私と横井さんは、一緒の所へ座れた。胸がはずむ。
心臓の音がドキドキ聞こえる。
うれしくて、うれしくて脈が高まり、体中が何故かぞくぞく、わくわくする。
ガタン、ガタン、汽車がゆっくり動き出す。
横井さんと手を握りあった。
「やっぱり、夢じゃなかったのね。」うれし涙がこぼれた。
小野さんが「あなたは良かったわね。純子ちゃんのお骨持って来れたものね。」と、泣きながら線路脇を見る。
埋める間もなく赤い着物にくるまった良子ちゃんが、白い雪の上にぽつんと横たわっている。
「良ちゃん、さよなら、母ちゃんをかんべんしてね。」泣きながら、小野さんが言う。
私達も涙が止まらない。
雪の大地は、どこまでも、どこまでも、広々と地平線の彼方まで見渡せる。
汽車が動きだしてから、もう十分位経つが、良子ちゃんの赤い着物が、彼方に小さくなりながら、うねり、うねり、いつまでも見えている。あたかも母恋しげに見えている。
「良ちゃん、早く見えなくなって。いつまでも見えていると母さんつらいよ。」小野さんの声を聞きながら、私はたまらなくなった。
『純ちゃん、お前はお母ちゃんと一緒なんだから少し我慢しなさいね。』と、純子のお骨をひざの上から外した。小野さんが気の毒で、とてもひざの上に乗せていられなくなった。
・・・やがて、雪の上の赤い着物は、小さくなって見えなくなった。
十二月二十八日。やっと、半年ぶりに帰れる。
汽車の中で、家に帰ってからの事を考えていたら、窓の外の明るさも、暗さも忘れて、いつのまにか四日が過ぎていた。
一月一日の朝、鴨緑江の鉄橋の真ん中で汽車が止まった。
朝鮮の一月一日、鴨緑江の鉄橋の真ん中。材木を載せる貨車は屋根も囲いもない。
まともに着ている服は、夏に出発した時のブラウスニ枚を重ねて、その上に純子をおぶる時に着たねんねこだけである。
冷たい風にさらされ、お腹は空いているし、寒いし、早く動いてくれないかしら。
指導員の人が来た。大きな箱に何か入っている。何だろう。
「ここに住んでいる日本人が、炊き出しをしてくれたのだよ。」と言って、小さなおむすびを一つずつ配ってくれた。
三角にむすんだおむすびに、お味噌がてっぺんにちょこんと乗せてある。
半年前に家を出てから初めて、こんなに固いご飯、のどを通してしまうのがもったいない。
一粒、一粒、大事に食べた。そのおいしさは、とても言葉では書き表せない。
暫くして又、指導員の人が来た。
汽車を降りるように言って来た。
「どうするのだろう。」何か不吉な予感がする。
ここまでは朝鮮だったけれど、ここを境にしてここからは支那(中国)になるから、又、支那(中国)の鉄道にお金を払わなければ、汽車が動かせないそうだ。
考えてみれば、口惜しいことだ。
朝鮮の鉄道だって、支那(中国)の鉄道だって日本が開発して出来た鉄道。
今まで、満鉄として釜山から大連まで直行していた鉄道なのに、日本に力がなくなったとて、こんな鉄橋の真ん中で、あっちだ、こっちのだと別々にお金を取り立てなくても良いだろうに。
私がここで腹を立てたところで、どうにもなるものではない。みんな貨車から降りた。
この汽車から降りたら何時又、乗れるのか。みんな口にこそ出さないけれど、心の中では同じだった。
一月 安東にて。
支那(中国)の安東の町の元日。
日本人が経営していた二葉屋という大きな料理屋の大広間に入った。
すでに空家になっていて、荒れていて広間と言っても畳はないし、障子もない。
一部屋に木曽川町、瀧田川町、利根川町の二百人くらいの人が一間に入った。
夜になって寝るとなると大変だ。
ぎゅうぎゅう詰めで、お腹も背中もぴったりくっついて寝ている。
板の上に風呂敷やリュックを敷いたり、あるいは新聞紙を敷いたり、それもある人は良い方だ。
ない人は、そのまま冷たい板の上に寝るしかない。
寝返りをしようとしても、前後から押さえ付けられているために、体が動かない。仕方がないから起きかえって、方向を変えて寝ようとすると、もう隙間が無くなって寝られない。
そのまま座って夜を明かす。
手洗いに行って帰って来れば、座る所もなくなる。畳一枚に三人づつ。
それでも寝られるうちは良かった。
・・・やがて、KSさんの精神状態がおかしくなった。
隣組みの組長だった私は、KSさんの面倒を見る事にした。
一階の部屋の一番隅にKSさんの場所をこしらえた。
うっかりしていると、KSさんは何もかも脱いでしまう。びっくりして着せてあげる。
夜になって私も眠いので、うとうとする。
気が付いてみると、靴下まで脱いでしまう。
寒さが厳しい大陸で、しかも一月の極寒に、夜中じゅう素足のまま放り出している毎日が続く。
私がいくら履かせながら「凍傷になるから脱いじゃだめよ。」と言い聞かせても、気が違っているから分からない。
とうとう凍傷になってしまい、指が紫色になっている。
KSさんが「あなたにお願いがあるんだけど。今、主人が迎えに来たから、荷物をまとめて下さいな。」
迎えに来るはずもないのに・・・、日増しにおかしくなる。
早く主人のところへ帰りたい。
そんな気持ちがKSさんをこんなふうに狂わせたのでしょう。
何時までこんな事をしているのか。
私まで気が狂いそう。
朝八時頃、大きなどんぶりに水がいっぱい入っている底の方にコウリャンが十粒くらい入っているのが食事。それは支那人の工員さんがお昼を食べ残したものだ。
それを私達のおかゆにする。でも命をつなぐため、食べないではいられない。
「KSさんが叉、裸になっているわ。」と言われて部屋に行ってみると、お風呂に入る時と同じ格好で部屋の真ん中に立っている。
急いで服を着せてやると「お手洗いに行きたいから脱いだのにー。」と恨めしそうに言う。
「お手洗いに行くなら、一緒に行ってあげるよ。」と言って、一緒に廊下まで出た。
廊下で自分が持って来たタオルを下に敷き、そのタオルをまたいで用を足す格好をする。
あわてて止めると、「私が作ったお手洗いだから、遠慮しなくていいのよ。」とすました顔。
哀れである。
KSさんも哀れであるが、それを見ている私も哀れである。
いつの日か、自分もこんなふうになってしまうのではないかと思う。でも、どうにもならない。
二葉屋の裏が広い庭になっている。その庭の隅に小屋がけがある。そこに住んでいた、やはり日本人の避難民(私達、文官屯の人達ではないけれど)の奥さんがいた。一言二言、言葉を交わすうちに仲良くなった。北満のハルピンから来たそうだ。御主人をハルピンに残し、一人で避難してきたそうだ。
一日でも早く帰りたいと言っていた。同感である。
お腹が空いて、どうにもならなくなった。
表へ出て、前の女学校の塀の上に積もった雪を丸めて食べた。
もう、このまま二葉屋に帰らずに満州に帰りたい。
道が分かるなら一人でも歩いて帰りたい。
町に出た。配られたわずか残っている一円でやっと塩味の大福を買った。横井さんと二人分買ってきた。
リュックの品物も、もう残り少ない。白糸も黒糸も、もうない。
後は純子の着物だけしかない。内地から送ってくれた純子の晴れ着だけは、主人に形見として持って帰りたい。
ある日、朝起きて立ち上がった途端に目がまわる。
「どうしたのかしら。とても目がまわって立てないわ。」
そばにいた小八重さんが、「あなたお腹空いているのでしょう。私、昨日買ってきたおからがあるから食べなさい。」と言っておからをくれた。おからと言っても、味の付いたおいしいおからを思うでしょうが、お豆腐屋から買ってきただけの味も何も付けてない物。でも、いつもお腹いっぱい食べてない私達には、とてもおいしい。
私は夢中で弁当箱のおからを食べた。小八重さん自分自身も食べるものはやっと手に入れた貴重なものなのに、分け与えてくれた気持ちが本当に有り難かった。これがなかったら、二度と立ち上がることができなかったかも知れない・・・。
やっと、一時間くらい経ったら、めまいが止まったので、純子のさらしで作った寝巻きをこっそりとねんねこの下に隠して持ち出し、闇市の近くまで行って、支那のくず屋さんに無理に買い取ってもらって、十円をこしらえた。
闇市で大豆一合、白米一合、ポーミ粉(とうもろこし)のパン一個。おから一つ、塩あんの大福二個を買った。
横井さんに大福一個をあげ、小八重さんにお礼をいっておからを返した。
私達がお金をこしらえて、何かを買って食べている処を、支那の政府の人に見つかると、避難民でお金がないから、ただで満州まで汽車を出してもらうように運動をしてくれている日本人会が困るので、絶対に食べ物を買い食いしないように言われている。
でも、お腹が空くどころか目がまわったり、立てなくなったり、背に腹は代えられず。
ついに、子供の着物をも持ち出してしまった。
大豆を、お弁当箱のふたで、音のしないように煎って焼き、横井さんと二人で内緒で食べる。
何とも言えぬ甘味。
白米も一合買って来たから二、三日したら又、何とかして炊いて食べようと約束した。
何しろ暖といえば、大部屋の真ん中に、小さな火鉢に炭の火が二かけらくらい。
その上に、お弁当箱にお米を仕掛けて、灰の中に半分くらい埋めておくと、半日くらいでご飯になる。
横井さんと、半分ずつ食べた。
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同じ頃、私も安東にいました。同じ会社の方の家族が朝鮮から帰ってきたのも同じときだったと思います。学校や大きい建物に分散して収容したようでした。(私の手記8月18日参照)トラックバックしたいのですが、不慣れなので・・・勉強します。
2006/8/28(月) 午前 9:30
sansyoutakasiさんの記録を拝見させて頂いて、やはり母と同じように安東でいろいろ御苦労されたんですね。母の記録ではここで相当の方が亡くなられたようでした。色々な方の遺骨を首から下げて帰国したと聞いております。この時は母は23才でしたので、sansyoutakasiさんは5才お若かったんですね。いくら一人身とは言え、命がけの逃避行、頭が下がる思いです。
2006/8/28(月) 午後 9:51 [ シーチャン ]
初めて読ませていただいて、感謝。良くここまで書いていただきました。第五話で終わりでしょうか?
私も奉天市宇治町で終戦を迎え、それから母と4人の兄弟姉妹で10ヵ月半くらい後にコロ島から博多に引き揚げてきました。
実は私共の引き揚げの様子を亡き父母に聞きそびれて、兄弟姉妹に聞いてもさっぱり分からなかった史実が、昨年(2009)暮れにようやく厚生労働省の記録で分かりました。
恐れ入りますが、どなたか奉天引き揚げの方でメールで交信できる方をご紹介いただけますか? 私は在ブラジルで当年71歳です。大束。o.kazuaki@uol.com.br
2010/1/2(土) 午後 11:04 [ o_k*zu*004 ]
o_k*zu*004 さん、ご覧下さいまして有り難うございました。 この記録は第七話まで書かせて頂いています。
第五話までご覧頂きましたら、欄外の上部に、リストの表示がありますので、それをクリックし、第六話、第七話をご覧下さい。
メールで交信できる方は・・・第五話でコメント頂いた、山笑さんが安東からの帰国体験された方でお友達も帰国でご苦労された方がいらっしゃいます。ブログでこの時の記録が掲載されています。メールでの連絡は可能と思います。
それから、o_k*zu*004 さんはブラジル在住で可能かどうか分かりませんが、図書館に「独立行政法人 平和祈念事業特別基金」が編集しました「平和の礎 海外引揚者が語り継ぐ労苦」という満州や朝鮮などから引揚げされた方々の体験談をまとめた書籍がありました。1号〜20号位まであったと思います。一冊に20〜30人程の記録が掲載されています。目下、私もその記録を読んでいる最中です。ブラジルの図書館にこの書籍があればご参考になるかと思うのですが・・・。
2010/1/9(土) 午前 10:43 [ シーチャン ]
O K*ZU*004様、上記でCチャン様から紹介されています山笑です。奉天(今の瀋陽)は私の手記にもありますように、3度程立ち寄ったばかりで町のことは存じませんが、懐かしいところです。あとで、メールでお便りします。
2010/12/25(土) 午後 4:02
シーチャンさん、はじめまして。
お母様の記録、読ませていただきました。
実は、滋賀県のお年寄りを対象に「結い魂(ゆいごん)」というドキュメンタリー映画を制作していて、満州で終戦を迎え、ソ連軍に捕まり、悲惨な収容所生活で生後11ヶ月の長女を栄養失調で亡くしてしまった引揚者のおばあちゃんやその親族と一緒に、2009年に旧満州へ記憶をたどる追悼旅行をしてきました。
詳しくは、下記サイトの一番下をご覧ください。
http://gonza.xii.jp/yuigon/synopsis.html
その時に撮影した映像を収録した映画「結い魂」が、今、大阪の映画館で上映されています。
http://gonza.xii.jp/yuigon/schedule.html
ぜひ、一人でも多くの満州引揚者やそのご家族の皆さんに、この映画を観ていただいて、ご感想をお寄せいただきたい、と思っています。
2012/4/13(金) 午前 7:15 [ YUI-GONプロジェクトチーム ]
YUI-GONプロジェクトチーム様、お便り下さいまして誠にありがとうございました。
チームの皆様が制作なさいました「結い魂」のサイトを拝見させて頂きました。大阪の映画館にて20日まで上映されていたということで拝見したかったのですが、私が東京在住でどうしても都合が付かなかったため、残念ながら拝見できませんでした。
「ごめんね、あっちゃん」の、娘さんを亡くされた悲しい体験は、ちょうど私の母の悲しい体験と重なるようで、是非機会がありましたら拝見したいと思いました。
思い出の中国へ旅立ち、今なおご健在とのことで、これからもいつまでもお元気でとお祈りいたします。
2012/4/21(土) 午後 1:42 [ シーチャン ]
ホーミ粉の検索をしていてたどりつきました。
同じ頃、私も安東に住んでいました。
新京から汽車で疎開して安東で終戦を迎えました。
父は、新京観照台の職員でした。
懐かしくて書き込みました。
http://www33.ocn.ne.jp/~atat1/index.html
私の引き揚げの記録が有ります。
2015/5/17(日) 午後 6:57 [ yamaji ]