終戦 満州引揚げ「母の記録」

終戦後68年 平和な今だからこそ知ってほしい‥…

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 三日程したある夕方、突然、ソ連兵がやって来た。
「みんな逃げて!」の叫び声が聞こえたが、純子をおんぶした私と子供をつれたYさんの二人だけが逃げそこなった。
ソ連兵が私の腕を押さえ、腕時計を私の手に掛けた。
そして手を放さずに床を指差して、寝ろというような素振りをする。
私は頭のてっぺんから水をかけられたようにぞーとした。
Yさんを見たら、もう一人のソ連兵に、やはり捕まって逃げられずに困っている。
何とかして逃げなければ「どうしたら良いの?どうしよう。」
とっさに背中におぶった純子の足を、大きな声で泣いてくれと願って思いっきりつねった。
ところが、ちょっとしか泣かない。
もう一度つねった。やっと大きな声で泣いてくれた。
私は純子をあやす振りをして、ソ連兵の手を振り払った。
そしてもう一度つねった。今度は前より大きな声で泣いた。
今逃げなければもう駄目と思い、夢中で廊下へ走り出た。そして裏の畑の中に飛び下り隠れた。
‥‥と、人間の声とも犬の声ともわからない「ギャー」という声がした。
はっとして我に帰った。Yさんだ。Yさんが殺された!?。
私は自分だけ逃げてきた事が、今さらのように申し訳なくなり、急いで家の中にとって帰った。
廊下の薄暗い中に、Yさんがぼんやり立っていた。
Yさんの子供が、「ぎゃあ、ぎゃあ」泣いている。
「Yさん、私一人で逃げてごめんね。」と云うと、Yさんが「・・・貴女はまだ若いのですもの、逃げて当たり前よ。KSさんなんか、あたしとあんなに仲良くしていたし、年だってとってるんだもの逃げなくたっていいと思うわ。あの人、随分薄情だわ。」と云って泣き出した。
KSさんは五十才くらいの人だった。
「Yさん、さっき凄い声が聞こえたけど、ソ連兵に何かされたの。」と聞いたら、ソ連兵がYさんを手込めにしようとして、廊下に倒され、上からソ連兵がのしかかってきたので、前に野良犬に出会った時(満州の野良犬は人も喰い殺すほど、物凄くどう猛)どうにもならなくなって、ありったけの声を張り上げたら野良犬が逃げたことがあった。
とっさにその時の事を思い出して、夢中で大声を出したらソ連兵がびっくりして逃げ出したそうだ。
Yさんが無事なので安心した。
その日から、毎日のようにソ連兵の来襲が続き、夜といい、昼といい安心できる時がなくなった。

 そんなある日、となりの家の奥さんが、避難民の我々に白菜の漬け物とお茶を飲ませて下さった。
漬け物といい、お茶といい何ヶ月振りかしら。
「もうじき、寒くなるので火を炊くものが無いと困るでしょう。家にたくさん粉炭があるから、少しぐらいなら分けてあげましょう。」と云って、りんご箱いっぱい、粉炭を下さった。
粉炭に赤土を混ぜて水を入れ、団子に丸めて乾かす。それで豆炭くらいの火力があるそうだ。
ああ、良かった。これで一ヶ月位、寒さが凌げる。‥‥その内に満州か内地へ帰れるだろう。
でも、とにかく、この豆炭を炊く七厘をこしらえなければ‥‥。何で作ろうかしら。
庭を探し廻ったら、大きい植木鉢と小さい植木鉢が見つかった。
この植木鉢を利用して七厘が出来た。
これで私も横井さんも、KさんやTさんに気兼ねしないで火が使える。

 横井さんと二人で外に出た。大通りまで出たところでソ連のトラックが来たので、隠れるようにして見ていると、日本の兵隊さんが、大勢乗っていた。
私達の立っている向う側の空き地に、レンガを運ぶ使役としてソ連兵に連れて来られたのだ。
兵隊さん達は私達に気が付いたらしく、そっと、こちら側に来てくれた。
「奥さんたち、どこの人?」
「私達、満州奉天の原部隊のものなの。いつ帰れるか分からないの。食べる物もないし、着る物もないし、辛いわ。お金もないし、主人もどうなったのか心配だし。兵隊さん達はもうすぐ帰るんでしょう。」
「俺たちはこの使役が終わったら、内地へ帰れるんだ。奥さん達も早く帰れるといいね。
奥さんたち、食べ物がないんだろう。俺たちは部隊に帰れば、夕食の心配が無いからこれあげるよ。」と云って、飯ごうの御飯の上に鮭をのせて、沢庵を二切れくれて戻って行った。うれしかった。
「横井さん、これで三日位食べれるね。良かったわ。」
家に帰って、一日分として、三分の一ずつの御飯を、お釜いっぱいのお粥にのばして、鮭をほぐして食べることにした。
KさんやTさんにも同様に分けた。
皆、「美味しい、美味しい」と久し振りの白米のお粥に舌づつみをうった。
‥‥いつも大きなどんぶりに、こうりゃん粒が十粒くらいで、後は水のお粥だから。
だが、そんな思いもたった三日で終わった。

 朝鮮の人の家の裏に、ゴミを入れる大きな穴がある。
時々、薄暗くなってからそこに行ってみる。
さつまいもの皮、大根の皮などが捨ててある。拾ってきて、横井さんと食べる。
家の畑のものを食べる時はいつも、Kさんが「ねー、Tさん、あの畑の草むしり、とても大変だったね。私、直行をおぶってとても大変だったわ。」と必ず云う。
私も横井さんも、胸にとげが刺さるような思い。
家の畑のものを食べさせてもらうより、例えゴミ溜から拾ってきた物の方が、胸がつまって食べるよりよっぽどましだ。
・・・早く、主人のところへ帰りたい。
満州ではその広い大地に、自分で手入れしたかぼちゃやきゅうり、白菜、茄子、食べ切れない程あったのに、
‥‥目に浮かぶ。

 私達のいた家より少し離れた所に、カネボウの官舎があった。
そこで最近、お産をした奥さんがいた。
そこにソ連兵が来て、その奥さんを連れて行こうとしたそうだ。
ところが、その人と仲良くしていた、元看護婦の人が青酸カリを持って身替わりになって行ったそうで、そのままとうとう帰って来なかったとか‥‥。
早く満州に帰りたい。
いつ自分もそんな目に会うか。
或いは日干しになって、死ぬかも知れない。
一目、主人を見てから死にたい。‥‥いや、死んではだめだ。
どんな事しても、生きて帰らなければ。

 純子にりんごを食べさせてやりたい。
朝鮮の闇市に行った。お金はないし、どうしたら良いの。
純子もお腹がすいているだろうに‥‥。
闇市では鱈の干したの、りんごの壷焼き。こうりゃんのお餅にお砂糖のせたもの。とうもろこしのふかしたもの。縮み焼き。青小豆を一晩水に漬けてそれを粉引きで引き、どろどろになった中にネギを切り桜えびを入れて焼いてソースをつけて食べるもの。日本のお好み焼きと同じような食べ物。
いいにおいがする。
食べたい。
ポーミ粉のお饅頭。
何を見ても食べたい。でもお金がない。
りんご屋の前でりんごを見つめていた。
りんごに純子の顔が重なって来る。
こんなにいっぱいあるのだから、一つくらい私が持って行ったっていいだろう‥‥などと思う。

十一月。 
どんよりとした空。
水を汲みに行った。ここの家の水道は、凍って水が出ない。
裏の空家のそばの水道は、みんなが共同で使っているので、凍る暇がなくまだ出ている。
でも寒いから、蛇口から出た水がまわりに凍り付いて、真ん中だけ細くなり辛うじて出ている。
お釜いっぱい汲むのに三十分もかかる。
待っている間、ろくなものを食べていない体は、足の方から凍り付いて感覚が無くなる程冷たい。

 毎日、そこに水を汲みに行く。
純子をおんぶして、今朝も行った。
昼過ぎ、縁側にいた純子が何となく元気がない。
額が燃えるように熱い。
風邪かな。寝かしてやろうと思って部屋に帰ってきた。
「風邪らしいの。寝かすわ」と云ったら、Kさんが「うちの直行にうつさないで!」と云った。
仕方なく向う側の小さな部屋に行くと云ったら、「そんな事しないで。あたし達が追い出したみたいじゃないの。」
そう云われて出て行く事もできず、‥‥でも後で考えると、その時、この部屋から出て行けば良かったと思う。

 翌日、横井さんがお腹が痛いと言い出した。
すぐ家の裏に産婆さんがいる。純子をおぶって産婆さんを呼びに行った。
その時慌てていたし、みんなに気兼ねもあったりして、純子の風邪を気にしながら、おぶって行った。
それがまさか、麻疹の出初めとは思わなかった。
家に帰っておろして、純子の顔を見た。
額のあたりにぶつぶつが出ていた。あれ?麻疹みたいだな。
処が、額のぶつぶつがやがて消えてゆき、青い顔がとてもだるそう。‥‥どうしよう。
特別温めてやる事もできないし。‥‥困った。
とにかく寝かせておかねば。
私は自分の着ていたねんねこを脱いで、純子に掛けてやった。
もう、自分には夏のワンピースを、二枚重ねて着ているだけ。
朝鮮の十一月は寒い。
一枚くらいのねんねこで純子を思うように温めてもやれない。麻疹なのに‥‥。
満州に置いてきた着物を思い出す。あれがあったら‥‥。これもあったら‥‥。
ああ、早く帰りたい。
早く帰って純子を暖かくして寝かせてやりたい。
医者にもかけてやりたい。

船橋町を少し行った所に元、医学大学へ行っていた学生さんがいると聞いた。そこへ訪ねて行った。
色々と事情を話して、やっと学生さんが大事にしていたトリアノン(麻疹に良く効く薬)をしてもらった。
Kさんが隠しもっていたお金を借りてきたのでお礼を出そうとしたら、「お互い日本人どうし、困った時は助け合いましょう。」
と云って受け取ってくれなかった。
そして学生のお母さんが「もう、麻疹も出そびれて肺炎を起こしているから、この辛しで湿布しなさい。」と、洋辛しを下さった。

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2016/8/21(日) 午後 1:21 [ 奄美は人も自然も食物も良かった ]


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