|
※この記録は1部〜7部までの構成になっています。
上部右側の すべて表示 をクリックすると[リスト/詳細]の表示になるので、クリックしていた
だき、1部〜7部(最終)までご覧下さい。
(上の写真)
母 松枝 21歳の時。この年、父 久三と結婚し、満州に渡り、2年後に終戦を迎える。
父 久三 21歳の時。4年後の25歳の時、母と結婚。
昭和13年12月 千葉県習志野戦車部隊に入隊。写真は当時のもの。
昭和14年 4月 満州北支方面軍 原部隊に派遣。戦車操縦士として配属。
昭和17年11月 除隊。奉天南満陸軍造兵廠に軍属として勤務。
この「母の記録」は、母に続いて四年後、父も亡くなり二人のタンスを整理をしていましたら、母が使用していた引き出しの中から出てまいりました。
小さな手帳に書かれていて、所々抜けている部分を後で書き足したしたのでしょうか、小さなメモ用紙がたくさんはさんであったものを、つなげてまとめました。
それから、母からこの満州からの引揚体験を時々聞いていましたので、部分的に、記録で記載されていない箇所は補足して書き足しました・・・。
【母の記録より】
昭和二十年八月十三日 満州 奉天 文官屯(ぶんかんとん)瀧田川町にて(現在の中国、瀋陽市)
朝、主人の出勤の弁当を支度している時、自治会の会長さんが「みなさん、大至急、広場に集まって下さい。」と云って来た。
私はやがて一歳になる一人娘の小さな純子をおぶって、急いで主人と広場に行った。
近所の人たちも集まって来た。
朝の八時近い満州、文官屯の太陽はもうすでに熱く、日陰が欲しかった。
何の話があるのか、だんだん不安になって来た。
やがて自治会長の話が始まった。
「八月九日、ソ連は日本に宣戦布告をした。この部隊はソ連がすぐ目の前まで迫って来ているので、襲撃目標となる。戦える者は女でも残れ。足手まといとなる者はすぐに軍用列車を出すから逃げろ。一時間後に、文官屯の駅を出発する。」と伝えられた。
文官屯駅は、奉天から北に一つ行った駅である。
急いで帰って、純子の着物をまとめ、多少の着替えと、主人と私の二人で持っていた現金千二百円を、しっかりと半袖のブラウスの下のお腹に巻いた。
主人は、ここの北支方面軍、原部隊で戦車部隊の兵役の任期はすでに終わっていたが、軍属として仕事に従事していて、隣組みの組長だったので部隊を守るため残る事になった。
主人には貯金通帳から貯金をおろして使ってもらうことにし、貯金通帳を渡した。
『どんな処へ逃げるのかしら。山の中かしら。満州に山があるのかしら。』
私は二十三歳になるが、主人と結婚直後の昭和十八年十月二日にこの満州に渡って来た。
翌年の昭和十九年九月二十日に純子も生まれ、やがて一歳になる。
ここに来てまだ二年程しか経っていないので、この満州という土地を殆ど何も知らない私は、主人と別れて今から行く未知の世界の、不安と恐ろしさを想像すると体の中を悪い悪寒がはしる。
夕方、軍用列車は朝鮮の平壌(ぴょんやん)の町に着いた。
今まで見た事も考えた事も無い町。平壌。
平壌駅前の広場は、列車から降りて来た二千五百人余りの人達で大変な騒ぎ。
ただし、みんな女、子供、老人などの一般民間人ばかり。
朝鮮の人に混じった日本人は、どの顔もみな薄汚れて見える。
自分が疲れているせいかしら。
町名ごとに一かたまりになって立ってると、我々を見ていたこの町の誰かが「この町の住民の家に世話になる人達だってさ。」と囁くのが聞こえた。
・・・と云う事は、何人かずつに別れて世話になりに行くのだろうなと思った。
やがて二千五百人余りの大きなかたまりがぞろぞろと歩き出した。・・・何時間くらい歩いたか。
気が付くと先が見えないほど赤土のほこり。
体中が汗でびっしょり。
背中の純子もお腹がすいて、泣きじゃくってる。
早く行く所へ行って、乳も飲ませてやりたい。おしめも取り替えてやりたい。
あと、どのくらい歩いたら目的地に着くのだろう。
あたりが暗くなった、たぶん夜九時頃であろうと思う。とある家の門の前に着いた。
そこで、木曽川町の人も、瀧田川町の人も二、三人ずつで組まされて、世話になる家を決められた。
横井さん、田村さん夫婦、そして私と純子の五人は、Aさんという家に行く事になった。
『Aさんってどんな家かな。どんな人かな。どんな奥さんかな‥‥‥。』
考え出したらきりが無いほど心配だ。
横井さんも、田村さんも子供がいない。私にはまだ幼い純子がいる。
Aさんは、六十才くらいか、もっと若いのか、ちょっと分からないけど旦那さんはいないらしい。
十六〜七才の息子さんとと二人で暮らしているらしいが、とても立派な家だ。
後で聞いた話だと、他人の世話をするのはいやだと断ったという。が、隣組みの組長さんが「応接間があいているので困っている避難民を収容できるから強制だ。」と云って、私達を連れてきたらしい。
だから私達はここに居る間、随分つらい思いをすることになる。
次ぎの朝、早く起きて純子の洗い物をしたいが、どこに何があるのか、ちっとも分からない。
私達にと、充てられた応接間のとなりが、どうも風呂場らしい。そっと風呂場に降りて洗い物をした。
玄関へ行って、自分達が履いてきたものをみんな裏へまわし、玄関から廊下を雑巾がけをする。
すると茶の間らしいところから、奥さんと息子さんの声がする。
「お前、あそこに入れておいたお砂糖なめたでしょう。」
「僕、知らないよ。ねえ、母さん、応接間の避難民たち、いつまでいるの。嫌だなあ。」
「応接間の避難民たちは、みんな馬鹿だ。」
「廊下が埃だらけだな。」
「味の素がない。避難民たち、満州の部隊だったんだから、いっぱい持って来たんだろう。少しくらいくれればいいのに。部屋代も出さないんだから。」
聞いていた私達は、たまらなかった。
嫌なのは私達の方だ。何も好んで来たんじゃない。戦いのためにこうなったんだもの。
満州にいれば、我が家で親子三人、誰にも気兼ねなく楽しく暮らしていられたのに。
まだ、ここに来てから二日目なのに、目の前が真っ暗。
文官屯にいた時を思い出す。
文官屯の官舎は二軒が一棟になっていて、その隣に住んでいたのが横井さんだった。
横井さんも私と同じくらいの年令で、やはり私と同様まだ結婚したばかりだった。
隣どうしで仲もよかった。
満州の夏は短く、冬はとても寒くて、零下十度から二十度くらいまで下がる。
部屋にはペチカが隣との境に付いていて、冬でもとても暖かかった。
窓は二重になっていて、その中に何かを入れておくと、ちょうど冷蔵庫のように寒さで一晩で凍ってしまった。果物などを入れておくとアイスになっているので、食べるのが楽しみだった。
八月十五日。朝から空襲警報が続く。
午前十時頃、Aさんが「避難民の人、昼の時間に天皇陛下のお話がラヂオで放送になるから聞くように」と云ってきた。
『‥‥天皇陛下のお話って、何だろう?。』
午前十一時頃、又、空襲警報があって防空壕へ入ったが、幸い空襲はなかった。
そのまま昼になり、警報が解除になった。
やがて、天皇陛下のお話の時間が来た。Aさんの処のラヂオの声がする。
聞いていても雑音と難しい言葉で、何の事かちっともわからない。
‥‥と、門の外の方で朝鮮の男の人の怒鳴るような声がする。
「おい、お前達!、日本人。戦いに負けたんだ。もう、日本人の云う事なんか聞かないぞ。今までさんざんいじめられてきたからな。今度は俺達が仇を討つ番だ!。」
うそ、そんな。日本が負けたなんて。もし本当にそうだったら、私達、避難民はどうなるの。すぐに主人のいる部隊に帰ることになるのか?。
私の一生を通じて、忘れられない八月十五日。
翌日、十六日。
治安隊の人たちが来た。(治安隊は中国の今の警察と同じようなもの。)
「避難民は、有り金を全部出すように。日本の金も、支那のも、朝鮮のも、とにかく金と名の付くものはみんな出せ。一円でも残したら、後で身体検査するからわかる。もし、残した者がいれば銃殺する」と云われて、私はせっかく持ってきた千二百円のお金を、正直に全部出してしまった。
後で身体検査も来ないし、隠して持っていた人もあったのに。
私も横井さんも、正直の上に馬鹿が付いていました。
お金もないし、着る物もないし、早く帰りたい。
「これからは、食事の支度も別々にしましょう。」と、Aさんから云われた。
古いお釜を一つ貸してくれたので、裏の塀のそばに穴を掘り、お釜を掛けてお粥をこしらえた。
薪は道ばたに落ちている木切れを拾ってきて燃した。
足が少し悪かった引率者の方が一週間に拾円ずつくれるお金で、茄子を買い、細かく刻んで塩を掛けておかずとし、毎日々、細々と生活をし、同じような日々が過ぎて、やがて一月くらいが過ぎて行った。
九月中旬
横井さんのお腹が、だんだん大きくなってきた。
するとAさんが、「子供さんができたら大変だから、どこか違う家に移って。」と云ってきた。
仕方なく田村さん夫婦を残して、横井さんと私は近くの、『早々に日本に逃げ帰った人の空家』に移った。
そこには我々と同じ避難民の仲間で、初めからその家に世話になっていたKさんとTさんが親子で住んでいた。他に何組かの親子もいた。
Kさんは、「この家の中にあるものは皆、ここの奥さんが日本に帰る時、『貴女達におあずけします。よろしくお願いします。』と云ったので、何かあると私達の責任になるから、私達がいじるのなら良いけど、あなた達、後から来た者は、何もいじったらだめよ。」と言い渡され、ほとんど何もさわる事ができなかった。
台所のガスは時間制になっていて、Kさん達がお粥を作った後、私達が使うよういわれたが、お粥ができる途中で時間になり、ガスが出なくなってしまう。
半煮のお粥を、横井さんと私はいっしょに食べる。
ああ、満州の自分の家に居たらなー。‥‥と叉も、満州が思い出される。
そんなある日、夜遅くになって表門にトラックの止まる音。‥‥今頃、何だろう。
聞き慣れない声。
ああ、ソ連兵だ!。
大変、早く逃げなければ、とっさに純子の体をそっと抱く。
目がさめて泣かれたら大変。居場所を教える事になる。
頼む、起きないで。泣かないで。神様に祈る‥‥。
次の日の昼頃、引率者の人が来て、
「近所のおばあさんが夕べ、ソ連兵に見つかって襲われ、撃たれて殺された。
警戒するように。」と伝えにきた。
そんな事が毎日起きるようになる。
自分もいつ、そんな目に会うかも知れない。
‥‥ああ、恐い。無事なうちに早く帰りたい。
|