終戦 満州引揚げ「母の記録」

終戦後68年 平和な今だからこそ知ってほしい‥…

満州引揚

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終戦〜満州引揚
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(上の写真)
母 松枝 21歳の時。この年、父 久三と結婚し、満州に渡り、2年後に終戦を迎える。 

父 久三 21歳の時。4年後の25歳の時、母と結婚。
     昭和13年12月 千葉県習志野戦車部隊に入隊。写真は当時のもの。
     昭和14年 4月 満州北支方面軍 原部隊に派遣。戦車操縦士として配属。
     昭和17年11月 除隊。奉天南満陸軍造兵廠に軍属として勤務。


この「母の記録」は、母に続いて四年後、父も亡くなり二人のタンスを整理をしていましたら、母が使用していた引き出しの中から出てまいりました。
小さな手帳に書かれていて、所々抜けている部分を後で書き足したしたのでしょうか、小さなメモ用紙がたくさんはさんであったものを、つなげてまとめました。
それから、母からこの満州からの引揚体験を時々聞いていましたので、部分的に、記録で記載されていない箇所は補足して書き足しました・・・。

【母の記録より】

昭和二十年八月十三日 満州 奉天 文官屯(ぶんかんとん)瀧田川町にて(現在の中国、瀋陽市)

 朝、主人の出勤の弁当を支度している時、自治会の会長さんが「みなさん、大至急、広場に集まって下さい。」と云って来た。
私はやがて一歳になる一人娘の小さな純子をおぶって、急いで主人と広場に行った。
近所の人たちも集まって来た。
朝の八時近い満州、文官屯の太陽はもうすでに熱く、日陰が欲しかった。
何の話があるのか、だんだん不安になって来た。
やがて自治会長の話が始まった。
「八月九日、ソ連は日本に宣戦布告をした。この部隊はソ連がすぐ目の前まで迫って来ているので、襲撃目標となる。戦える者は女でも残れ。足手まといとなる者はすぐに軍用列車を出すから逃げろ。一時間後に、文官屯の駅を出発する。」と伝えられた。
文官屯駅は、奉天から北に一つ行った駅である。
急いで帰って、純子の着物をまとめ、多少の着替えと、主人と私の二人で持っていた現金千二百円を、しっかりと半袖のブラウスの下のお腹に巻いた。
主人は、ここの北支方面軍、原部隊で戦車部隊の兵役の任期はすでに終わっていたが、軍属として仕事に従事していて、隣組みの組長だったので部隊を守るため残る事になった。
主人には貯金通帳から貯金をおろして使ってもらうことにし、貯金通帳を渡した。
『どんな処へ逃げるのかしら。山の中かしら。満州に山があるのかしら。』
私は二十三歳になるが、主人と結婚直後の昭和十八年十月二日にこの満州に渡って来た。
翌年の昭和十九年九月二十日に純子も生まれ、やがて一歳になる。
ここに来てまだ二年程しか経っていないので、この満州という土地を殆ど何も知らない私は、主人と別れて今から行く未知の世界の、不安と恐ろしさを想像すると体の中を悪い悪寒がはしる。

 夕方、軍用列車は朝鮮の平壌(ぴょんやん)の町に着いた。
今まで見た事も考えた事も無い町。平壌。
平壌駅前の広場は、列車から降りて来た二千五百人余りの人達で大変な騒ぎ。
ただし、みんな女、子供、老人などの一般民間人ばかり。
朝鮮の人に混じった日本人は、どの顔もみな薄汚れて見える。
自分が疲れているせいかしら。
町名ごとに一かたまりになって立ってると、我々を見ていたこの町の誰かが「この町の住民の家に世話になる人達だってさ。」と囁くのが聞こえた。
・・・と云う事は、何人かずつに別れて世話になりに行くのだろうなと思った。


やがて二千五百人余りの大きなかたまりがぞろぞろと歩き出した。・・・何時間くらい歩いたか。
気が付くと先が見えないほど赤土のほこり。
体中が汗でびっしょり。
背中の純子もお腹がすいて、泣きじゃくってる。
早く行く所へ行って、乳も飲ませてやりたい。おしめも取り替えてやりたい。
あと、どのくらい歩いたら目的地に着くのだろう。

あたりが暗くなった、たぶん夜九時頃であろうと思う。とある家の門の前に着いた。
そこで、木曽川町の人も、瀧田川町の人も二、三人ずつで組まされて、世話になる家を決められた。
横井さん、田村さん夫婦、そして私と純子の五人は、Aさんという家に行く事になった。
『Aさんってどんな家かな。どんな人かな。どんな奥さんかな‥‥‥。』
考え出したらきりが無いほど心配だ。
横井さんも、田村さんも子供がいない。私にはまだ幼い純子がいる。
Aさんは、六十才くらいか、もっと若いのか、ちょっと分からないけど旦那さんはいないらしい。
十六〜七才の息子さんとと二人で暮らしているらしいが、とても立派な家だ。
後で聞いた話だと、他人の世話をするのはいやだと断ったという。が、隣組みの組長さんが「応接間があいているので困っている避難民を収容できるから強制だ。」と云って、私達を連れてきたらしい。
だから私達はここに居る間、随分つらい思いをすることになる。

 次ぎの朝、早く起きて純子の洗い物をしたいが、どこに何があるのか、ちっとも分からない。
私達にと、充てられた応接間のとなりが、どうも風呂場らしい。そっと風呂場に降りて洗い物をした。
玄関へ行って、自分達が履いてきたものをみんな裏へまわし、玄関から廊下を雑巾がけをする。
すると茶の間らしいところから、奥さんと息子さんの声がする。
「お前、あそこに入れておいたお砂糖なめたでしょう。」
「僕、知らないよ。ねえ、母さん、応接間の避難民たち、いつまでいるの。嫌だなあ。」
「応接間の避難民たちは、みんな馬鹿だ。」
「廊下が埃だらけだな。」
「味の素がない。避難民たち、満州の部隊だったんだから、いっぱい持って来たんだろう。少しくらいくれればいいのに。部屋代も出さないんだから。」
聞いていた私達は、たまらなかった。
嫌なのは私達の方だ。何も好んで来たんじゃない。戦いのためにこうなったんだもの。
満州にいれば、我が家で親子三人、誰にも気兼ねなく楽しく暮らしていられたのに。
まだ、ここに来てから二日目なのに、目の前が真っ暗。

文官屯にいた時を思い出す。
文官屯の官舎は二軒が一棟になっていて、その隣に住んでいたのが横井さんだった。
横井さんも私と同じくらいの年令で、やはり私と同様まだ結婚したばかりだった。
隣どうしで仲もよかった。
満州の夏は短く、冬はとても寒くて、零下十度から二十度くらいまで下がる。
部屋にはペチカが隣との境に付いていて、冬でもとても暖かかった。
窓は二重になっていて、その中に何かを入れておくと、ちょうど冷蔵庫のように寒さで一晩で凍ってしまった。果物などを入れておくとアイスになっているので、食べるのが楽しみだった。

 八月十五日。朝から空襲警報が続く。
午前十時頃、Aさんが「避難民の人、昼の時間に天皇陛下のお話がラヂオで放送になるから聞くように」と云ってきた。
『‥‥天皇陛下のお話って、何だろう?。』
午前十一時頃、又、空襲警報があって防空壕へ入ったが、幸い空襲はなかった。
そのまま昼になり、警報が解除になった。
やがて、天皇陛下のお話の時間が来た。Aさんの処のラヂオの声がする。
聞いていても雑音と難しい言葉で、何の事かちっともわからない。
‥‥と、門の外の方で朝鮮の男の人の怒鳴るような声がする。
「おい、お前達!、日本人。戦いに負けたんだ。もう、日本人の云う事なんか聞かないぞ。今までさんざんいじめられてきたからな。今度は俺達が仇を討つ番だ!。」
うそ、そんな。日本が負けたなんて。もし本当にそうだったら、私達、避難民はどうなるの。すぐに主人のいる部隊に帰ることになるのか?。

私の一生を通じて、忘れられない八月十五日。

 翌日、十六日。
治安隊の人たちが来た。(治安隊は中国の今の警察と同じようなもの。)
「避難民は、有り金を全部出すように。日本の金も、支那のも、朝鮮のも、とにかく金と名の付くものはみんな出せ。一円でも残したら、後で身体検査するからわかる。もし、残した者がいれば銃殺する」と云われて、私はせっかく持ってきた千二百円のお金を、正直に全部出してしまった。
後で身体検査も来ないし、隠して持っていた人もあったのに。
私も横井さんも、正直の上に馬鹿が付いていました。
お金もないし、着る物もないし、早く帰りたい。

「これからは、食事の支度も別々にしましょう。」と、Aさんから云われた。
古いお釜を一つ貸してくれたので、裏の塀のそばに穴を掘り、お釜を掛けてお粥をこしらえた。
薪は道ばたに落ちている木切れを拾ってきて燃した。
足が少し悪かった引率者の方が一週間に拾円ずつくれるお金で、茄子を買い、細かく刻んで塩を掛けておかずとし、毎日々、細々と生活をし、同じような日々が過ぎて、やがて一月くらいが過ぎて行った。

 九月中旬
 横井さんのお腹が、だんだん大きくなってきた。
するとAさんが、「子供さんができたら大変だから、どこか違う家に移って。」と云ってきた。
仕方なく田村さん夫婦を残して、横井さんと私は近くの、『早々に日本に逃げ帰った人の空家』に移った。
そこには我々と同じ避難民の仲間で、初めからその家に世話になっていたKさんとTさんが親子で住んでいた。他に何組かの親子もいた。
Kさんは、「この家の中にあるものは皆、ここの奥さんが日本に帰る時、『貴女達におあずけします。よろしくお願いします。』と云ったので、何かあると私達の責任になるから、私達がいじるのなら良いけど、あなた達、後から来た者は、何もいじったらだめよ。」と言い渡され、ほとんど何もさわる事ができなかった。
台所のガスは時間制になっていて、Kさん達がお粥を作った後、私達が使うよういわれたが、お粥ができる途中で時間になり、ガスが出なくなってしまう。
半煮のお粥を、横井さんと私はいっしょに食べる。
ああ、満州の自分の家に居たらなー。‥‥と叉も、満州が思い出される。

 そんなある日、夜遅くになって表門にトラックの止まる音。‥‥今頃、何だろう。
聞き慣れない声。
ああ、ソ連兵だ!。
大変、早く逃げなければ、とっさに純子の体をそっと抱く。
目がさめて泣かれたら大変。居場所を教える事になる。
頼む、起きないで。泣かないで。神様に祈る‥‥。

 次の日の昼頃、引率者の人が来て、
「近所のおばあさんが夕べ、ソ連兵に見つかって襲われ、撃たれて殺された。
警戒するように。」と伝えにきた。
そんな事が毎日起きるようになる。
自分もいつ、そんな目に会うかも知れない。
‥‥ああ、恐い。無事なうちに早く帰りたい。

 三日程したある夕方、突然、ソ連兵がやって来た。
「みんな逃げて!」の叫び声が聞こえたが、純子をおんぶした私と子供をつれたYさんの二人だけが逃げそこなった。
ソ連兵が私の腕を押さえ、腕時計を私の手に掛けた。
そして手を放さずに床を指差して、寝ろというような素振りをする。
私は頭のてっぺんから水をかけられたようにぞーとした。
Yさんを見たら、もう一人のソ連兵に、やはり捕まって逃げられずに困っている。
何とかして逃げなければ「どうしたら良いの?どうしよう。」
とっさに背中におぶった純子の足を、大きな声で泣いてくれと願って思いっきりつねった。
ところが、ちょっとしか泣かない。
もう一度つねった。やっと大きな声で泣いてくれた。
私は純子をあやす振りをして、ソ連兵の手を振り払った。
そしてもう一度つねった。今度は前より大きな声で泣いた。
今逃げなければもう駄目と思い、夢中で廊下へ走り出た。そして裏の畑の中に飛び下り隠れた。
‥‥と、人間の声とも犬の声ともわからない「ギャー」という声がした。
はっとして我に帰った。Yさんだ。Yさんが殺された!?。
私は自分だけ逃げてきた事が、今さらのように申し訳なくなり、急いで家の中にとって帰った。
廊下の薄暗い中に、Yさんがぼんやり立っていた。
Yさんの子供が、「ぎゃあ、ぎゃあ」泣いている。
「Yさん、私一人で逃げてごめんね。」と云うと、Yさんが「・・・貴女はまだ若いのですもの、逃げて当たり前よ。KSさんなんか、あたしとあんなに仲良くしていたし、年だってとってるんだもの逃げなくたっていいと思うわ。あの人、随分薄情だわ。」と云って泣き出した。
KSさんは五十才くらいの人だった。
「Yさん、さっき凄い声が聞こえたけど、ソ連兵に何かされたの。」と聞いたら、ソ連兵がYさんを手込めにしようとして、廊下に倒され、上からソ連兵がのしかかってきたので、前に野良犬に出会った時(満州の野良犬は人も喰い殺すほど、物凄くどう猛)どうにもならなくなって、ありったけの声を張り上げたら野良犬が逃げたことがあった。
とっさにその時の事を思い出して、夢中で大声を出したらソ連兵がびっくりして逃げ出したそうだ。
Yさんが無事なので安心した。
その日から、毎日のようにソ連兵の来襲が続き、夜といい、昼といい安心できる時がなくなった。

 そんなある日、となりの家の奥さんが、避難民の我々に白菜の漬け物とお茶を飲ませて下さった。
漬け物といい、お茶といい何ヶ月振りかしら。
「もうじき、寒くなるので火を炊くものが無いと困るでしょう。家にたくさん粉炭があるから、少しぐらいなら分けてあげましょう。」と云って、りんご箱いっぱい、粉炭を下さった。
粉炭に赤土を混ぜて水を入れ、団子に丸めて乾かす。それで豆炭くらいの火力があるそうだ。
ああ、良かった。これで一ヶ月位、寒さが凌げる。‥‥その内に満州か内地へ帰れるだろう。
でも、とにかく、この豆炭を炊く七厘をこしらえなければ‥‥。何で作ろうかしら。
庭を探し廻ったら、大きい植木鉢と小さい植木鉢が見つかった。
この植木鉢を利用して七厘が出来た。
これで私も横井さんも、KさんやTさんに気兼ねしないで火が使える。

 横井さんと二人で外に出た。大通りまで出たところでソ連のトラックが来たので、隠れるようにして見ていると、日本の兵隊さんが、大勢乗っていた。
私達の立っている向う側の空き地に、レンガを運ぶ使役としてソ連兵に連れて来られたのだ。
兵隊さん達は私達に気が付いたらしく、そっと、こちら側に来てくれた。
「奥さんたち、どこの人?」
「私達、満州奉天の原部隊のものなの。いつ帰れるか分からないの。食べる物もないし、着る物もないし、辛いわ。お金もないし、主人もどうなったのか心配だし。兵隊さん達はもうすぐ帰るんでしょう。」
「俺たちはこの使役が終わったら、内地へ帰れるんだ。奥さん達も早く帰れるといいね。
奥さんたち、食べ物がないんだろう。俺たちは部隊に帰れば、夕食の心配が無いからこれあげるよ。」と云って、飯ごうの御飯の上に鮭をのせて、沢庵を二切れくれて戻って行った。うれしかった。
「横井さん、これで三日位食べれるね。良かったわ。」
家に帰って、一日分として、三分の一ずつの御飯を、お釜いっぱいのお粥にのばして、鮭をほぐして食べることにした。
KさんやTさんにも同様に分けた。
皆、「美味しい、美味しい」と久し振りの白米のお粥に舌づつみをうった。
‥‥いつも大きなどんぶりに、こうりゃん粒が十粒くらいで、後は水のお粥だから。
だが、そんな思いもたった三日で終わった。

 朝鮮の人の家の裏に、ゴミを入れる大きな穴がある。
時々、薄暗くなってからそこに行ってみる。
さつまいもの皮、大根の皮などが捨ててある。拾ってきて、横井さんと食べる。
家の畑のものを食べる時はいつも、Kさんが「ねー、Tさん、あの畑の草むしり、とても大変だったね。私、直行をおぶってとても大変だったわ。」と必ず云う。
私も横井さんも、胸にとげが刺さるような思い。
家の畑のものを食べさせてもらうより、例えゴミ溜から拾ってきた物の方が、胸がつまって食べるよりよっぽどましだ。
・・・早く、主人のところへ帰りたい。
満州ではその広い大地に、自分で手入れしたかぼちゃやきゅうり、白菜、茄子、食べ切れない程あったのに、
‥‥目に浮かぶ。

 私達のいた家より少し離れた所に、カネボウの官舎があった。
そこで最近、お産をした奥さんがいた。
そこにソ連兵が来て、その奥さんを連れて行こうとしたそうだ。
ところが、その人と仲良くしていた、元看護婦の人が青酸カリを持って身替わりになって行ったそうで、そのままとうとう帰って来なかったとか‥‥。
早く満州に帰りたい。
いつ自分もそんな目に会うか。
或いは日干しになって、死ぬかも知れない。
一目、主人を見てから死にたい。‥‥いや、死んではだめだ。
どんな事しても、生きて帰らなければ。

 純子にりんごを食べさせてやりたい。
朝鮮の闇市に行った。お金はないし、どうしたら良いの。
純子もお腹がすいているだろうに‥‥。
闇市では鱈の干したの、りんごの壷焼き。こうりゃんのお餅にお砂糖のせたもの。とうもろこしのふかしたもの。縮み焼き。青小豆を一晩水に漬けてそれを粉引きで引き、どろどろになった中にネギを切り桜えびを入れて焼いてソースをつけて食べるもの。日本のお好み焼きと同じような食べ物。
いいにおいがする。
食べたい。
ポーミ粉のお饅頭。
何を見ても食べたい。でもお金がない。
りんご屋の前でりんごを見つめていた。
りんごに純子の顔が重なって来る。
こんなにいっぱいあるのだから、一つくらい私が持って行ったっていいだろう‥‥などと思う。

十一月。 
どんよりとした空。
水を汲みに行った。ここの家の水道は、凍って水が出ない。
裏の空家のそばの水道は、みんなが共同で使っているので、凍る暇がなくまだ出ている。
でも寒いから、蛇口から出た水がまわりに凍り付いて、真ん中だけ細くなり辛うじて出ている。
お釜いっぱい汲むのに三十分もかかる。
待っている間、ろくなものを食べていない体は、足の方から凍り付いて感覚が無くなる程冷たい。

 毎日、そこに水を汲みに行く。
純子をおんぶして、今朝も行った。
昼過ぎ、縁側にいた純子が何となく元気がない。
額が燃えるように熱い。
風邪かな。寝かしてやろうと思って部屋に帰ってきた。
「風邪らしいの。寝かすわ」と云ったら、Kさんが「うちの直行にうつさないで!」と云った。
仕方なく向う側の小さな部屋に行くと云ったら、「そんな事しないで。あたし達が追い出したみたいじゃないの。」
そう云われて出て行く事もできず、‥‥でも後で考えると、その時、この部屋から出て行けば良かったと思う。

 翌日、横井さんがお腹が痛いと言い出した。
すぐ家の裏に産婆さんがいる。純子をおぶって産婆さんを呼びに行った。
その時慌てていたし、みんなに気兼ねもあったりして、純子の風邪を気にしながら、おぶって行った。
それがまさか、麻疹の出初めとは思わなかった。
家に帰っておろして、純子の顔を見た。
額のあたりにぶつぶつが出ていた。あれ?麻疹みたいだな。
処が、額のぶつぶつがやがて消えてゆき、青い顔がとてもだるそう。‥‥どうしよう。
特別温めてやる事もできないし。‥‥困った。
とにかく寝かせておかねば。
私は自分の着ていたねんねこを脱いで、純子に掛けてやった。
もう、自分には夏のワンピースを、二枚重ねて着ているだけ。
朝鮮の十一月は寒い。
一枚くらいのねんねこで純子を思うように温めてもやれない。麻疹なのに‥‥。
満州に置いてきた着物を思い出す。あれがあったら‥‥。これもあったら‥‥。
ああ、早く帰りたい。
早く帰って純子を暖かくして寝かせてやりたい。
医者にもかけてやりたい。

船橋町を少し行った所に元、医学大学へ行っていた学生さんがいると聞いた。そこへ訪ねて行った。
色々と事情を話して、やっと学生さんが大事にしていたトリアノン(麻疹に良く効く薬)をしてもらった。
Kさんが隠しもっていたお金を借りてきたのでお礼を出そうとしたら、「お互い日本人どうし、困った時は助け合いましょう。」
と云って受け取ってくれなかった。
そして学生のお母さんが「もう、麻疹も出そびれて肺炎を起こしているから、この辛しで湿布しなさい。」と、洋辛しを下さった。

『落ちぶれて袖に涙のかかる時、人の心の奥ぞ知る・・・。』
地獄で佛とか、本当にうれしかった。
帰り道、うれし涙が出て止まらなかった。
帰ると、さっそく辛しの湿布をしてやった。

でも、もう手後れだったのでしょう。
一週間目の昭和二十年十一月二十一日の夕方、一年二ヶ月の短い生命のひかりが消えて行った。

‥‥色々な事を思い出す。
あのときに風邪と思っていたのが、後で麻疹と分った時にも気兼ねばかりして、特別に温めてやったり、思うように看病もできずにこんなふうに死なせてしまった。
やっぱり、意気地のない母親はだめなのね。本当に純子に申し訳ない。
お粥当番の日、麻疹がのどに来て、声が出ない純子は、台所へ行く私の姿を目で追って泣いている。
お粥一度くらい食べなくても、そばにいてやりたい。
‥‥でも、自分だけじゃない。みんなに又、何か云われる。
誰も当番、代わってくれる人もいない。
苦しかったのでしょう。一晩中泣いている。
だが声が出ないから静かだ。
ただ、顔だけが泣いている。
Kさんが「電気消してよ。ソ連兵が来たら困るじゃない。」と云って真っ暗にしてしまう。
確かにソ連兵に来られたら困る。
でも私にすれば、せめて純子の顔を見ていてやりたかった。
‥‥仕方がない。痩せて小さくなった手を、しっかり握ってやった。
一晩中、握ってやった。
それより他に何もしてやれない。
りんご買って食べさせてやりたかった。でも買うお金がない。
とうとう食べさせたいものも食べさせられずに逝ってしまった。純子、ごめんね。

物置きにあったりんご箱を持ってきて、純子を入れようとしていたら、男性引率者のYさんが来た。
「これは隊のお金じゃない。私のお金だ。貸してやるから御葬式をやりなさい。」と云ってくれた。
私は純子を葬るため、背に腹は変えられず、お金を借りた。
が、まさかYさんが心の中に、あんな企みがあるとは思わずに‥‥。

Yさんは、私を目当てにお金を貸してくれたのだ。
その取り持ちはKさんで、雪が降っている夜中に、小八重さんにおこされて目を覚ましたら、横井さんと私の間にYさんが寝ていた。
私はびっくりして飛び起き、TさんとKさんの間に寝かせてと、Tさんに目顔で頼んだ。
Tさんがやっと壁側に寝かせてくれた。
私は恐くて恐くて、とうとう眠れなかった。
明け方、まだ暗い内にYさんは帰った。
お金は借りたけど、私はYさんの云う事を聞くなぞと約束した覚えは無い。
Yさんがそんなつもりなら、初めからそれが分かっていたなら、お金なんか借りなかったのに。
Yさんは男だから、そう言う気持ちになったとしても、同じ女同士で、何もKさんがその取り持ちまでしなくても良いだろうに。
自分だってそんな立場だったらどうするんだろうと思う。
自分だけYさんへの御機嫌取りして、同じ女として、同じ人間として、人の弱味に付け込んで、あるまじき人だと思った。

平壌の町の外れにある火葬場に行った。
広場に薪がうず高くいっぱい積んである。
その奥にある建物が、佛様を焼く所。
その手前の三十坪位の土間に、こも包みが天井までたくさん積み上げてある。
目の悪い私には、遠くから見て最初は何だか分からなかった。
こも包みの間をやっと人の通れるくらいに道をつけて、両側にびっしり積んである。
良く見たら、こも包みの中は佛様だ。
頭と足が両方から出て、胴体だけがこもに包んである。
正面の阿弥陀様のそばの、蝋燭立てやお三方の上にも・・・、こんな時代でなかったら、花やお線香が飾られていたでしょうに‥‥。遺体が入ったトランクやボール箱がところ狭しと乗っている。
それらは、上へ上へ積み上げられて行くので、下の物はみな箱が壊れて、赤ちゃんの手だの足だのが出ている。
内地に居たら、いや平和なの世だったら見るどころか、考える事もできない光景だ。
凄惨極まりない光景である。

純子を亡くしてからも、毎日、毎日、誰かしら死んで行く。
純子をお骨にしてもらいたいので、一週間程毎日毎日いろいろな人の亡きがらを頼まれて火葬場に運んで行くが、純子をなかなか焼いてもらえない。
もし、こんな事をしていては、内地か満州へ帰る命令が出たら、純子を連れて帰れない。
こうしてはいられない。大変だ。
焼き場の兄や(お兄さん)にお願いした。
「早く焼いて欲しいのなら手伝いな」と云われた。
その日から私も兄やと一緒に鉄棒を持った。
焼き窯の穴から棒を入れて中をかき回した。
焼けたら窯を開けて、表まで焼けたお骨を運び出す。
新しい佛様を窯に入れる。
そんな事を繰り返して一週間、やっと兄やが「奥さんの赤ちゃん焼きな」と云ってくれた。
うれしかった。
上へ上へと佛様を積み上げられて、壊れた箱から手足を出しているほかの子供を見ると、純子もあんなにされていたら可哀想だったから無我夢中で手伝ったんだ。
やっと焼いてもらえる。夢中になって焼いた。
『純子、何もしてやれなくてごめんね。せめてお母さんの手で亡きがらだけでも焼いてあげられるので、これでがまんして成仏してね。
あんなにして、捨てていかれても仕方ない世なんだからね。
純子ちゃん、お願い。あなたはもう佛様なんだから力があるでしょう。
早く満州のお父ちゃんのところにいって、お母ちゃんがこんな処にいることを教えて、一日も早く向えにくるように云ってちょうだい。おねがい‥‥。』
純子のお骨を枕許に置いて、毎夜のように祈った。
昼間はみんなが見ているから、拝んで泣いてばかりもいられない。
夜、みんなが寝静まると、拝んでは泣いた。

お粥をつくる燃料が無くなって、部屋の間仕切りの戸は一番先に無くなって、この頃では外の戸も一枚づつ無くなりはじめた。
もうこれ以上壊すと、寒くて住んでいられなくなる。
仕方なく板の間の床板を一枚づつ壊して燃やしはじめた。
毎日一枚ずつ無くなっていく。
床板を外すと、縁の下から冷たい風が遠慮なく上がって来る。
台所のすべてが凍り付いて、まるで冷蔵庫のよう。
十一月も後少しで十二月。海に囲まれた日本の内地と違い、大陸の冬はとても厳しく寒い。

この頃はソ連兵もあまり来なくなった。雪で寒いから外に出なくなったのかも知れない。
その代わり、変なうわさが流れはじめた。
満州にいる主人達のうわさである。
「コップ一杯の黄色く汚れた水に、大豆の煎ったのを、同じくコップに半分。これが一日の食料で、毎日、ソ連の使役に使われるので、体の弱い人は次から次へと死んで行く。」
横井さんは、御主人が胃が弱いから心配だと云って泣いている。
私の主人は丈夫な人だけど、それだけに、自分の体のことを考えずに働き過ぎて、病気になったりしないだろうか心配だ。
早く主人のところへ帰りたい。

 十二月になった。
通りで出会った支那人が自分達を見て、「日本のみなさん、かわいそうだね。」と言ってくれた。
奉天まで帰りたいと言うと、「知り合いがそこまで行く用事があるから手紙を書けば渡してあげるよ」と言ってくれたので、自分達が平壌の船橋町にいて動けない事を書いてその男の人に手渡した。日本人と分かると罵声を浴びせたりする状況の中で、その親切な支那人には言葉に言い表せないほどうれしかった。

 ソ連軍から、日本人は使役をするよう命令が出た。私達にも使役の命令が出た。
子供のいない私は、仲間の代表として行く事にした。
朝早く、不安な気持ちで大通りに立っていると、大きなソ連軍のトラックが来て、ほかの町の人達と一緒に乗せて走り出した。
何時間くらいか、とにかく、かなり長い時間走った。
どこへ連れて行かれるのか。
何をしに行くのか。
とにかく、不安だ。
テントの破れ目から外を見たある奥さんが、「ああ、こんな所まで来ちゃって、‥‥何をしに行くのかしら。‥‥どこまで行くのかしら。」
土地に不馴れな私は『もしかしたら女ばかり集めて‥‥』悪い事ばかりを考え、ますます心配になってきた。
トラックが止まった。
ソ連兵が降りろと素振りをする。
広い畑の中には白菜がたくさんある。元、日本人が作っていたものだそうだ。
これを採ってトラックに乗せるのだ。
採ろうとしたら、白菜が冷たくカチカチに凍っている。
まるで白菜のアイスキャンディだ。
トラック一杯になった。
来る時は乗れたけど、帰りはどうするのかな。
トラックの天井には、もう少しで届きそうなくらい一杯に白菜が入っている。
もう人が乗るところなど、ありはしない。‥‥どうするのか。
ソ連兵が来た。トラックに乗れと云う。
ちょっとためらったら、体を抱き上げて、白菜と天井の間三十センチ位の間に、腹ばいに突っ込まれた。
次から次と、みんな突っ込まれた。
家のそばまでの道のりを、お腹と云わず足と云わず、白菜どころか人間のアイスキャンディが出来そうに横になったまま動けずに、冷たい。寒い。
でも、行きの不安に比べれば、この冷たさは何でも無い。

体の方は冷たくて、がたがた震えているけれど‥‥。
家の近くまで来て降ろされた。
ソ連兵から「持てるだけ白菜を持て。今日の日当だ。」と身ぶりで云われた。
なるほど、ソ連では「働かざる者、喰うべからず」と云うそうだ。
持ってきたリュックに入るだけ入れて、縄で白菜を二つずつ縛ったものを両手に持って、やっと歩いた。
一個でもよけいに持って帰りたい。
重くて前に足が出ない。
毎日ろくなものを食べていないから力が出ない。
腰が折れそう。
片足を前に出すと片足が折れそう。

‥‥やっと家に帰った。開けてみたらリュックの中だけでも、十五個も入っていた。
よくも、こう持てたものだ。
これを食べている内は、KさんもTさんも何も云わない。意地悪もしない。
大きめに切れた白菜を薄い塩水に入れて、一晩おいてあした、それがみんなの主食となる。
三度、三度、四人で食べるから、たちまち無くなる。
早く何とかしないと、食べ物も無い。
もう、壊して燃やすものも無い。
外は雪で真っ白。寒くても暖もとれず、着物も無い。
今度は私達が死ぬ番だ。
他のところから移って来た、となりの部屋の里崎さんが肺炎になってしまった。
「うーん、うーん」唸っている。
いっしょにきた山田さんが一生懸命、冷やしてあげていた。
・・・早く帰りたい。まごまごしてたら死んでしまう。死にたく無い。
何としても、満州に帰って主人に会わないうちは、絶対死ねない。早く帰りたい。
千葉さんの赤ちゃんも、とうとう亡くなった。
手島さんの赤ちゃんも、中村さんの赤ちゃんとおじいさんも、みんな次から次へと、亡くなっていく。

世話人の方が、帰りの希望地を調べに来た。
大半の方は内地(日本)に帰ると云う。
私達の順番がきた。
横井さんは、「あなたが日本に帰るのなら、私も日本に帰るわ。」と云う。
私は誰が何と云っても、主人がいる満州に帰りたいと思った。
日本に帰ったら、もう二度と満州に来られない。
もし、日本に帰って主人がまだ満州に残っていたら、永久に別れ別れになってしまうかも知れない。
主人の元へ帰ったのなら、支那政府も日本人を国へ帰すだろうから、それからでも日本へ帰れる。
どうしても主人のいる満州の奉天に戻りたい。
平壌から奉天へは日本とは逆行の北進である。ますます日本からは遠ざかってしまう。
しかし、日本に帰るよりも何よりも主人と再会したい一念であった。
主人を置いて一人だけで日本に帰ることなど考えもしなかった。
奉天へ戻りたいことを伝えると、横井さんも同じように奉天へ戻ることにした。

 十二月のある日。
少し離れた焼酎倉にいる佐藤さんが、会いに来た。
二人で桜町の方にいる小野寺さんに会いに行った。
焼酎倉とは、焼酎を作って寝かす所で、天井は高く、人の顔の見分けもつかないくらい暗く、日が入らない為に、何となくじめじめと湿っぽく、こんな処にいたら心の底から情けなくなる。
その上、床板が貼って無いから、土の上に直にむしろを敷いて、みんな寝たり座ったりしている。
これでは、どんな丈夫な人でも病気になる。
それに、みんな食うや食わず‥‥、食べたと云っても、おからやこーりゃんの重湯くらいでは、ある命も無くなる。
一日の内に、何人もの人が死んでも、さして不思議ではない。
まして、一歳や二歳の幼子は、生きているのが不思議な事である。
小野寺さんが住んでいるところへ着いた。
入り口に大きな箱が置いてある。みんな泣いている。ここでも誰かが死んだらしい。
六帖くらいの部屋に入った途端に、変な匂いがする。
見ると小野寺さんの他に男の子が二人、首を垂れて座っている。
そのかたわらに、その子のお母さんらしい人が横たわっている。
小野寺さんが「あの男の子、立てないのよ。座ったきりで垂れ流しなのよ。初めはそこにあるブリキ缶でしてたけど、この頃それもできないの。そこに寝てるお母さんね、そのお母さんもこの間死んしまったけれど、どうしようもないから、そのままにしてあるの。」
気の毒だ。もしこれが以前の満州に居るならば、こんなみじめな死に方もしないし、また、死にもしないで済むだろうに可哀想に・・・。
知らず知らずに目頭があつくなる。
もしかしたら、これが明日の自分の姿かも知れない・・・。

 東本願寺に横井さんと行った。
今日、東本願寺に行くと今までに死んだ佛様の供養をしてくれるというので、私も行く事にした。
東本願寺の本堂に上がった。阿弥陀様の台座が高い。
その下には佛様がいっぱい。むしろに巻いて積んである。
ある佛様はむしろから足の平が飛び出し、その上の佛様からは髪の毛が垂れ下がっている。
また、その上はいがぐり頭の人。
これらの佛様はこれからお経をあげてもらって、黄緑江に流すのだそうだ。
またまた純子を思い出す。
自分の手で焼いてお骨にしただけでも幸せだと思った。

お参りを済ませて本堂を降りかけた時、三、四人の日本の男の人が、何かをずるずると引きずってくる。
むしろの上に、ぼろ布のようになった女の人が横たわっている。
よく見るとAS少佐の奥さんである。
痩せ細って髪の毛もくちゃくちゃ。
顔も真っ黒に汚れて、元はどんな顔の奥さんだったのか、想像もつかない。
引きずってきた男の人達は、むしろごと本堂の下に置いたまま帰ってしまった。
これでは、死んでも行くところにも行けないであろう。
こんな姿を御主人が見たらどんなに悲しむだろう。
奥さんも、さぞこんな所でこんなみじめな姿で死にたくなかっただろうと思う。
でも今の私達には何もしてあげられない。
手を合わせるだけ、お線香一つもあげられない。

裏手で声がする。男の子だ。里崎さんの男の子が「ほんとか。ほんとか。」と叫んでいる。
私は何かと聞き耳を立てた。
満州から迎えが来たのだ。待ちに待った、迎えが来たのだ。
十二月二十四日。
やっと迎えに来てくれたのだ。
私も横井さんも、どうやって表へ飛び出したか分からない程、夢中だった。
うれしかった。足が冷たい。気がついたら、雪の中を裸足で飛び出していた。

昨日から食べ物がなくて、お腹が背中につきそう。

 迎えにきた木曽川町の組長さんが入ってきた。
「瀧田川町は誰が来てくれたのですか。瀧田川町も来てくれたのですか。」私は夢中で聞き返した。
「奥さん、みんな無事ですか。苦労したでしょうね。もう大丈夫。自分達が必ず連れて帰ります。
安心して下さい。お金も御主人方から預かってきています。汽車もこれで動かせるし、瀧田川町は組長さんが部隊の警備で来られないので、副組長さんが来てますよ。」
瀧田川町の組長は私の主人だった
離れていても良い。来てくれたのだもの。これでやっと帰れる。うれしい。
通りで出会った支那人が知り合いを通して手紙を届けてくれたので、やっとこの場所が分ったそうだ。

きっと純子が願いを叶えてくれるようにしてくれたのだな。
『純ちゃん、ありがとう。』心の中で純子に礼を言う。

「御主人達から手紙を預かってきてます。」と、預かってきた手紙をみんなに分けてくれた。
半年近く、別れた主人からのなつかしい便り。
手に取るより早くむさぼり読んだ。
ただ、懐かしいなんて生ぬるいものじゃない。
主人も生きていたのだと思うとほっとし、心の底からうれしかった。
手紙の中に、『子供はもう死んだと思う。死んだものは、もう諦めている。せめてお前だけでも生きて帰って来てくれ。俺達は何の障害もなく、元気にしている。』とあった。
うれしくて、うれしくて、泣けて、泣けて、涙で字が読めない。
横井さんと取り替えっこして読んだ。
横井さんの手紙にも、同じような事が書いてある。安心した。
横井さんも、生まれたばかりのとも子ちゃんを、早く見せたいと言って泣いた。
とにかく、主人が無事と分って一安心。目の前が明るくなった。
・・・でも、TBさんは、御主人から手紙が来なかった。行方不明とのこと。
TBさんは、段々、頭がおかしくなっていった。
横井さんは、「とても、これだけの避難民、しかも何の力もない敗戦国の人間が、どうやって満州まで帰えるのだろう、信じられない。帰る姿も想像できない。」と、言っていた。
横井さんの言葉に、私も何だか不安になってきた。

これで純子が生きていたのなら、どんなにうれしいか。
純子を死なせてしまった事が、主人に申し訳ない。

 前の日の不安をよそに「朝の八時頃、裏の広場に集まって出発する」と知らせがあった。
とにかく、横井さんのとも子ちゃんに風邪をひかせないように、あるったけのもの・・・と言っても、たいしたものはないのだけれど・・・を着せて、私も純子のお骨を首に掛けて出発した。
ぞろぞろと舟橋町の町を、主人の元に帰るための長い、長い列を作ったということが、信じられない程うれしい。やっと実現できたのだ。
ただ、もう一ヶ月早ければ、純子を背中におんぶして行かれたのに・・・。

やがて、二時間くらい歩いただろうか、平壌駅についた。ほんとに帰れるのだ。
でも、今までの辛さの割に何故か簡単に帰れるようになったので、自分がいつも帰りたい、帰りたいと思っているので、『夢を見ているのじゃないかしら』などと思った。
「横井さん、良かったね。とも子ちゃん、お父ちゃんの所へ行くんだよ。」
私は自分でとりあげて生まれたとも子ちゃんが、純子と同じように可愛かった。

寝るのも、起きるのもいつも一緒なんですもの。

向うの方で、誰かが大きな声で話している。何気なく振り向いた。みんなが泣いている。
『どうしたのかな・・・』
小野さんの赤ちゃんの良子ちゃんが、今朝、顔に麻疹の発疹が出かかっていたのだそうだ。
毛布で包んでおんぶして来たが、二時間も冷たい中を歩いていたので、死んでしまったのだった。
無理だったのだ。でも、そうしなければ、永久に帰れるかどうか分からないですもの。
朝鮮の駅員が来て、「死んだものを汽車に乗せてはだめ」と言った。
黙って内緒にして、乗ってしまえば良かった・・・。

 やがて汽車が来た。
みんな少しでも早く帰りたい、早く乗ったら、早く満州に着くような錯角を抱いて、みんな慌てて乗り込む。
私と横井さんは、一緒の所へ座れた。胸がはずむ。
心臓の音がドキドキ聞こえる。
うれしくて、うれしくて脈が高まり、体中が何故かぞくぞく、わくわくする。
ガタン、ガタン、汽車がゆっくり動き出す。
横井さんと手を握りあった。
「やっぱり、夢じゃなかったのね。」うれし涙がこぼれた。
小野さんが「あなたは良かったわね。純子ちゃんのお骨持って来れたものね。」と、泣きながら線路脇を見る。
埋める間もなく赤い着物にくるまった良子ちゃんが、白い雪の上にぽつんと横たわっている。
「良ちゃん、さよなら、母ちゃんをかんべんしてね。」泣きながら、小野さんが言う。
私達も涙が止まらない。
雪の大地は、どこまでも、どこまでも、広々と地平線の彼方まで見渡せる。
汽車が動きだしてから、もう十分位経つが、良子ちゃんの赤い着物が、彼方に小さくなりながら、うねり、うねり、いつまでも見えている。あたかも母恋しげに見えている。
「良ちゃん、早く見えなくなって。いつまでも見えていると母さんつらいよ。」小野さんの声を聞きながら、私はたまらなくなった。
『純ちゃん、お前はお母ちゃんと一緒なんだから少し我慢しなさいね。』と、純子のお骨をひざの上から外した。小野さんが気の毒で、とてもひざの上に乗せていられなくなった。
・・・やがて、雪の上の赤い着物は、小さくなって見えなくなった。

十二月二十八日。やっと、半年ぶりに帰れる。
汽車の中で、家に帰ってからの事を考えていたら、窓の外の明るさも、暗さも忘れて、いつのまにか四日が過ぎていた。

 一月一日の朝、鴨緑江の鉄橋の真ん中で汽車が止まった。
朝鮮の一月一日、鴨緑江の鉄橋の真ん中。材木を載せる貨車は屋根も囲いもない。
まともに着ている服は、夏に出発した時のブラウスニ枚を重ねて、その上に純子をおぶる時に着たねんねこだけである。
冷たい風にさらされ、お腹は空いているし、寒いし、早く動いてくれないかしら。
指導員の人が来た。大きな箱に何か入っている。何だろう。
「ここに住んでいる日本人が、炊き出しをしてくれたのだよ。」と言って、小さなおむすびを一つずつ配ってくれた。
三角にむすんだおむすびに、お味噌がてっぺんにちょこんと乗せてある。
半年前に家を出てから初めて、こんなに固いご飯、のどを通してしまうのがもったいない。
一粒、一粒、大事に食べた。そのおいしさは、とても言葉では書き表せない。
暫くして又、指導員の人が来た。
汽車を降りるように言って来た。
「どうするのだろう。」何か不吉な予感がする。
ここまでは朝鮮だったけれど、ここを境にしてここからは支那(中国)になるから、又、支那(中国)の鉄道にお金を払わなければ、汽車が動かせないそうだ。
考えてみれば、口惜しいことだ。
朝鮮の鉄道だって、支那(中国)の鉄道だって日本が開発して出来た鉄道。
今まで、満鉄として釜山から大連まで直行していた鉄道なのに、日本に力がなくなったとて、こんな鉄橋の真ん中で、あっちだ、こっちのだと別々にお金を取り立てなくても良いだろうに。
私がここで腹を立てたところで、どうにもなるものではない。みんな貨車から降りた。
この汽車から降りたら何時又、乗れるのか。みんな口にこそ出さないけれど、心の中では同じだった。

 一月 安東にて。
支那(中国)の安東の町の元日。
日本人が経営していた二葉屋という大きな料理屋の大広間に入った。
すでに空家になっていて、荒れていて広間と言っても畳はないし、障子もない。
一部屋に木曽川町、瀧田川町、利根川町の二百人くらいの人が一間に入った。
夜になって寝るとなると大変だ。
ぎゅうぎゅう詰めで、お腹も背中もぴったりくっついて寝ている。
板の上に風呂敷やリュックを敷いたり、あるいは新聞紙を敷いたり、それもある人は良い方だ。
ない人は、そのまま冷たい板の上に寝るしかない。
寝返りをしようとしても、前後から押さえ付けられているために、体が動かない。仕方がないから起きかえって、方向を変えて寝ようとすると、もう隙間が無くなって寝られない。
そのまま座って夜を明かす。
手洗いに行って帰って来れば、座る所もなくなる。畳一枚に三人づつ。
それでも寝られるうちは良かった。

・・・やがて、KSさんの精神状態がおかしくなった。
隣組みの組長だった私は、KSさんの面倒を見る事にした。
一階の部屋の一番隅にKSさんの場所をこしらえた。
うっかりしていると、KSさんは何もかも脱いでしまう。びっくりして着せてあげる。
夜になって私も眠いので、うとうとする。
気が付いてみると、靴下まで脱いでしまう。
寒さが厳しい大陸で、しかも一月の極寒に、夜中じゅう素足のまま放り出している毎日が続く。
私がいくら履かせながら「凍傷になるから脱いじゃだめよ。」と言い聞かせても、気が違っているから分からない。
とうとう凍傷になってしまい、指が紫色になっている。
KSさんが「あなたにお願いがあるんだけど。今、主人が迎えに来たから、荷物をまとめて下さいな。」
迎えに来るはずもないのに・・・、日増しにおかしくなる。
早く主人のところへ帰りたい。
そんな気持ちがKSさんをこんなふうに狂わせたのでしょう。
何時までこんな事をしているのか。
私まで気が狂いそう。

 朝八時頃、大きなどんぶりに水がいっぱい入っている底の方にコウリャンが十粒くらい入っているのが食事。それは支那人の工員さんがお昼を食べ残したものだ。
それを私達のおかゆにする。でも命をつなぐため、食べないではいられない。

「KSさんが叉、裸になっているわ。」と言われて部屋に行ってみると、お風呂に入る時と同じ格好で部屋の真ん中に立っている。
急いで服を着せてやると「お手洗いに行きたいから脱いだのにー。」と恨めしそうに言う。
「お手洗いに行くなら、一緒に行ってあげるよ。」と言って、一緒に廊下まで出た。
廊下で自分が持って来たタオルを下に敷き、そのタオルをまたいで用を足す格好をする。
あわてて止めると、「私が作ったお手洗いだから、遠慮しなくていいのよ。」とすました顔。
哀れである。
KSさんも哀れであるが、それを見ている私も哀れである。
いつの日か、自分もこんなふうになってしまうのではないかと思う。でも、どうにもならない。

 二葉屋の裏が広い庭になっている。その庭の隅に小屋がけがある。そこに住んでいた、やはり日本人の避難民(私達、文官屯の人達ではないけれど)の奥さんがいた。一言二言、言葉を交わすうちに仲良くなった。北満のハルピンから来たそうだ。御主人をハルピンに残し、一人で避難してきたそうだ。
一日でも早く帰りたいと言っていた。同感である。

 お腹が空いて、どうにもならなくなった。
表へ出て、前の女学校の塀の上に積もった雪を丸めて食べた。
もう、このまま二葉屋に帰らずに満州に帰りたい。
道が分かるなら一人でも歩いて帰りたい。

 町に出た。配られたわずか残っている一円でやっと塩味の大福を買った。横井さんと二人分買ってきた。
リュックの品物も、もう残り少ない。白糸も黒糸も、もうない。
後は純子の着物だけしかない。内地から送ってくれた純子の晴れ着だけは、主人に形見として持って帰りたい。

 ある日、朝起きて立ち上がった途端に目がまわる。
「どうしたのかしら。とても目がまわって立てないわ。」
そばにいた小八重さんが、「あなたお腹空いているのでしょう。私、昨日買ってきたおからがあるから食べなさい。」と言っておからをくれた。おからと言っても、味の付いたおいしいおからを思うでしょうが、お豆腐屋から買ってきただけの味も何も付けてない物。でも、いつもお腹いっぱい食べてない私達には、とてもおいしい。
私は夢中で弁当箱のおからを食べた。小八重さん自分自身も食べるものはやっと手に入れた貴重なものなのに、分け与えてくれた気持ちが本当に有り難かった。これがなかったら、二度と立ち上がることができなかったかも知れない・・・。
やっと、一時間くらい経ったら、めまいが止まったので、純子のさらしで作った寝巻きをこっそりとねんねこの下に隠して持ち出し、闇市の近くまで行って、支那のくず屋さんに無理に買い取ってもらって、十円をこしらえた。
闇市で大豆一合、白米一合、ポーミ粉(とうもろこし)のパン一個。おから一つ、塩あんの大福二個を買った。
横井さんに大福一個をあげ、小八重さんにお礼をいっておからを返した。
私達がお金をこしらえて、何かを買って食べている処を、支那の政府の人に見つかると、避難民でお金がないから、ただで満州まで汽車を出してもらうように運動をしてくれている日本人会が困るので、絶対に食べ物を買い食いしないように言われている。
でも、お腹が空くどころか目がまわったり、立てなくなったり、背に腹は代えられず。
ついに、子供の着物をも持ち出してしまった。
大豆を、お弁当箱のふたで、音のしないように煎って焼き、横井さんと二人で内緒で食べる。
何とも言えぬ甘味。
白米も一合買って来たから二、三日したら又、何とかして炊いて食べようと約束した。
何しろ暖といえば、大部屋の真ん中に、小さな火鉢に炭の火が二かけらくらい。
その上に、お弁当箱にお米を仕掛けて、灰の中に半分くらい埋めておくと、半日くらいでご飯になる。
横井さんと、半分ずつ食べた。

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