心にうつりゆくよしなし日記

俺たちは、氷室京介を卒業しない!

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八代目坂東三津五郎、七代目坂東蓑助襲名披露、五代目坂東八十助初舞台
昭和37年9月 歌舞伎座

演目:昼の部
一、慶喜命乞
二、鬼一法眼三略巻
三、髑髏尼
四、汐汲
五、鳥羽絵
六、喜撰

演目:夜の部
一、黎明鞍馬山
二、絵本太功記
三、口上
四、隅田川
五、御所五郎蔵

八代目坂東三津五郎襲名披露の筋書です。

この年の4月5月に、同じ歌舞伎座では十一代目市川團十郎襲名披露が行われており、同じ年に二つの大名跡
の襲名が行われるという珍しいスケジュールの組み方になっておりました。

加えてこの襲名では、三津五郎の他に、娘婿が蓑助を、そしてその息子が八十助を名乗って初舞台を踏むという
当時としてはかなり珍しい、三代の襲名披露が行われたという点でも、大きな話題を呼んだのでした。

ちなみに、この時襲名をした坂東蓑助は後年、九代目坂東三津五郎となり、その息子の八十助は、現在の
坂東三津五郎(十代目)になっています。

襲名狂言はまず、新・三津五郎が、昼の部では『慶喜命乞』の西郷吉之助、『喜撰』の喜撰法師、夜の部が
『黎明鞍馬寺』の金売吉次、『絵本太功記』の真柴筑前守久吉、『御所五郎蔵』の星影土右衛門という配役。

次に新・蓑助の襲名狂言は、夜の部の『黎明鞍馬寺』の渋谷金王丸、『絵本太功記』の加藤虎之助正清という
配役。

最後に、初舞台披露となった八十助の披露狂言は、昼の部が『鳥羽絵』の鼠、夜の部が『黎明鞍馬寺』の
遮那王牛若丸という配役でした。

この襲名興行、注目される点は二つあり、まず、新・三津五郎が踊る『喜撰』が、絶品と呼ばれ、映画にも
残されている父・七代目三津五郎にどこまで近づけるかという点が、評論家の間で大きな注目を集めました。

結果的に、七代目のような枯淡で、洒脱な味わいには及ばないものの、それでも及第点以上の出来栄えを示し、
高い評価を得たのでした。

この『喜撰』と同様に注目されたのが、初舞台の八十助。

ご本人(現:三津五郎)によると、この時の初舞台には、本人から希望が出され、その希望というのが

,垢辰櫃鵑らせり上がること
⇔ち廻りがあること
2崙擦鬚っこよく引っ込むこと

だったそうです。全く贅沢なガキんちょです(笑)。しかし、その希望は叶えられることになり、八十助の
ために『黎明鞍馬寺』が書き下ろされました。ここでは祖父・八代目三津五郎、父・七代目蓑助が競演して
いますが、親たちの心配をそっちのけにして、八十助坊ちゃんは溌剌と初舞台を勤めたのだそうです。

後年、この初舞台をご本人が語るところによると、「子役とは思えないほど上手だった」とのこと。たまたま
この舞台は録画されていたそうで、それを後年見た現:三津五郎、自身の上手さに驚いたそうです。

その一方で、昼の部の『鳥羽絵』の鼠については、父親から大変な厳しい稽古をされたそうです。父親の
蓑助からすると、初舞台でいい思いばかりをさせては将来、舞台をナメてかかるようになるという懸念が
あったようですし、加えて、共演するのは蓑助の師匠ともいうべき、二代目尾上松緑。世話になっている
兄貴分に、迷惑はかけられないという思いもあったのでしょう。

しかし、その厳しい稽古が功を奏したのか、この『鳥羽絵』は大好評を得、父親は大いに面目を施したと
これまた後年、現:三津五郎自身が語っています。・・・これは、まあ、本当でしょう(笑)。

さて、八代目を継いだ三津五郎。生まれてすぐ七代目三津五郎の養子となり、父の前名である八十助を名乗って
初舞台を踏みます。子役時代は「名人」と呼ばれた七代目の膝下で修行し、その後、「蓑助」を襲名。長く
この名前で活躍していましたが、七代目の死の次の年に、八代目を襲名するに至ったのでした。

この人は『助六』の意休や、『野崎村』の久作などが当たり役で、坂東流の家元として、舞踊にも見事な
腕前を見せておりました。

若い頃は血気盛んで、松竹を脱退して、もしほ(十七代目勘三郎)と東宝劇団に走ったり、『源氏物語』を
自主公演で上演しようとしたりするなど、波乱の多い若手時代を過ごしていました。ちなみに、『源氏物語』
は、三津五郎(当時:蓑助)自身が大事にしていた写楽の絵を売って資金を作ったにもかかわらず、上演の
前日に、警察から不敬であるとの理由で上演を中止させられてしまったというエピソードがあります。

戦前だったため、皇室の男女の恋愛を題材にした作品を上演することは、許されていなかったのでした。

戦争前に関西に移住し、長く関西で活躍しました。戦後、現在の坂田藤十郎や中村富十郎がまだ若手だった
頃、この八代目三津五郎がよく指導していたのは有名な話です。そういった点で、関西歌舞伎に大きく貢献
したということで、大阪松竹座には、「思い出の関西歌舞伎俳優」の一人として紹介されています。

大変な知識人で、著書も多く、趣味である骨董集めはプロも顔負けの眼力を持っていたそうです。大変グルメ
な人でもあり、食べるだけに飽き足らず、料理も自分で作ることも多く、こちらもプロ顔負けだったと言われ
ています。

そんなグルメな三津五郎、地方に巡業に出かけた時、食事をしようと街中を歩いていましたが、あいにくと
夜遅くだったため、店はすべてしまっていたそうです。それでも探し回ってやっと見つけたのが、屋台の
ラーメン屋。それまでラーメンを食べたことの無かった三津五郎は、不承不承で箸をつけたのですが、直後、

「こんなウマイもの、食べたこと無い!」

と言って大喜びだったそうです。その後、ラーメンは三津五郎のお気に入りのメニューになったそうです。

芸には大変厳しい人で、坂東流の踊りでは、出来の悪い弟子たちには、殴る・蹴るで教えることもあった
そうですが、その反面、大変な感動屋で涙もろい人でもありました。

しかし、奥さんを亡くされた後、再婚した頃から娘夫婦との仲が悪くなり、晩年は娘婿、孫と競演する機会
は皆無と言っていい状態になりました。聞く話によると、この再婚相手は、全く歌舞伎界のしきたりを守ろう
とはせず、さらには、八代目が亡くなった後、八代目が精魂込めて集めた貴重な古書、骨董類の全てを売り
払ったと言われています。

話を元に戻します。

この襲名披露の『口上』の列席者を下記に記載します。(下手からの並び順です)

歌右衛門、福助(現:芝翫)、秀調(四代目)、吉弥、好太郎、勘弥、初舞台 八十助(現:三津五郎)、
八十助 改メ 蓑助(九代目三津五郎)、蓑助 改メ 三津五郎、猿之助(猿翁)、左團次(三代目)、梅幸、
松緑(二代目)、羽左衛門、九朗右衛門、我童、宗十郎(八代目)、團蔵(八代目)、勘三郎(十七代目)

この口上では、大幹部の後ろに、大和屋の門弟18人が顔を揃えるという豪華なものでありました。

晩年は東京に戻り、貴重な脇役として、また、能や茶道など様々な伝統芸能の関係者との関係を密にしていた
三津五郎でしたが、昭和50年、フグの毒に当たって亡くなってしまいました、享年68歳。

そのため、年配者の間で「坂東三津五郎」と言えば、フグで死んだ役者というイメージが強く残って
いるようです。

八代目の無念、いかばかりでしょうか・・・。

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閉じる コメント(2)

○代目とつくからには、お名前にまつわるエピソードは襲名なさった方の数だけあるのは当然ですが、いろいろなんだなぁと改めて感じました。
にしても…現:三津五郎坊ちゃんてば(^_^;)

2007/9/10(月) 午後 0:50 [ n_k*i*anda ] 返信する

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三津五郎坊ちゃん、なかなか生意気ですよね(笑)。しかもそれを自画自賛するところが・・・。ただ、八代目が急死したとき、三津五郎は18歳。これから修行!といった時期に祖父を失ったため、それをとても残念に思っているそうです。曰く、もっと祖父に教えてもらいたかった。九代目と仲が悪くならず、八代目がもっと三津五郎に教えていれば・・・。芸風がもっと変わったものになったのかもしれませんね。

2007/9/10(月) 午後 5:11 たいしぇん 返信する

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