2010沖縄県知事選
時事ネタと、少し言葉にしにくい葛藤 休日の只中であるこの時間は本来なら、水曜日からの来たるテストに備えて、せめて形だけでも机に向かっていなければならない時なのでしょうが、ここ数日のニュースを見ていると、どうも頭の中で思考の波が蠢いて気が落ち着く様になりそうもないので、とりあえず思った事を書きとめておこうと思います。と言っても、この数日このブログを更新していない間におこった出来事、その中でも記憶に残されるべき出来事というのはあまりにも数がありすぎ、何から手をつけていいのか戸惑う様な感覚があります。
とにかく今問題なのは、今自分のいる環境が偶然に平穏な一方、社会の現象としてある出来事があまりに数的、量的に膨大すぎるがゆえに、その中に自分が組み込まれているという意識をなくしてしまいがちなところです。僕は社会の一員としての自分が思った事を、単純呟こうと思います。
第一にタイムリーな話題として、浜岡原発の停止ですが、僕はにわかな知識に基づく考えながら、英断だったのではないかと考えます。原発の中でも特に危険な立地とされる浜岡原発に対する不安は、確かに現地の方にとってリアルな問題だと思いますし、原発利権に絡め取られた政治家には出来ない事だったようにも思うからです。この事は、それによって現政権を持ち上げるとかそういう話では無く、情勢に対する評価の表明はあって問題はないと思うのです。しかし僕は同時に現政権に、それ以上の踏み言った対応を期待したかったと思いました。 次に、ウィキリークスがまたしても暴露した沖縄問題に関するもろもろの記事ですが、この事が今様々な話題に隠れ曖昧にされそうなことに、悔しい思いもありながら、或る意味で仕方ない様な、複雑な気持ちでいます。ビンラディンの殺害に対する感想も同様に、僕個人には少なからず複雑なものです。そもそもの話が、米国の言うテロとの戦争なんて概念自体、本当にありうるのでしょうか。テロが主体的な敵ではなく、地面からじわじわ芽を出してくる雑草の様なものである以上、それを根絶やしにしようとする試みは、有意でしょうか。 結局のところアメリカ、そして人類にとって、最も根本的なところで多文化主義の時代を生き抜こうとする努力だけが、本当の意味で有効なのでは? アメリカのやっている事はテロにテロで報復する行為であって、結局終わりの無い復讐合戦なのでは? 疑問は無尽蔵に湧いてきます。この問題はビンラディン一人が殺されたことで局面を迎えるほど、単純なものでしょうか。センセーショナルなマスコミの報道の裏で、この感覚は実は誰もが感じている事ではないかと思うのですが、はたしてそれはどれだけ、一般に共有された認識としてあるのか。 そういう点について、僕はいつも、自分の書きたい事を自由に考える事は出来ても、それを実際に文字にし、共有する事が出来ない様な、上手く表現しにくい葛藤を感じています。思った事や考えた事をもっとダイレクトに誰かに伝える手段があれば、世の中もっと手っ取り早く事が進むのですが、人間にとってそのための方法は常に、行動と言語という、とても曖昧で間接的な二つの選択肢しかありません。そのため社会の一員として十分な機能を果たせていないという、もどかしさをいつも感じています。最後に少し本題からずれて、僕はいつも思うのですが、はたして僕が読んだり書いたりするこの空虚な文字の羅列は、どれだけ人の考えを表現する事が出来ているのやら。そして人間はどれだけ確信を持って、自身の行動と思考を選択しているのやら。 |



