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曖昧な現実


 これは何も今日に始まった事ではないのである。だからこの問題をめぐって何事がおきても、それは驚くべき内容のものにはならない。だが、これは僕の個人的な雑感として、普天間問題に関する様々な立場からの議論の多くは、どうも沖縄県民の本意を無視した形で展開されている感がある。よく聞く様に、この問題は国策だから仕方が無いと言えばそれまでだが、今度の福島の問題にしても、あれは「国策」で推し進めてられてきたものだし、そういう意味で国策は権威としての意味はあっても、正義として意味をなすかといえば、勿論必ずしもそうではない。国策、国策、国策。二言目にはその言葉が出てくるが、そこに県民はどういう形で絡んでいるのか。僕らは国策の内側に住んでいても、国策そのものに対する影響力はないに等しい。そのジレンマが、沖縄の基地問題を余計にややこしくしている。
 
 大体、こうなってくると、民主主義なんて言う言葉の真意自体、僕には欺瞞の様に感じてしまう。今沖縄県民が米軍基地反対の世論を示そうと考えたところで、それは確かに「示す」事はできるのだろうけれど、実際に選挙を用いて国政に意見を反映させることなど、はたして出来るのかどうか。民主主義の本質を否定するわけではないが、何せ、それは完璧なものではない。その民主主義の内側に僕たちは住んでいても、それに対する影響力を持てないのなら、それは民主主義と呼べるのか。民が主導すると書いて民主主義だが、それは実際のところ官に翻弄されてばかりのものではないか。選挙のたびに、国民の責任を政府に押し付ける選択をし続ける事は、民主主義だろうか。
 
 以前読んだ本で、元海兵隊員のダグラスラミスは、沖縄の米軍基地問題は本土の「中途半端な平和主義」によって支えられていると言っていた。文字通り、言い得て妙だと思う。日本人の多くは平和主義者の様にふるまうが、それを民主主義の形として示す事はしていない。現実主義と平和主義、右翼やら何やらが絡まって、結局のところ大して違いないのない二大政党の政治屋にその責任を全て押し付けているのが、今の日本の現状ではないか。鳩山首相の「口約」をめぐって彼が批判されていた時、多くの日本人は彼を選んだのは自分たち自身だという事を、心のどこかで忘れていた。普天間問題の混迷を批判し、沖縄に同情するようなそぶりはみせても、自分たち自身がそれを解決するという気概はなかった。この問題はいつも曖昧にされる。それも、沖縄県民の関わりあいの無いところで。
 
 そういう意味で、今度急浮上してきた嘉手納移設の案に対し、これを現実的なものとして受け入れようとする考え方が見られるが、僕はその地域の住民がそれで良いのなら考慮して良い案だと思う。だが実際のところ、望んでもいない米軍基地を60年間押しつけられ続けてきたあの町は、この案をどう見ているのかといウ点を考慮すれば、それはかなり欺瞞チックなものだと、僕は考える。民主主義という建前のもと、まるで民主主義の進展しない不思議な国で、我々はいつも妥協以外の選択肢を与えられず、それをしぶしぶ選んだ末での、玉虫色の一件落着に行きつくしかない。果たして、それで良いのか。こんな事を言ってしまうと、理想論といわれるかもしれないが、きちんとした理想の無いところには、きちんとした現実もない。今の沖縄の現状が、それを証明していると感じる。
 休日の只中であるこの時間は本来なら、水曜日からの来たるテストに備えて、せめて形だけでも机に向かっていなければならない時なのでしょうが、ここ数日のニュースを見ていると、どうも頭の中で思考の波が蠢いて気が落ち着く様になりそうもないので、とりあえず思った事を書きとめておこうと思います。と言っても、この数日このブログを更新していない間におこった出来事、その中でも記憶に残されるべき出来事というのはあまりにも数がありすぎ、何から手をつけていいのか戸惑う様な感覚があります。
 
 とにかく今問題なのは、今自分のいる環境が偶然に平穏な一方、社会の現象としてある出来事があまりに数的、量的に膨大すぎるがゆえに、その中に自分が組み込まれているという意識をなくしてしまいがちなところです。僕は社会の一員としての自分が思った事を、単純呟こうと思います。

 第一にタイムリーな話題として、浜岡原発の停止ですが、僕はにわかな知識に基づく考えながら、英断だったのではないかと考えます。原発の中でも特に危険な立地とされる浜岡原発に対する不安は、確かに現地の方にとってリアルな問題だと思いますし、原発利権に絡め取られた政治家には出来ない事だったようにも思うからです。この事は、それによって現政権を持ち上げるとかそういう話では無く、情勢に対する評価の表明はあって問題はないと思うのです。しかし僕は同時に現政権に、それ以上の踏み言った対応を期待したかったと思いました。

 次に、ウィキリークスがまたしても暴露した沖縄問題に関するもろもろの記事ですが、この事が今様々な話題に隠れ曖昧にされそうなことに、悔しい思いもありながら、或る意味で仕方ない様な、複雑な気持ちでいます。ビンラディンの殺害に対する感想も同様に、僕個人には少なからず複雑なものです。そもそもの話が、米国の言うテロとの戦争なんて概念自体、本当にありうるのでしょうか。テロが主体的な敵ではなく、地面からじわじわ芽を出してくる雑草の様なものである以上、それを根絶やしにしようとする試みは、有意でしょうか。
 
 結局のところアメリカ、そして人類にとって、最も根本的なところで多文化主義の時代を生き抜こうとする努力だけが、本当の意味で有効なのでは? アメリカのやっている事はテロにテロで報復する行為であって、結局終わりの無い復讐合戦なのでは? 疑問は無尽蔵に湧いてきます。この問題はビンラディン一人が殺されたことで局面を迎えるほど、単純なものでしょうか。センセーショナルなマスコミの報道の裏で、この感覚は実は誰もが感じている事ではないかと思うのですが、はたしてそれはどれだけ、一般に共有された認識としてあるのか。

 そういう点について、僕はいつも、自分の書きたい事を自由に考える事は出来ても、それを実際に文字にし、共有する事が出来ない様な、上手く表現しにくい葛藤を感じています。思った事や考えた事をもっとダイレクトに誰かに伝える手段があれば、世の中もっと手っ取り早く事が進むのですが、人間にとってそのための方法は常に、行動と言語という、とても曖昧で間接的な二つの選択肢しかありません。そのため社会の一員として十分な機能を果たせていないという、もどかしさをいつも感じています。最後に少し本題からずれて、僕はいつも思うのですが、はたして僕が読んだり書いたりするこの空虚な文字の羅列は、どれだけ人の考えを表現する事が出来ているのやら。そして人間はどれだけ確信を持って、自身の行動と思考を選択しているのやら。


  ▼ 学校の屋外活動における放射能安全基準の問題(2)

 内閣官房参与の小佐古敏荘・東京大教授が29日に辞表を提出しましたが,その理由の一が学校の放射線基準を年間1mSvとする主張が採用されなかったことであると報道されています(出所:Yahoo!ニュース)。
 「年間20mSv近い被曝をする人は放射線業務従事者でも極めて少ない。この数値を小学生らに求めることは、私のヒューマニズムからしても受け入れがたい」と話されています(出所:NHK「かぶん」ブログ)。

 年間20mSvという基準の問題については以前の記事でも取り上げましたが,年間1mSvという基準を用いた場合には福島県中通りの小学校の99%がこの基準値を超えてしまい,会津地方であっても72%の小学校が基準値を超えます。


 福島県の子ども達やその親はどうすればいいのでしょうか...


 (グラフデータの詳細説明はこちらの記事)
http://dai1genpatsu.blog60.fc2.com/blog-entry-83.html

『放射能測定値をグラフに!』(2011/04/29)
http://dai1genpatsu.blog60.fc2.com/blog-entry-86.html

≪パワー・トゥ・ザ・ピープル!!
 今、教育が民主主義が危ない!!
 東京都の「藤田先生を応援する会有志」による、民主主義を守るためのHP≫

転載元転載元: 今 言論・表現の自由があぶない!

〈日記〉 遠足。


 今週の金曜日は学年行事の遠足だった。楽しみにしていた行事といえばそうだけれど、高校生にもなって、いささか子どもっぽ過ぎる様な気もする。オキナワの四月は感覚から言えば、殆ど夏の様なものであり、遠足先のビーチでは、太陽がさんさんとして異様に眩しく感じた。海はサンゴの途切れる辺りからエメラルドグリーンと濃青の二色に綺麗に分かれて、殆ど自然そのものといった色に彩られていた。思わず綺麗だねーと話をしていたら、座間味村出身の友人曰く、離島の海の純度に比べればあれでもかなり濁って見えるらしい。とっさに、沖縄本島の海岸はきれいだとよく言われるけれど、それでも随分開発が進んでいるのを思い出した。何も手を加えられていない海は、本来それほどきれいなものなのだろうか。
 
 ところで、この離島からやってきた友人なのだけれど、彼女は話をしてみると実に聡明な人だ。クラスメイトの割に日頃は図書館でしか会わないけれど、昨日はお互いかなり暇を持て余していたので、随分長い間話をした。日差しが強すぎる、クラスメイトが快活すぎる、RADWIMPSの「狭心症」は良かった、その他込み入った話云々。それからブログで原子力について取り上げたいという話を経由して、原発近くの被災地からトラックで逃げ出した自衛隊員の話になる。彼女いわく、あれは責められない、自分は理解できるとの事。さらに踏み言って、政治家には被災地に行って指揮を執る人なんていない、ともいう。そう言われると、全く一理ないでもない。
 
 遠足が終わるころには、これ以上焼けようが無いと思っていた肌が真っ赤に焼けていた。考えてみれば、太陽光の力は強い。海風だって強い。原子力の力には到底及ばないのかもしれないが、僕らが言った西原のビーチのすぐ近くにある知念村でだって、大きな風車が二機、ぐるぐると回っていたし、採算が取れないのならともかく、作ることに意義があるものなら、二つ作れて三つ目が作れない理由というのも見当たらない。浦添には、まるで箱モノランドとしか形容しがたい大公園がある。同じ場所に違う展望台を二つ立てる事より、三つ目の発電機を作る方がはるかにましな予算の使い方であるという事は、僕にだってわかる。世の中そんなに簡単なものではない、といわれてしまえば、それまでなんだろう。しかし、それにしても、色々な事を考えた。
 

これからの課題


 何か書きたいとは思っているのに、なかなかパソコンに向かう気になれない。最近ご無沙汰している数週間の生活は、どうもそんな感じだ。だが或いは、それはむしろ、僕自身にとっていい事なのかもしれない。仮想空間での言論が生活に占める割合の低下は、そのまま復学後の生活が充実しているということの裏返しとなるし、実際、生活は冬頃よりかなり良いものになっている。この島には、そもそもとける為の雪が無かったのだけれど、それは文字通り春の雪解けの感だ。こうなると、悩みに悩んだ末に何一つ前進しなかった昨年一年間が、馬鹿みたい思えてくる。
 
 もっとも、実生活のぬるま湯につかった事で社会に対して興味を失ったのかというと、それはそうではなくて、新聞やニュースサイトはまるべく読むようにしているし、頭の中では自分なりに物事を考え続けている。去年受けた授業のなぞりがき、年初めの恐ろしく初歩的なところから始まる数学や世界史の授業などになると、殆どうわの空で話を聞き流しながら、考えているのは全く別の事。沖縄市で交通死亡事故を起こした海兵隊が、公務中であったがために日米地位協定に従って不起訴になった。宜野湾市は基地内の米軍住宅を被災者の住宅として提供しようと主張している。内地のメディアではこれを、どういう風に報じられているだろうか。ここのところの原発報道を見ている限り・・・僕は正直、余り期待していない。
 
 福島の事故も沖縄の問題も、本来なら他の地域の人々にとって他人事でいられるものではない。原発の問題に対して日頃無関心な暮らしをしていた多くの国民は、今それ思いを知らされているはずなのにと、僕は思う。復学してまず最初に思ったのだけれど、僕たちの日常の生活と社会の問題との間には距離がある。その為に、人間は日頃社会の矛盾を無意識に許容する。無意識のうちに世界は周り、それはあらぬ方向をめぐって、そして最終的には僕たちのところに帰ってくる。その状態が変わらなければ、未来に希望の光は灯らない。
 
 今度の一件を受けて、フランスでもスイスでもドイツでも、原発反対派が盛り上がり、韓国や中国は日本国民以上に、放射能に対し強い反応を示しているらしい。はたして彼らが異常なのか、僕たちが異常なのか。日常を生きていきながら、社会の物事を考える事も両立しないと。それが、僕のこれからの課題になるだろう。

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