後から決める。

当ブログの運営方針について、後日何らかの指針を示すつもりでいます。

どうでもいい話。

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季節の節目などでの挨拶や、社会問題系のカテゴリーに属さない内容の個人的意見です。
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大人の皆さまへ。

16歳の秋。人生で初めてある国語の先生に、文章を描く力を褒められました。
それ以来、ネットという架空の媒体で大人のまねごとを初めてみて、一年ほどたちます。
 
その間様々な人達に出会い、優れた経験を積む事が出来たと考えますが、
本当の意味で気付けた事と言えば大まかには二つだったと思います。
 
良い事が一つに、悪い事が一つ。悪い方から先に言ってしまう事にしましょう。
 
悪い事とは何か?
「大人って案外ろくでも無い生き物だ。」
 
良い事とは何か?
「それでも子供よりはマシ。」
 
大人という生き方に囚われて生きている子供こそ大人、もっといえば、まるで大人という様な顔をして生きる事を覚えた子供が、大人なのだと、実感として感じています。逆に言えば子供の僕でも大人のまね事を出来るし、もっといえば、大人のふりをしていても、その人物の心は子供なのかもしれない。年齢とは単に記号であるという説がありますが、ある程度的を射たものである様に思います。
 
偉そうなことを言うけれど、大して考えては言っていない。
難しい言葉を使うけれど、決して経験的な物ではない。
 
結局のところ、この国に本物の「大人」はどれだけいるのでしょうか?。
僕は自分が子供である事を認識しているし、だからこそ大人としてふるまえるようになりたいと考えます。
僕は本当に大人として生きている人、また、そうあろうと努力する人とだけ、付き合っていこうと思います。
 
良識ある社会人の皆さん、これからも末長く、
「後から決める」と、T・Iを、宜しくお願いします。

気になって仕方がない

 
どうでも良い話。
 
沖縄県知事選が近づいている。その事自体は勿論全くどうでもよくない。僕にとっても日本国にとっても、重要すぎるほど重要だ。だが、一つ僕にとってものすごくどうでもいいが、気になる事・・・
 
・・・某宗教政党(新興の方)が、沖縄県知事選に候補者を擁立している。
 
 
・・どうでも良い。すこぶるどうでも良い。だが、僕の記憶が確かなら、彼らは先日の参議院選挙の時から殆ど絶え間なく政治活動を続けているようだった。地方、国政、あらゆる選挙において国内で殆ど支持を獲得していない彼らだが、彼らのそのあくなき執念と、何より財源はどこから湧いてくるのか。僕は気になって仕方がない。
 
先日那覇の町に出かけた時には、その間の行動で何度彼らの系統の団体の活動ポスターを見かけたか分からない。尖閣諸島を守れと主張する活動員に、ビラを半ば強引に手渡された事もある。外出の少ない自分の経験に基づいての感想だが、彼らの活動やポスターを街で見かける割合は、同じく県知事選に出馬を表明している現職仲井真知事、新人伊波候補の活動に勝るとも劣らない。彼らのバックの団体はよほど資金に恵まれているのだろうか。
 
そして今日も、久しぶりに宜野湾の町を歩いていると、街のいたるところの電柱に彼らの系統の団体のシンポジウムのポスターが張ってある。それも「平和シンポジウム」と銘打っているあたり、苦笑するしかないが、何度もそのポスターに自然に眼が触れるうち、はっと気付いた。
 
・・・このシンポジウムのメインゲストの大学教授。惠隆之介さんだ。
この男、いつから拓殖大学客員教授などという肩書を獲得したのだろうか。
 
(一年前の未熟な記事ですが、参照)
 
 
・・・気になって仕方がない。

「賢さ」

 
 
人を軽蔑する人間に、賢い人間はいない。本当に賢い人間は、むやみやたらに人を見下さないものだから。
 
 素直に生きる、正直に生きるというのは、あれは一種、強烈な色彩を持つ才能であったと思うのです。そして、これは僕が今、もっとも率直に欲している才能であるのだと思います。文章なんていうのは、暫くは書けなくても困らないのです。今のところは、自分自身の生きていく上での逃げ道として、何かと文章に関わる事を趣味にしていますが、そういった形での「虚勢」を張らなくとも、涼しい顔をしていられる人間というのが、僕の本当の意味での究極の理想です。賢いふりなら誰にでもできる。ただ、本当に賢い人間になろうとすると、これはどうも、今の社会の大層なお偉いさん達でも、一体どれだけいるのかのか分かったものではない。素直に生きていて、なおかつ、クレバーであり続ける。賢いふりをしなくても、人から尊敬されるような人になりたいものです。
 
 そのためには、一体どうすればよいのか。人間が尊敬される為には、まず、他人を尊敬しなくてはいけないのではないかと、自分はそう思っています。誰も尊敬できない程、偉い人間というのは、世の中には本来、一人しかいてはいけないはずなのです。要するに、この世の中で一番頭が偉い人間の事ですが、しかし、世の中を見渡せば、あたかも自分が一番賢いという様な顔をしている人間の、存外に多い事。これには、閉口するしかありません。「良い立場にいる人間」、或いは「偉そうな人間」というのが、必ずしも人として偉いわけではない。人を見下すばかりの人間に、人間の上に立つ資格などあるものか。人間を高い視点から見て、それでいて、その人物を適当に評価できる人間でなければ、それは、賢い人間であるとは言え無いように思います。そして、そういった賢明な人物というのは、実際にはそれほど多いはずがないのです。そういった意味で、昨今、人間を見くびった様な「偽物の賢さ」が、あまりにも高く評価されすぎているとは言えないでしょうか。
 
 
 
 
PS.
以前より随分マシですが、まだ、あまり調子がよくありません。
暫く、以前のような形式での、文章を書く事はないかと思います。
 
 

ひとまず

イメージ 1
一応の、「復活」です。
 
とはいっても、風邪の様なものです。そして、一般に夏の風邪は長引きます。
もう少しだけ、調子が戻るには時間がかかると思います。常々、身勝手な事ばかり言ってしまって申し訳ありません。ただ、久しぶりに書きたい衝動にかられたものですから、とりあえずと思って、ブログ更新しておくことにします。(ちなみに写真にとったのは、一昨日、宜野湾市の住宅街上空を飛んでいた軍事ヘリですが、まあ、いつもながら飛行高度が低いです。当たり前の事ですが、普天間基地の移設問題が騒がれている今まさにこの瞬間でも、彼らの訓練活動が収まるという事はありません。むしろ、去年の今頃よりもひどくなっている様な気さえします。)
 
 
 ブログですが、今日、久々に自分の書いた記事を読み返してみると、文語体、「である。」調の文章の羅列に、思わず苦笑いしてしまいました。というのも、随分長い事更新から遠ざかって、いまさら自分の文章を読みなおしてみますと、あまりにも文章が尊大すぎていて、気恥ずかしい気分です。それも自意識過剰ということになるのかもしれませんが、自分はここのところ、自分のやる事に、滅法自信が無くなりました。誰かに励ましてもらおうと思っているわけではありません。ただ、これまではどこか、自分も男だから、気取っていたようなところがあったのでしょうが、そういった部分をさっぱりそぎ落として、今は、ネット上でも、実像相応の謙虚さを持っていたいなあと、思っている次第です。ですので、もうしばらく、ずっと以前の様な、のほほんとした惚けた調子のブログが続くかもしれません。まさか期待されていた方はいないと思いますが、ご容赦を。
 
 それから、なぜまた更新したかというと、近況報告の意味合いです。ある先生に言わせれば、自分たちの年代は「細胞分裂まっただ中」であるだそうですが、自分も、今年には言って、色々と自分の考え方の部分が変わって行くな、という実感があって、急に大人びて成長した様な、或いは、ひょっとすると退化した様な、そんな不思議な気分です。変わっていく、というのは、政治的な考え方が変わった、とかいう意味合いのものではなくて、どうも、少しずつ、人間性が変わりつつあります。よく、夏休みが明けたら外面的にも内面的にも全くの別人になっていた、という様な人間がいますが、自分もどうやらあれになりそうです。例えば、顎ひげを伸ばそうかなぁなどと、それまで考えもしなかった事を考えたりしています。勢い余ってグレなきゃ良いが。
 
 
とにかく、今日のところはこんなところです。
馬鹿みたいな記事で相すみません。
 
 
 最近、これからの時期にシーズンを迎える小論文を書く事に挑戦しているのですが、実際に書いてみると、文字数や題目などに制限のある小論文は、ブログ等で自由な視点から記事を書くのとはまた違う難しさがあり、なかなか思うようにはかどりません。今回ここに載せるのは失敗作でしたが、一度書いた文章を何にも使わないというのは、勿体ない様な気がしたものですから、一応、取り上げさせていただきたいと思います。出来れば、忌憚の無いご意見・ご感想の程頂ければ、幸いです。
 


題目「ゆとり」 文字数制限1000文字
 
 世の中の発展は、人間が切磋琢磨して競争する事によって成り立っている。その事は、人間が常に、他人よりも裕福に、他人よりも幸せにというようにして、他人に対して相対的に優れた人間になる事に執着して生きている事からも見て取れるだろう。勿論、何を以て幸せとするのか、どんな大学が良い大学なのかという事は、本来なら人によって見方がまちまちで、統一された価値観の物差しなど存在していないはずなのだが、お金や偏差値という社会的に統一された指標が、事実上、価値観の物差しの代用品として働いている。そして、この競争の活力こそが、今の人間社会を発展させる原動力となっているのだ。
 
 しかし、私はこの競争社会の性質は、人間社会を便利にし続ける一方で、人間の持っていた「ゆとり」の部分を、損なわせているように思う。人間社会は競争によって急速に便利にこそなっているが、一方で、人間の持つ本当の価値観、本当の幸せの意味が見失われてはいないだろうか。日本の社会は戦後急速に豊かになったが、日本人の心が豊かになったとは限らないように、お金等、人間の幸せの価値を計る指標としてはあまりにも不十分であるはずだ。偏差値にしてもそうである。勉強は大事な事でも、学校という機関のなすべき意味はそれだけではない。しかし、競争社会において、競争を伴わないゆとりのある幸せは、あまり尊重されない。競争は人を物質面で豊かにしたが、しかし、その一方で、人間のもっと本質的な幸せを見失わせてしまった。
 
 人間社会は競争によって今まで急速に発展してきたし、そして今後とも発展し続けるだろう。しかし、人間の喜びとは本来、競争によって生み出されるものばかりではない。他人と競うことなく、他人から奪い取ることなく得られる幸せ、ゆとりのある幸せというものというのも、確かに存在していたはずだ。お金や偏差値といった幸せを達成するのも結構だが、しかし一方で、人間が古来より守り抜いてきた幸せが損なわれてしまったとすれば、それは本末転倒である。むしろ、そのような社会においては、お金や偏差値によって人間がコントロールされているという方が適切なくらい、人間の本質が損なわれてしまっている。人間は競争によって、短期間においても進化できる偉大な性質を持つ生物である。しかし一方で、それに対して抗い、自らのゆとりを保護する気概というのも、今、人間に求められている事ではないだろうか。
 


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