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ツールについて

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人間が利便性を求めて道具を作ったのに、今、人間が道具に振り回されてはいないだろうか。便利になった今だからこそ、道具に頼らない考え方も必要なのではないだろうか。そんな考察です。
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ツールについて(7)

 
 私たちが生きていく上でもっとも重要な意味を持つものとして、「幸せ」という考え方がある。それはどのような人たちにとっても、共通して手に入れがたい物らしい。しかし一方でそれは、この星に生きる全ての人たちにとって、平等に実現可能な性質を持つものだ。何と言っても、「幸せ」は、人間各人の個性が十分に反映されるべき概念であり、その定義は本来ならば、人によって異なるものである。だからこそ幸せは、全ての人が奪い合うことなく、分け合う事を許されるのだし、また、理想としては、そのような社会が最も望ましいと考えられるべきだろう。
 
 さて、人間の欲望が転化されたもの、すなわち「ツール」の存在が、生活のあらゆる場合においてありふれている今の世の中で、一見すると幸せの実現は、かつてツールの存在が今に対し相対的にわずかであった時期に比べ、はるかに容易いものになっているかのように思える。実際、もし、欲望の達成の度合いが人間の幸せを図る指数であったとすれば、その考え方は間違っていなかっただろう。しかし現実の世の中を見るとどうだろうか。今の世界にはツールがありふれているが、本当にそれだけが人間にとっての幸せであるとは言えないだろう。僕は、実はこうした現実は、ツールが自らの矛盾を垣間見せている点であると思う。
 
 物質的にも精神的にも社会的にも、これだけツールが充実している今の世の中において、人間が必ずしも幸せを獲得できない本当の理由とは一体何なのだろう。これも幸せ同様、人によって考え方の異なる部分ではあるだろうが、僕は、そもそも「幸せ」という概念が、必ずしもツールの充実と比例するものとはいえないものだったからではないかと考えている。やはり、人間にとっての幸せとは、ただツールの充実を意味するだけの単純なものではない。だからこそ本当の「幸せ」とは、誰にとっても獲得しづらい、非常に厄介なものだったのではないだろうか。しかしツールは、一般的に統一された幸せの指標という、明らかな幻覚でさえも、ある意味もっとも「彼」らしい、そしてもっともらしいツールの一形態をもって作りだそうとする。それこそが、貨幣と呼ばれるツールだった。
 
 貨幣はあらゆるツールの中で、その象徴的な役割を占めている。なぜなら、貨幣は物質的なツールであり、物質の形をとった全ツールの存在意義の根幹をなしているものであると同時に、使いようによっては、社会的、精神的な部分に対してさえも使用しうる万能のツールであるからだ。言わば貨幣は、ツールの中でも心臓の様な役割を果たしており、そして、時にそれは、人間の幸せさえも冒涜するものとなる。しかし人間の多くの人たちは、その危険性を分かっていながらにして、その放棄を望まない。そうすれば私たちは貨幣と共存せねばならないだろう。そして、その事は貨幣が、人間自身の内面から生み出されたものである事と無関係ではない。私たちは今後、このツールをいかに上手に使い、その暴走を防ぐかという点に力を入れていかなくてはならない。
 
 私たちとツールとの関係は固定化されてしまっている。私たち人類がどれほどツールをめぐった仲間割れを繰り返そうと、私たち人類自身が滅びない限り、ツールという概念の生み出す様々な弊害が滅びる事はないだろう。しかし、私たちの進む事の出来る道はそれだけではない。むしろ、自らの欲望が生み出した産物、ツールに抗いながらもそれと共存する道を選ぶ方が、私たちにとっては利益になる事であり、はるかに現実的な道ではないだろうか。私たちは、さらに慎重になってツールを扱わなくてはいけない。そして、そのためにも私たちは、ツールと幸せを混同せず、私たちそれぞれの幸せを、独自に獲得する努力をして行く必要性がある。
 

ツールについて(6)

 私たち人類とツールの関係とは、原始、とても従属的な性質をもったものであったように思う。生き物である人間と、そうではないツールとの間の、その立場上の優越があまりにも明確であったためである。人間はその後、ツールを使い続けることによってその欲望を充実させ、また、急速に自らの社会を発展させていく一方で、ツールの持つ能力もまた、急速に優れた、人間味を帯びた性質のものになっていった。もっとも、ここで言うところのツールの持つ人間味とは、外見上だけの物に過ぎない。それは、一体なぜだろう。答えは極めて単純だ。なぜならツールには心がない。人間が自らの心と定義し、生きて行く上でのよりどころにしている部分が、人間の中で、最も人間的であるといえる部分が存在していない。その一方でツールは、その発展につれて、必ずしも人間自身の本質に対し、従属的な物ではなくなっていった。むしろ、人間に「従属」ではなく「対応」するもの、すなわち人間と同等か、それ以上の価値を持つと評価される物になってしまった。
 
 ツールは人間社会のあらゆる部分に、あらゆる形態をとって押し入ってきた。そのツールの定義とは、もう何度か指摘してきたように、人間自身の欲望によって形作られ、現実においてその欲望に対応しようとする、自然界においては非常に不自然なものの事である。それは、形の有形無形を問わない。人間自身の欲望という共通の動機をもって生まれ、人間と並ぶ社会の構成要素としての、共通の性質をもつものを、僕はツールと呼べるものだと定義する。したがって、ここで人間のあらゆる部分に侵略してきたツールというのは、必ずしも、携帯電話やインターネットや自動車や機械といった、見た目で分かりやすい物ではない。それは、例えば言葉であったり、例えば社会的な慣習であったり、例えば、国家に対する帰属意識であったりというように、精神的・社会的な、見た目には表されない性質のものであっても、確かにそう呼べるものである。
 
 これらのツールは、例えば精神的なものにおいては、人間の心に直接干渉してくる概念である「言葉」であったり、「イデオロギー」であったりがそうだろう。また、一見すると、これに含まれてもよさそうな概念である「愛情」についてだが、僕はこれについては、決してツールと呼べるものであるとは思っていない。愛情まで「モノ」であると感じるようになってしまってはいけない。それは、人間の根本的な性質であって、また、極めて自然にありふれているものだ。しかし、ある場面においては、精神的なツールは、この人間の最も重要な部分にさえ、土足で干渉してくる。愛情の意味が様々な形で、例えば暴力的な意味にはき違えられてしまい、そういった「不自然な暴力」というツールの抱える問題が、特に若者の間で深刻な社会問題となっている事は、昨今、周知の事実だ。また、宗教についても同じことを言わなくてはいけない。勿論、人間の文明にはツールが絶対に必要であり、それは否定しようがないのだが、宗教は、あくまでツールであり、人間自身の心の外からやってくるものだ。それには当然、少なくない危険が伴う。特に日本においては、オウム真理教の起こした数々の事件が、その教訓になっていると思う。
 
 ツールは先にも述べたように、我々の生活に密着している。だからこそ、ツールの全廃は不可能であって、またそれをしようと望む人間はほとんどいない。しかし我々は生まれながらにして、ツールに囲まれた環境の中で暮らしており、また、そのツールが未だ膨張の途中にあるという事を、我々自身が認識する必要があるのではないだろうか。人間の社会は今後発展を続けて行くが、その一方で人間のツールの対する依存度は同時的に強まっていく。我々はもはや、自分たち自身の欲望の産物に虐げられて生きていくだろう。

ツールについて(5)

 
 ツールという言葉は、一般的に使われる意味合いのほか、例えば「コミュニケーションツール」等のように、物質に限らず非常に広い意味で使われている。これは、ツールという言葉が人類の生活にそれほど密着しているという事であり、また、人類の生活がツールなくしては成り立たなくなっている現状を反映しているものだ。ツールの定義とは、人間の欲望が転化され形作られたものであり、また、人間に直接影響を与えるものである。これらの条件さえそろっていれば、仮にそれが物質であろうと、言語であろうと、或いは社会的慣習や制度であろうと、全てツールであるという事が出来る。
 
 しかし、ツールは人間に利益をもたらす一方で、人間社会の弊害でもある。我々はツールを通して利益を獲得する際、弊害であるツールの一面から発生する不利益を、必ず同時に被っているはずだ。世の中の物事は基本的には等価交換だ。何か便利なツールが作られた、利益が得られたという事は、一方では、それと同時に何らかの弊害が生まれているものだと考える事が出来る。思えばきわめて原始の時代、そもそもの人類が発明した最も初歩的なツールである石器は、狩猟・採集を助けた一方で、人間の最も愚かな性質である、戦争の発生に大きな役割を果たしてきたのだ。また、あらゆる自然的なものが数少なくなり、人工的な概念であるツールが非常に発達した現在には、我々あの身の回りを取り巻く様々な問題は、大概ツールに由来するものとなっている。
 
 さて、先述したように、世の中には様々なツールがあり、ツールという言葉は広い意味で使われている。しかし僕が考えるに、ツールとは、人間の欲望の達成という一つの動機の元に作られたものであり、あらゆるツールは一つの概念の構成部分だと考える事が出来るものだと思う。そして現在人類は今のところ、このツールには三つの面がある事を、確かに理解している。そのうちの一つは、言うまでもなく物的なツールだ。いわば、三態で言うところの「固体」に当たるだろうか。続いては、イデオロギーや言葉などの精神的なツールである。これは空気の様に確認しにくいものであるという点から、例えるならば気体といえるだろう。そして最後に社会制度や民主主義などの社会的なツール。これは、物的なツールと精神的なツールの中間にあるという意味で、液体であると例えたい。
 
 固体、気体、そして液体の三つは、一見すると全く異なる概念であるように思えるが、実際にはこの世界を構成するこれらの物質が、人間にとっては全く異なって見えているというだけの事にすぎない。質量保存の法則がある以上、この三態の総合計は常に全宇宙において同じであり、実際には全く一つの「物質」という概念が、様々な形態をとっているだけの事なのだ。ツールについても、これは全く同じである。ツールは様々な意味で使われる言葉ではあるが、そられの様々な概念は、実はきちんとした法則性の上に成り立っている一つのツールの構成体にすぎない。空間軸において、それらがあまりにも離散している為、人間にとってはそれぞれの異なるツールに見えているが、恐らく実際には、ツールは一つの概念としてまとめ上げる事が出来る。
 
 

ツールについて(4)

 
 人間社会はこの数百年のうちに、医療・工業・社会・政治などのあらゆる点で、これまで見られなかったような爆発的な変化を遂げた。これは一方では、近代化にともなった人間社会におけるツールの需要が、極めて急速に高くなった事を意味している。近代化は、世界中の殆どの人間をつなぐネットワークを構築し、また、全ての人間を国家という枠組みの中に組み入れることで、社会的な意味でのツールを全世界的な規模のものにしたが、一方で、それまでの人間社会にあった、何か「人間的な良さ」を失わせた面もあった事だろう。いずれにせよ、近代以降の人間社会では、それまでとは全く違うツールの仕組みがあてはめられた。
 
 人間は、自分たちの欲望を道具(ツール)に転換し、それを自らの生活に役立てるという能力を持つ。そのため、自分たちの欲望に沿わないツールはこの社会において作られないし、全てのツールとは、人間の欲望から生まれたもの意外にはありえない。僕が思うに人間は、それまでの社会にあった生きる事の意味を、国家や経済などの社会的なツールを取り入れることによって、自らの欲望の達成というシンプルなものに置き換えてしまったように思う。近代化は、人間の生きる動機を非常に簡単なものにしてしまったのではないだろうか。そういった考え方は、かなり古くの時代から存在しただろう。しかし、それを全世界的な共通の概念にしてしまった原因は、やはり近代化にあったように思う。
 
 近代化を通して、人間の欲望はより達成しやすいものとなった。その一方で、人間の、人間自身の欲望に対する精神的な依存は強まっていくし、今後ともこの傾向は、より強いものとなり続けるに違いない。新しいツールが次々に発明され、人間の欲望の新たな発揮のしどころは生み出される。これは、人間自身が欲するそれ以上に、ツールが充実してきたという事だ。しかし、僕はここで一つ、新たな疑問に直面する。ツールは我々の欲望のために生み出されたものだ。言葉・財産・政治・宗教・・・それらは、我々のためにあったはずのツールだ。しかし、今の世の中の仕組みにおいてはどうだろう。我々の欲望とツールの関係が、逆転しているというふうには考えられないだろうか。
 
 我々は広告等を通して、次から次にあらゆる物質的なツールの宣伝を刷り込まれる。選挙前になると、社会的なツールに関わるものさえ、果敢に宣伝されているくらいだ。所詮、人間は衣食住揃っていればそれで十分生きていけるはずなのだが、結局周囲の人間が全てこうした広告に影響されることによって、我々は、我々が望んでいるわけでもない商品を買話ざるを得なくなり、また、我々が望んでいるわけではない政治家が当選したりする。この世の中において、本当に我々のために経済や政治家があるのだろうか。いや、とらえようによっては、経済や政治家のために我々がいる、そんな世の中になってはいないだろうか。
 
 今、人間と道具(ツール)の立場が逆転している様に思う。本来なら、経済は人間に尽くすためにあり、政治は政治家以外の人間のためにあるべきだ。しかし、近代化が進むにつれて、その立場はひっくり返ってしまっている。我々は物質的には極めて豊かなになったし、また、成長もしたのだけれど、今度は、我々人間自身の欲望をコントロールできなくなってしまっているのである。近代化に伴い世の中が便利になる一方で、、我々自身が我々自身の欲望によって、コントロールされるようになってしまっている。少なくともその事は、一つの考え方としては、確かな傾向ではないかと、僕は推測する。

ツールについて(3)

 
 僕の考えるツールの問題点とは、人間が利便性を追い求めて創造したツールが、事実上、人間を必要以上に振り回し、また、ある分野においては、人類の手に負えないほどの規模のものにまで育ってしまっている事にある。我々人類とツールとの間の乖離とは、我々人類の根本的な能力が衰えているという事であり、ツールの存在が、人間の持つ本質を脅かしているという事だ。人間はもはや、社会や言葉といった自身の欲望の創造物を、自分たちの手のうちに抑えられない状況にある。事実上人類の欲望は、人間の本質のその上に存在している。
 
 
 軍事力を重視するあまり、育ちすぎてしまった軍隊というツールによって、必要とされない戦争が起こされる。或いは、金を重視するあまり、多くの人々が、本来あるべき幸せの定義を見失ってしまっている。こうした社会的な矛盾は、人間社会の抱える皮肉としか言いようがない。そして、そうした皮肉の根本には、やはりツールが存在している。太古の昔を生きた人類にとって、平和ほど望まれていたものはなかったはずである。そして、幸せほどはっきりと見えていたものはなかったはずだ。はっきりとしていた人間の欲求を、侵害したのは、社会的な発展であった。人類の欲求こそが、人類の尊厳を破壊しているのではないか。
 
 
 欲求は、道具(ツール)という形をとって社会に発揮される。当初、それは人類の役に立つもとして生み出されたのだろうが、その発展に伴いある段階から、ツールは、平和や幸せといった人間の本質を侵害していく様になる。本来人間は、全地球に影響を与える能力を持つ生物として、自らの欲求を常に冷静にコントロールすることが求められているはずなのだが、我々はあらゆる分野において、過去にそれを怠ってきた。今世界で問題になっている地球温暖化などの諸問題等はその代表的な例で、我々はこの問題の行く末を、今現在、冷静に見る事が出来ていながら、その解決に向けて全力で取り組むという事をしていない。環境問題の深刻さを、自らの叡智によって理解していながら、なる様になるさという様な態度を決め込んでいる。全く、人間というのは、人間自身の欲望以外のすべてのものを破壊するだけの潜在的な能力を持っているらしいという事がわかったにも関わらず、である。
 
 
 人間は、太古の昔から自然によってはぐくまれてきた。今、その人間は、自らをはぐくんだ自然に対して、とてつもなく失礼な態度で対応している。進化という自然のもつ欲求を、人間という生き物の欲求に重ね合わせて考えてみたとき、人間は、自然の生み出したツールだと言えるかもしれない。そして人類もまた、自然と同じように、ツールによって自らの本質が破壊されつつあることに、気付くべきだろう。
 

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