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コップの水で世界は洪水だ
すこしく斉藤文春のお面をかぶったまま“文春ダンス?”がつづくのですが…(写真上)。とつぜんホイッスルが鳴ると同時に、ステージから俳優たちはあわてるように去っていきます。
ここからがカクテル・ポエムの始まりです。曲が変わると、俳優たちは全員、水の入ったコップを持ってひとりずつステージに登場します。
さまざまな格好で。それぞれが自由に、リズミカルに。楽しそうに歩いて来たり、またはスキップを踏みながら、水を飲みほしていく。お互いに話しかけたり、ほほ笑んだり…(写真中)。
水を飲み終えたところで、全員、ストップ・モーション(写真下)。
ストップ・モーションのまま、秋亜綺羅(左端)が観客に語りはじめます。
秋亜綺羅
こんにちは。秋亜綺羅といいます。
ステージでストップ・モーションをして頑張っているのが、現代美術の破壊工作集団
I.Q150です。
きょうは、丹野久美子さんの許可をもらって、I.Q150のみんなと遊ばせてもらっています。作を丹野さんとわたしの共同ということで。演出はもちろん丹野久美子です。
いまのシーンのために書いた、わたしの台本はこうなっています。
『──俳優全員が一個ずつコップを持っている。コップには水が入っている。さまざまな格好で。ひとりずつ自由に、リズミカルに。楽しそうに歩いて来たり、またはスキップを踏みながら、水を飲みほしていく。お互いに話しかけたりしてもいい。
だが、それは現実原則において水なのであって、ステージの上の俳優にとっては、ただの水であるはずがない。
ある俳優は自分の「将来の夢」を飲みほす。ある者は「海」を飲みほす。ある者は「記憶」を。ある者は「歴史」を。世界じゅうのあらゆる「音」を。世界じゅうのあらゆる「ことば」を。世界じゅうの「匂い」を。「光」を。「闇」を!
──全員、ストップ・モーション。』
というわけで…。いま、IQ150の俳優たちは、それを演じてくれていたわけです。
詩の朗読のテキストだろうと、演劇の台本だろうと、観客のためにあるのではない。というのがわたしの考えです。楽譜を観客に押しつける音楽会など、あり得ないのと同じです。詩のテキストは詩人自身のために。演劇の台本は役者とそのスタッフたちのためにあります。
演奏会で観客が聞きたいのは楽譜ではない。音楽です。劇場で観客に見てほしいものは台本じゃない。演劇です。詩の朗読で観客に見てほしいものは活字という「道具」じゃない。詩! という名の「事件」です。
では、台本を続けます。
『カラになったそれぞれのコップを持って、ある者はコップを北朝鮮まで投げつける。ある者は海をひっくり返す。ある者はコップに幸福を飼育する。ある者はコップで観客のひとりを殺す。……』
ということになっています。
では。IQ150のみなさん、つづけてください。
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