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●●●「季刊ココア共和国第5号」のおしらせ ●●●
こんにちは。秋亜綺羅です。 日本を代表する詩人のひとり、谷内修三(やち・しゅうそ)が、一般の方に向けて 「現代詩講座」 を開くそうです。 「詩は気取った嘘つきです。いつもとは違うことばを使い、誰も知らない 『新しい私』 になって、友達をだましてみよう」 という、谷内なりの一般向けに発した、キャッチ・フレーズが印象的です。
ブログはもともと 「日記」 なので、ブログの多くの詩人たちは、日常を楽しむために、自分の生活や心情を嘘をつかずに表現するものが詩である、と考えているようです。そういう意味では、詩は嘘つきです。 といった、谷内のことばは衝撃といえるかもしれませんね。
つまりは、「詩は、日常でも生活でもありません」 と、いえるでしょう。生活でじょうずにことばを使うのは、そろばんや計算機を使いこなすのと同じです。日常の買い物などで、とても役に立ちます。 だけど、そろばん日本一は、数学者というわけではありませんよね。そして、日本一の数学者が、買い物じょうずとは限らないことも想像できます。
日記を行換えすることで、詩としてブログを楽しんでいるのはとてもいいことだと思います。 でもふと、生活ではなく、ことばでの表現そのものに興味を持ってしまったとき、現代詩に目覚めてしまうのでしょう。 買い物にはさっぱり役立たない、数学に目覚めちゃうわけですね。
谷内修三の講座は、福岡なのでちょっと、遠いな。
お近くの方、ぜひ。 おすすめです。
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詩ってなんだろう
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こんにちは。 秋亜綺羅です。
しばらくブログに近寄っておりませんでした。
ここ、2週間のあいだに東京へ行って、宮内文子の写真展を観てきたり、仙台へ戻って胡弓という楽器の演奏と詩のコラボをしたり。 小鹿夏と組んで、詩画も2点ほどつくったりしています。 小鹿とはまた、アーティストの六九狂ヴィヴィアンと、アニメ編集者の對馬妙子といっしょに、アニメ作品をつくることになっていて、わたしもそこで詩を担当します。 雑誌などの原稿締切りもたまってきちゃいました。 「季刊ココア共和国」 第6号の編集も始まっています。 で。 「季刊ココア共和国」 第5号に書いている石井萌葉と、藤川みちるの詩を、詩人の谷内修三が、自身のブログで批評をしてくれています。 日本を代表する詩人のひとりである谷内が、ふたりの作品と本気で向き合ってくれています。
ふたりに限らず、ブログで詩を楽しんでいるひとはたくさんいます。 ふと 「詩ってなんだろう」 なんて思ってしまったとき、ちょっとヒントになるかもしれません。
というわけで、谷内修三の批評を(無断で)転載しちゃいました。
【以下引用】
石井萌葉「返り血アリス」、藤川みちる「this world」
(「ココア共和国」5、2011年01月01日発行)
谷内修三
石井萌葉「返り血アリス」はことばが軽い。そして速い。もっともその速さは短距離競走のような速さではなく、肉体の中からあふれだしてくる若さによる速さである。歩きはじめると、楽しくて自然に足が速くなる。目的地も、歩く意味もわからない。けれど、自然に動いてしまう。そんな具合に、ことばを書くと、自然にことばが速くなる。
チェシャ猫まぁなんて貴方は
救いようの無い馬鹿なの
何時間、何千年こんな所に
居座ったってね
アタシの求める世界には
絶対にならないわ
真実を確かめる旅に出るの
嘘、誘惑。そんな話術は必要ないわ
毒、罠。そんな小細工はめんどうでしょう
「チェシャ猫」から「アタシ」への移動がとても速い。猫を放り出して「アタシ」が動きはじめる。「アタシ」は猫じゃない。だから「こんな所」に居座ったりはしない。「旅」に出る。
でも、どこへ?
これは野暮な質問である。
「旅」と決めたら、部屋を一歩出るだけで旅なのだ。それは幼い子供が「家出する」と思って少し遠い公園まで行って、それから帰ってくるのとおなじである。距離も場所も関係ない。「決意」だけが問題である。
「決意」というのは、肉体の奥からあふれてくる自然な感情である。勢いのある感情のことである。
「チェシャ猫まぁなんて貴方は/救いようの無い馬鹿なの」という2行は、猫に対する批判ではなく、「アタシ」は馬鹿にはならないわ、という「決意」、あふれる感情なのである。
ここにはあふれる感情があるだけで、「意味」もない。
──ということを書きはじめると、あ、なんだか、この詩を壊してしまうなあ。余分なことは書くまい。
血血返り血アリス
ドレスを染めて何処へ行くの
血血返り血アリス
足跡辿って着いてくうさぎ
血血返り血アリス
笑顔が可愛い気分屋少女
血血返り血アリス
アリスはきっと辿りつく
回る ラララ 彼女は
スキップしながら探してる
回る回る回る
ホントの自分を探してる
血血返り血アリス
垂れ目が可愛い我が儘少女
血血返り血アリス
誰よりも幸せの意味を知る
血血返り血アリス
探し物が見つからないの
血血返り血アリス
アリスはきっと辿り着く
石井を動かしているのは、あふれてくる感情だけである。 あふれてくることばだけである。あふれてくるから、それを前へ前へと放り投げる。 「血血返り血アリス」ということばを放り投げる。
「血血返り血アリス」ということばがどんな「意味」をもっているか、石井にはわからない。ただ、そのイメージが見える。 実感できる。 そしてことばになっている。 だから、そのことばにぴったりする次のことばを探している。 きっと、それは「真実」のことばとぶつかったとき、きれいな音を立てて、「これが真実だよ」と教えてくれるはずである。 そういう「音」に出会うまで、石井と「血血返り血アリス」を前へ前へと放り投げて進む。
「旅」とは、ぴったりくることばを探して動くことなのだ。「真実」とはぴったりくることばなのだ。 いまのところ石井には「血血返り血アリス」ということばだけが「真実」なのである。
だから何度でも、その唯一信じられる「真実」を前の方に放り出して、そのことばについていく。 そうすると、次のことばが「アタシ」の進んだ道のわきから追いかけてくる。そして、その追いかけてくることばのなかにある何かが、また、「血血返り血アリス」ということばを前へ前へと放り投げるときの力になる。
回る回る ラララ 彼女は
深い森の中で探してる
回る回る ラララ 彼女は
やっと見つけた
地面に小さな人影
その首にナイフを突き刺すと
アリスは驚いた
何千人何万人もの人を殺めて
やっと見つけた探し物
それは
──血まみれドレスを着た
アリス──
でもいいの。アリスはずっと求めてた。
本当の姿がどうであっても
アリスにとっては 最高の終わり方。
最後の方は、ことばが失速する(「血血返り血アリス」がまるで、父帰り、その父をナイフで刺してみたら、自分自身を刺してしまった、そこには血まみれの自分の「人形」があった──という「オチ」を想像させる)が、「でもいいの。」と石井は書く。確かにどうでもいいのだ。「求めていた」ということだけが、ことばにとって必要なことだからである。
*
ことばを前へ放り投げて、それを追いかけて進む──ということばの運動は、藤川みちる「this world」にも共通する。
生かすも殺すも
自由自在な神様は
その時居眠りでも
してしまったんだろう
筆先から
滲んだink が
紙の上に
小さな染みを作った
それはきっと
accident
けれどきっと
destiny
ちいさなbug は
増幅し繁殖しながら
新しい秩序を
生み出していく
僕らのstory
可能性はinfinyty
ならばこの手で
変えてしまおう
this world!
何度か出てくる英語がとてもおもしろい。
そこに書かれている英語は、藤川にとっては石井の 「血血返り血アリス」 である。 「知っているけれど知らないことば」である。 「音」があって、それから 「意味」 をこめる。たとえばaccidentに「事故」、destiny に「運命」。「意味」をこめながら、しかし、同時に「意味」を剥奪する。藤川がそれまで知っていた「事故」や「運命」とは違った何かを、その「音」のなかに探す。その「音」が別の「音」とぶつかって、新しい音を引き出し、そこから探している「意味」があらわれるといいのになあ──と、ここにないものを探しながらことばが動く。
ことばを自分の前に放り投げる。そして、それを追いかける。あとから「意味」が生まれるかもしれない。生まれないかもしれない。「でもいいの。」動いていくことが詩の唯一の目的であり、存在理由なのだから。
【引用終わり】 |
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こんにちは。秋亜綺羅です。
日本の詩壇の最前線にいる谷内修三がブログに、季刊「ココア共和国」に掲載されている秋亜綺羅の詩を評しています。
きょうはそれをすこし紹介したいのです。
というのは、プロの詩人といわれる専門家が、詩と言語にこんなにも激烈に対峙して批評するものなのだ。そして批評とは作者を評価するのが目的じゃない。刃物より鋭いことばで対象を解剖し分析する。それは、自分自身の作品の次の一行のための闘いでもある。ということを感じ取ってほしいな、と思ったのでした。
というのも、ブログで詩を書いているひとはたくさんいます。
詩、なんて楽しいと思えばそれでいいじゃない。
詩、なんて行を換えて日記を書けばいいんだよ。
詩、なんて落書き帳でしょ。
そう。ぜんぶ、そのとおりなんです。
だけれど、わたしがお邪魔してきたたくさんのブログの詩人のなかには、もっといい詩を書きたい。とか、詩が書けなくて悩んでいる。とか、どうすればプロの詩人になれるだろう。とか、と思いはじめているひとも少なくないようです。
コーヒーだって、おいしきゃいいんだけれど、ほんとうのコーヒーを知ってしまうと、世界で一番のコーヒーを探してさまようことになる。…というわけでしょうか。
そんな、詩の世界に半分踏み込もうとしている方たちに、ちょっと読んでもらいたいなと思ったのです。
以下は、引用(部分)です。
詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)
秋亜綺羅「ドリーム・オン」
「シッポがないのでシッポを切る」。これは現実には不可能である。「ない」ものは「切れない」。けれど、ことばでなら、想像力でなら「切る」ことができる。
「シッポがないのでシッポを切る」は、正確(?)には、あるいは「流通言語」的には、
あなたにはシッポがないので、想像でシッポがあると仮定して、それからその想像のシッポを切る。そうすると、「いま」のあなたそのものになる。
ということかもしれない。(まったく違うかもしれない。)
そして、そう考えたとき、では「シッポ」のあった「あなた」とは何? そのシッポであなたは何をしただろう。何ができただろう。いや、あなたではなく「シッポ」そのものも、あなたを超えて何かができたかもしれない。 そんなことが、ふと、思い浮かぶ。 秋亜綺羅は、そういうことは、くだくだと書いていないのだが、私はそういうことを感じてしまう。思い浮かべてしまう。つまり、「誤読」してしまう。 秋亜綺羅「あやつり人形」
完璧な暗闇で目をつむると
水溶性の映画がやってくる
世界でいちばん明るい場所がそこにある
「完璧な暗闇で目をつむる」。なんのために? ふつう、目をつむると何も見えない。暗闇となんのかわりもない。それでも目をつむる。なんのために? 「見る」という行為を自ら放棄して、「現実」を見ないためである。完璧な暗闇では、目を開けていたら「見えない」という状態があるのであって、それは「見る」の否定形「見ない」ではない。
「見る」「見えない」「見ない」。その「見えない」と「見ない」とはまったく違ったことなのである。「見えない」は受動的な態度である。けれど「見ない」は能動的な態度である。 秋亜綺羅のことばは、何かを受け入れる形で動くのではなく、自分の意思で動いていくのである。「いま」を受け入れるのではなく、「いま」を拒絶していくのである。そのために、ことばを動かす。それは別なことばでいえば「いま」を逃走する、ということかもしれない。逃走するためには、どうしたってスピードと軽さが必要である。秋亜綺羅のことばが軽いのは必然なのだ。 秋亜綺羅「四匹の黒犬が黙る」
秋亜綺羅のことばは「書きことば」だから、どんどん飛躍する。暴走する。そこには漢字だけではなく、カタカナもまぎれこむ。
ただし、自分の手相を忘れて相手の手相しか視なくなったタロちゃんと
いう名まえの友だちは、オナニストでしかない。ぼくの初恋のすずめち
ゃんチロちゃんは舌を切られて死んだ。きみには、自白する自由があ
る。千口ちゃん。
ここには何が書かれているか。「意味」は何も書かれていない。ただ、「書きことば」は「文字」をかりながら、「文字」があることによってはじめて可能な運動をすることができるという、その可能性だけが書かれている。 その可能性を書いているだけなのである。そして、その可能性を明るみに出すことだけが、詩の仕事なのである。 「意味」なんていらない。ことばは、「意味」を捨てて、動いていける。「意味」という「書物」を捨てて、「意味」という「故郷」をすてて、「意味」と「故郷」が持たなかったものをつかみ取りながら、むさぼり食いながら、ことばの「街」を肉体化する──それが秋亜綺羅が寺山修司から引き継いだものだ。 以上、引用終わり。
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こんにちは。亡命中の秋亜綺羅です。 |





