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最近忙しくて記事を書くヒマもないので、ストックしてあった記事をアップしてお茶を濁してみる。 これでストック記事もなくなっちゃったけどね… そーいえば、今は武将ドロップが破格の高値になってますね。 これを機会に武将自体にも興味を持っていただきたいと思うんですけど… 彼は元々近江瀬田に所領を持つ土豪。 義輝様の流浪時代には匿ったこともあったようです。 義輝様暗殺後も、逃れてきた義昭様一行を一時的に匿いました。 その後、織田家の侵攻に伴って降伏し、織田家の武将として転戦します。 彼にまつわるエピソードで最も有名なのは、本能寺の変直後の唐橋落としでしょう。 彼の領地:瀬田は京の玄関口的な場所であり、瀬田川(淀川)が流れる交通の要所。 ここに信長が「瀬田の唐橋」と呼ばれる大きな橋をかけていました。(厳密にはその前から橋自体はあったんですが、大人数が通れる大きな橋にしたのは信長と言われてます) 本能寺の変直後、光秀は安土に向かい、近畿よりも中部の平定を真っ先に考えていたようです。 しかし、この通り道であった瀬田の唐橋を変報を聞いた景隆に落とされ、これにより数日の足止めを余儀なくされるのです。 結果、秀吉が畿内に戻ってきたので中部平定を断念し、山崎の合戦に向かうのです。 景隆は橋を落とした後山中に隠れますが、山崎の合戦の後に秀吉につきます。 しかしその後、謀反を疑われて失脚。 失意のうちに亡くなったそうです。 攻略ですが、後陣の僧武将ってのはエゲツナイですなぁ… 天部光輪が何より嫌。 天部+遁極や全体術で、無傷でも一気に壊滅的被害が出ます。 しかも、紫電一閃やら僧兵連撃・改やらとゆー極悪な単体技もあるという噂。 痛いです。 安全なのは孔雀か減殺で術ダメージを減らす方法ですが、密教も術忍も徒党にいなければやはり回復を多めに撃つしかないですね。 前述の2特化がいなければ回復2枚は必須かと思われます。 とにかく回復早め&詠唱放置絶対禁止で! 百地丹波(ももちたんば)とも呼ばれる。 伊賀上忍家を代表する存在で、石川五右衛門や服部(霧隠)才蔵の師匠とも伝わる人です。 実際的には雑賀孫市と同じように、近隣土豪連合の議長格だったと考えるのが妥当な線かなぁ、と。 ちなみに信長onlineの世界を大体1560年前後とすると、当時の百地丹波はかなり高齢だそうで、同時期に活躍した凄腕忍者:百地三太夫とは別人になるそうな。 三太夫にせよ丹波にせよ両方とも世襲の名前みたいですから、「雑賀孫市」が何人もいるように、「百地三太夫」ってのは実際は3人くらいいるのかもしれません。 現代人の感覚からすればちょっと不思議ですけど、市川一門やら林家一門が何代も同じ名前を襲名するあたりと並べるとちょっと似てるかな? ともかくそんな百地一族。 2度に亘る天正伊賀の乱で大活躍したそうですが、最後の最後まで抗戦して死んだとも、最終的には降伏して根来衆に加わったとも、信長や家康に仕えたとも、とにかくいろんな説が伝わっています。 私は結局、どれも全部本当なんじゃないかな、と思います。 結果的に伊賀忍軍はこうやってそれぞれバラバラの道を歩むことになったのは事実なんですから。 雑賀衆の中では孫市に並ぶ歴戦の勇者と言えば、文句無くこの的場源四郎でしょう。 岡吉正や津田監物なんかも渋いっちゃあ渋いが、やっぱりスター性では見劣りしますから。 鉄砲の腕は雑賀衆の中でもピカ一で、石山合戦や信長の雑賀進行での活躍も筆頭クラス。 その上にかなりの伊達男だったらしい。 それこそ孫市と混同されることも多いようで、いわゆる孫市のイメージ「滅法強い伊達男で女好きな自由人」ってのは、どっちかと言うと的場の方に似合う気すらします。 そしてその最後も伝説的。 秀吉の雑賀攻めの折、源四郎は小城を守り羽柴秀長・中村一氏らの率いる圧倒的な大軍を僅かな手勢で食い止めるのです。 しかしこのまま抗戦しても勝ち目が無いと見た源四郎は、最後まで降伏を潔しとはしなかったが徹底抗戦する愚を覚り、重囲を破って行方を眩ませたとか、勝ったまま降伏勧告を容れたとか伝わっています。 どちらにしてもその進退は、彼の人柄を偲ばせるハードボイルドな雰囲気があるでしょう? ちなみに彼を主人公にした小説もありますよ。 「戦国を駆ける」(神坂次郎:中公文庫)なんかは読みやすかったので、興味があれば是非。 芝辻妙西(みょうさい)とも言う。 太閤立志伝に出てくる芝辻仙斎(せんさい)とも多分同じ人だけど確認できず。 日本に鉄砲が伝わったのは1543年、種子島でのことでした。 その種子島で日本製の鉄砲が作られたのが1545年。 鉄砲製造の技術というのは当時の日本には全く無かった種類の技術だったそうで、特にネジや火薬調合の技術をに大変苦労したそうです。 そのような当時最先端の技術を紀州根来寺に持ち帰ったのが津田監物(つだけんもつ)こと根来杉之坊算長(ねごろすぎのぼうかずなが)。 彼はこの鉄砲を堺で鍛治を学んだ芝辻清右衛門に複製を命じ、なんとその年の内に清右衛門は紀州で鉄砲を作ってしまいます。 そしてこれが、「根来衆」とその周辺土豪連合である「雑賀衆」が鉄砲集団として発展する原因になったんです。 ちなみに石山合戦(天王寺合戦)は1575年。 この時に雑賀衆は鉄砲によって散々に信長を悩ませたのです。 こうやって見ると、鉄砲が日本で作られてわずか30年で、根来衆・雑賀衆は急速に鉄砲を量産し、技術を磨いて行ったことがよく分かりますね。 彼の屋敷は立派な屋敷だったみたいで、よく能の鑑賞会なんかが開かれていたそうな。 そして庭には「藤戸石」という有名な大石があったそうです。 この石を、二条城を作る時に将軍:義昭に献上したんですが、この石の移設は一大イベントになるほどの大工事だったらしい。 その後二条城は壊されますが、聚楽第を築城する時に再び移設、さらに聚楽第を取り壊す時には三度運び出され、秀吉が設計したと言われる醍醐三宝院の庭に置かれました。 つまりそれだけ大きい石として有名だったので、運ばせることで権力を誇示できたんでしょうね。 今でも入場料を払って庭園に入れば見れますが、確かに大きな石でした。 で、いろいろ調べるんですが、藤賢個人のことはよく分からない。 奉公衆として義晴以降の将軍に仕えていたことと、松永久秀の勢力が拡大してくると松永家の勢力下に入ったこと、信長に一度は背くが許されたことなどから、文化人としてだけでなく武将としても評価されていたらしいことはなんとなく窺い知れるんです。 それに本能寺の後までは生きてたみたいだから、どうやらかなり長生きしたみたい。 このあたりから考えると、恐らくは他の旧幕臣同様に藤孝の家臣に吸収されたと思うんですが… 淡路水軍の頭領である安宅家に養子入りした三好長慶の弟。 とにかくこの長慶の兄弟は優秀な武将ぞろいでして。 長兄:長慶は「畿内の覇者」と言われる英雄ですし、次兄:三好義賢は阿波・讃岐を治めた政治に長けた武将、末弟:十河一存は江戸時代の武士にマネされるくらいの伝説の猛将なんですから。 三男:安宅冬康も、他の兄弟と比べても遜色ない名将とされます。 三好家の本領である讃岐・阿波と、主戦場であった摂津・和泉・河内との間には海がありますよね。 ここを冬康率いる淡路水軍が完全に掌握していたのです。 近畿には紀伊水軍も大きな勢力を持っていたんですが、この紀伊水軍の力を押さえ込んでいたからこそ、畿内で三好家が勢力を拡大できたんですね。 合戦でもこの水軍を率い、幾多の戦功を上げています。 また、冬康は「一舟軒」と号し、歌人・書道家としても高名で、茶道にも通じていたらしいです。 それに、彼は穏やかで優しい性格だったと伝わってます。 ってことは今風に言えば、「スポーツ万能で知識も豊富、その上人当たりの良いセレブ」ってことですか? さぞモテたんでしょうなぁ… そんな冬康ですが、最期はなんとも無残なものでした。
義賢・一存・義興と、有能で将来を嘱望されていた弟や子に相次いで先立たれた長慶は、重度の鬱病にかかってしまったようです。 そんな中、勢力を拡大したのが松永久秀。 久秀は長慶を傀儡として、主家を凌ぐ力を蓄えました。 そして最後の仕上げとして冬康の謀反をでっち上げ、正気を失っていた長慶を唆して冬康をだまし討ちしてしまいます。 長慶の誘いに応じて来た冬康を、場内の武者溜りに閉じ込め、四方から弓を射掛けて従者もろとも皆殺しにしたとか… これによって長慶は最後の気持ちの支えを失ったのか、この数ヶ月に後を追うように病死してしまったのです。 |
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