バセンジ里多ちゃんの糖尿闘病記

11歳、カリフォルニアから引っ越したばかりの女の子の糖尿病日記

読書(英語)

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英語で読んだ本の防忘録
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まさに走りながら(あるいは夫が運転する横で)聞いていたのだが、日本語で読むよりも豊かな体験になったようだ。日本語で読んでしまえば早く読めるからまさに短距離の勢いで読み終えてしまっただろう。

村上春樹の半生のたゆまぬ努力の結果としての達成を書いたものだ。

小説家には才能が必要だ。しかし、いつもの村上春樹の作品の裏にある努力とtenacity(粘り)がそれよりもここに感じられる。

村上春樹のエッセーを英語で聞くというのは初めての試みだったが、実に声とぴったりだった。村上春樹は実際の村上春樹よりちょっとハンサムな白人となって耳に響いた。

それは心の奥で実は無国籍な作者自身の顔かもしれない。

Never Let Me Go (2005)

Never Let Me Go by Kazuo Ishiguro

この本は出た直後に読んだのだが、先日友人で俳人のFayさんと、小説家のM.S. Allenとで話をしていた時に出てきたので、書いてみることにした。

カズオ・イシグロの小説は何より文章が平易でありながら美しく、ナレーターが時系列で記憶をたどるというパターンを取るものが多いので、読みやすい原書から入りたい日本の読者にはとても適していると思う。

Never Let Me Goの場合、クローンで生まれた子供たちの孤児院という設定から、これは純文学なのかSFなのかという戸惑いのようなものが常につきまとう。その上、クローンだったのだという情報さえ、半分以上を過ぎたところ(この版では166ページ、)でようやく出てくる。カズオ・イシグロが比較的長い休みの後にクローンの子供を題材にして何か書いているらしいという噂は早くからあったが、その背景情報を知らなければ(一体何が起こっているのか)という不安感のようなものを抱きながら読み進まなければならない。

「Never Let Me Go」というタイトルは架空のジャズシンガーの歌の題名から来る。長い間子供を欲していた女性がようやく自分の赤ん坊を手にし「私を離さないで」と歌う。(コンテキストから言うと「私を離れないで」だがletが入るところに視線のひねりがある。)
望んでいた赤ん坊が生まれたと思ったら今度はそれを失う恐れを抱くことになるという、この歌詞の中の女性の悲哀と、生まれた時からすでに臓器ドーナである、つまり、犠牲者であるHailshamの生徒、Kathy、Ruth 、Tommyの悲哀があまり結びつかないことに多少違和感があった。

全編、胸の痛くなるような哀愁と忠誠(イシグロのよく取るテーマである)の痛みがある。失ったものを取り戻せる場所である筈のNorfolkで、ナレーターのKathyが静かに涙を流す最後のシーンが特に美しい。

The Writing of Fiction (1924)

The Age of Innocenceで有名な、ニューヨーク出身の女性作家Edith Whartonによる、小説書きの指南。

19世紀の作家が主に好例(時には失敗例)として挙げられているので、20世紀文学が専攻だった自分には、ちょっちわかりませんでした。


出版社は無論のこと、読み手など気にするな。

成功を決めるのは主題より人物が活きているかだ。

主題と人物とか同様に強力な例として『緋文字』と『テス』があげられる。

登場人物全員に同等の配慮をするな、光らせるものだけ光らせろ。不必要な人物は切る。

自分が書こうとしている対象自体がじっくりと熟成していくのを待て。温室で早く育てようとするな。

読者が読み始めてすぐに、これは信頼できると、安心できる運びをしろ。


などなど・・勉強になりました。

オコナー3編

Flannery O’Connorの3つの短編

日本語訳どの程度出ているかな〜とどきどきして探しましたら、きちんと出してくださっている米文学者がおられました。敬服であります。
『フラナリー・オコナー全短篇』(上下)横山貞子訳, 筑摩書房, 2003年
訳の横山貞子氏は私が尊敬する、ちょっと風変わりな?一匹オオカミ的哲学者鶴見俊輔氏(大江健三郎氏の友達)の奥様でした。

Everything That Rises Must Converge (1965)
A Good Man Is Hard to Find (1952)
The Life You Save May Be Your Own (1953)

いずれも高校もしくは大学の国語授業で良く使われる教材のひとつ。

Everything That Rises Must Converge (1965)
あらすじ
作家志望でありながら、タイプライターのセールスなどをしているジュリアンは、医師の勧めで減量のためにYMCAに通うことになった母親を、毎週水曜日にYMCAに送り届ける。成功など望めないと、冷めた目で人生を見ているジュリアンにとっては、過去の豊かな生活にいつまでもすがって、今住んでいる環境にいる周囲の人間よりも、自分が上だと思っている母親がイライラしてならない。
舞台は主に、人種隔離政策がまだ色濃い南部(オコナーのほとんどの作品の舞台)の町のバスの中である。ジュリアンは、バスの中でも、息子が作家になるだろうというようなつまらない虚栄を、他人に張っている母親の前で心のドームを張る。バスを降りる時母親はバスの中で見かけた小さな黒人の女の子に真新しいニッケル銅貨をあげようとするが、黒人の母親に殴られ路上に倒れる。その後、立ち上がった母親は正気を失っているのだった・・・。

A Good Man Is Hard to Find (1952) Wise Blood(賢い血)にならび、最も高く評価されたオコナーの作品。
あらすじ
祖母の反対にも関わらず、ウェスレー家はフロリダに休暇に向かうことにする。祖母が心配したのは、脱獄した極悪犯ミスフィット(不適応者の意味)が向かっているがフロリダだからである。車中、たわいないおしゃべり(主に話しているのはおばあちゃんで、息子はこの本の中ほとんどしゃべらない。)やゲームなどを繰り広げる、祖母、息子と嫁、男の子と女の子の孫の家族の様子は善人で互いに愛し合う姿をよく表している。
途中、一家はバーベキューサンドイッチを出すタワーという場所に立ち寄り、店のオーナーから若い男二人にタダでガソリンを入れてやった話を聞く。おばあちゃんは「それはあなたが良い人だからよ、最近は難しいわね、良い人を見つけるのは。」とコメントする。
その後一家は、おばあちゃんの記憶違いから脇道へとを外れ、その結果、横転事故を起こす。何とか車からはい出した一家が助けを求めて止めた車は、まさにおばあちゃんが恐れていたミスフィットの一味だったのだ。

ミスフィットは「あなたは良い人よね、良い人でしょう。」「イエス様にお祈りをなさい。」と説くおばあちゃんをよそに、息子、嫁、幼い子を次々と殺し、最後におばあちゃんも撃つ。最後のおばあちゃんとミスフィットの長い会話が圧巻な作品。

The Life You Save May Be Your Own (1953)

題名はテネシー州道路の交通安全標識から取ったもの。
「今救おうとしているその命―それはあなたのものかもしれません」というほどの意味か。

年老いた女性、ミセス・クレーターと、知恵の遅れたろうあ者の娘ルシネルの前にある日、放浪者のシフトレット氏が現れる。彼の誠実な様子に魅かれたミセス・クレーターは、娘を彼と結婚させる。女の持っていた古びた車を修理し、母親から金をもらった、シフトレット氏は新婚旅行に向かうが、途中ドライブインで、寝込んだルシネルを「ヒッチハイカーだよ」と置き捨てる。

その後T「he Life You Save May Be Your Own」という標識を目にしながら運転するうち、前よりもどんどんと心が暗くなり、ヒッチハイカーでもない少年を拾う。その少年を前に、シフトレットはいかに自分の母親が天使(an angel of Gawd―ドライブインでルシネルのことをそういった少年の言葉そのまま―)のようであったかという思い出話を諄々と語る。少年は「俺のトシよりなんぞはノミ袋だった。お前の母ちゃんなんか臭いイタチだ!」と叫んで車を去る。

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フラナリー・オコナーを読んだのは実は初めて。
敬虔なカトリックで、神と人間をよく書いていますが、こんな怖い作家だったとは知らなんだ。

全編不気味な緊張感と真実味が漂っております。


A Good Man Is Hard to Find の中で唯一名前を持たない「おばあちゃん」は私にはキリストのように思えます。最後におばあちゃんが「Maybe He didn't raise the dead.」とつぶやきますが、これは「どうして私をお見捨てになったのですか?(これはしかし最後に神を讃える詩篇の出だしですが)」というキリストの最後の言葉と通じるような気がします。

上にも書きましたがミスフィットとおばあちゃんとの会話が圧巻です。

The Order of Things

The Order of Things by Michel Foucault (1966)

原語フランス語からの日本語訳は「言葉と物」という題で新潮社から出ています。

マルチン・ハイデッガーの「存在と時間」と並び、20世紀西洋哲学界で最も重要かつ難解な書物とされています。

その重要性のひとつは、近代哲学の中心である実存主義、現象学、マルクス主義のいずれからも全く自由な独自の、philology(歴史比較言語学)を展開することで、西洋における知識の秩序をひもとこうとしているところにあります。

本の構成としては、「生きている存在者の知識、言語の法則の知識、経済という事実に関する知識」に分かれています。

最初にベラスケスが描いた「侍女たち」(このリンクでも解釈の一つが紹介されています。)を、16世紀の知識世界を表す一種の比喩(換喩?)として引き、詳細に分解しています。つまるところ、この絵の秩序(自律性)は、鏡の中の姿で表わされている絵の外の王の存在により保たれている(それは全く完璧な秩序ではない)というのです。つまり、王が不在でありながら秩序が保たれている・・・そのような、隠された神の言葉(それには必ずマークがあります)を見つけようという行為が16世紀の知識世界だというのです。

ここまでは先ず分かりやすい説明でしょう。何故ならフーコーが分析したこういった古典主義時代では、このようにどこかに意味があることが前提となっているからです。

分析がこの後、不在でありながら秩序の中心である神から人間へ移行していくと、私のようなバリバリ有神論者には、論議が難しくなってきます。17世紀〜19世紀に中心的に行われた知的作業(文法解析、話し言葉、派生的哲学、経済等)を様々な角度から解析しながら、現代の人間科学への移行を見て行きます。

ひとつ経済学観点からの解析で面白いと思ったのは、労働力を対価として提供し、また、別の価値の物と交換するという資本主義制度の解析のところでの、以下のような文です。

At every moment of history, humanity is henceforth laboring under the threat of death. (256)

これは死を前提とする人の原初的な姿であり、それに対抗して「永遠の命」を打ち出しているキリスト教観とは異なります。(その観を完全に殺してしまったのがニーチェ後の知識世界ですが)。

これからこの点を「まったく無知なやつですね」と思われることを恐れることなく、考えていければ面白いと自分的には考えています。

ところで・・・

なぜポスト構造主義の哲学が浅田彰の「構造と力」を始めとしてこうも難解か、というと、意味というものを疑問視してかかって書いていている内容に、旧来通りの意味を求める作業をあてはめるているからだと思います。

知的な遊びの展開だもんね〜、意味ないよ〜、でも頭のいい人が書いているから、きっと何かあるんだろうな〜と思いながら、わからないことを当然と思って読み進めていくのがいいような気がします。

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