バセンジ里多ちゃんの糖尿闘病記

11歳、カリフォルニアから引っ越したばかりの女の子の糖尿病日記

読書(日本語)

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柳美里さんの作品は奥の方から自分の汚いものが引き出されるというか、引き出さなくてはいけないんではないかという気にさせられるので、非常にしんどくなります。汚いものをどれだけ認識しているのかというリトマス紙のような存在であります。

柳さんはとても正直な人です。とことんまで嘘がつけない…。人間である以上、ある程度嘘がつけないと生きていくのは難しくなります。それができない。それと誰よりも強い自意識、そして、愛するやり方のわからない人間に囲まれて育った履歴…。きっと長く一緒にいるとすごくしんどくなる方なのではないかと推測します。

それでも柳作品に立ち返るのは、やり方のわからないままに実直に自分を見つけようとするその真摯な姿勢の中に、読む者が自分を見つけられるかもしれない、とっかかりのような何かがあるからではないでしょうか。

私にとってそのとっかかりは、次のような文章でした。

       喪失はある日突然に訪れる。ひとは何度でも死ぬけれど、
       だからといって何度も生き返るとは限らない。(106)

これは小学校の卒業式の前日に、母親に二度目の家出をされた時の思いです。

「愛するとは決して捨てないことだ」と言ったのは遠藤周作です。柳さんの半生の記を見ていると愛し方のわからないおろおろとした様子がよくわかりますが、その逆に愛さないやり方のモデルは、くっきり明確です。それは捨てるという行為なのです。(これをさらに突っ込んで「殺した」のが「ゴールドラッシュ」です。)

もうひとつ、この文章を読んだ時に思い返したことがあります。それはキリスト教を「つまるところは再生の信仰だ」と分析したスラヴォイ・ジジェクの文章です。

万引、友達を引きこんだサボリ、学校での大量の精神安定剤摂取などで、終に共立に退学処分されるまでの間、このミッションスクールの教師たちはそれなりに真剣にこの問題児の指導を話し合っていた様子です。教師の一人が新約聖書の「迷える子羊」を引いてまさにその「迷える子羊」である生徒を教えないでどうする、と問いかけるのです。

結局はそれでも「腐った林檎がひとつあると他の林檎まで腐り始める」と退学になるわけですが、(こう述べた、状況を的確に読んでいた当時の共立の校長は、一方で「あなたには他に必ずぴったりする世界がある」と的確な預言もしています)退学の処分を聞いた日、柳さんは新約聖書のマタイ18章をひもときます。

    ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。

この本は、自分は自分の力だけでは再生も愛することもでき得ないことを思い出させてくれた一冊でした。

悪人

吉田修一「悪人」(2007年)朝日新聞社


終章のクライマックスに至って「本当の悪人は誰なのか、何かのか」という問いかけが鮮明に出てくるようになる。それに伴い内容も俄かに濃いものを帯びるようになる。

悪人とは実は法律上は無実で、実際に殺してもいない増尾であり、房枝のような弱者を食い物にする健康食品会社の男たちであり、娘を失った父親に残酷なFaxを送りつけてくる見えない相手なのだ。

「あの人は悪人やったんですよね?」という実に人間的な哀愁にあふれた問いかけをしているその対象である祐一は、恋人の光代を庇うべく殺意を装い、自分を捨てた母親が「十分罰を受けた」と思えるよう、「敢えて」金をせびって「やる」ような人間だ。

出会い系で出会った出会った相手から金をせびる佳乃は、霊の姿になって父親に謝罪する。

何もない人生ゆえに、一時的に好きになった相手の自首を思いとどまらせ、一緒に逃げる光代は、自分が脅して逃亡の道連れにしたという祐一の証言で、世間的には堂々たる「善」に回れる。

このように善悪がきっぱりと決めにくい人間を描きながら、私にとって明らかに善だった唯一の人間は、孫、祐一の行いに心を痛め、弱者だった人生を思い知らされる房枝に「ばあさんは悪かわけじゃなか、しっかりせんといかんよ。」と声をかけるバスの運転手だ。

彼が完全な「善」たり得ているのは単にこの小説の中でほとんど「不在」だからだ。

一番好きだったシーンの一つは、光代が祐一と逃げながら何もなかった去年の正月を思い浮かべるところだ。自分には欲しい本もCDもない、行きたいところも、会いたい人もいない・・・。

また、重厚なのは、自己犠牲ということをきちんと知りながら不幸な展開で殺人に至る祐一の「でもどっちも被害者になれんたい」(413)という言葉である。

読み始めた時は、ルポルタージュのような展開からカポーティの「冷血」を思い出したが、あっちの方はどういう「善悪」の分け方をしていたっけ?忘れてしまった。


この小説は友人のFayさんが面白いと言っていたので、読んだのだが、なんと地元のベルモント市立図書館にちゃんとあった。日本語の本が車で5分の図書館にあることを10年間も知らなかったなんて・・・。
もう日本に引っ越しちゃう直前に・・・。(泣)
「個人的な体験」と「ヒロシマノート」

大江健三郎の小説は、同氏のあまりにも大切なノンフィクション「ヒロシマノート」を読むと見えてくるものが多くなる。

例えば、ヒロシマを忘れて世界を語ることがウソであるのと同様に、脳障害を負った我が子の存在を白紙にして自分を持つことはできない、というようなことが見えてくる。

妻はおれたち夫婦の、まさに死ぬために生れてきた赤んぼうのことを、とても美しい赤んぼうとして思いえがくだろうし、おれもまたしだいに、自分の記憶をそのように修正してゆくのかもしれない。それがおれの生涯の最大の欺瞞だろう。(208)

もしかするとアメリカと日本との今の関係が最大の欺瞞の上に行われている過去の記憶の修正なのかもしれない。

大江健三郎作品のすべてが、非常に深い内的な世界を内的語彙で描いている。村上春樹作品では、主人公を井戸に座らせる実際行為でそれが行われ、その内省の結果について特に登場人物は難解なことを言わない。言うとしたら「水を飲んで歩く」か「生きたままポキポキと骨を折られる鳥を食わない」というようなことだ。

それに対し、「個人的な体験」の火見子は、例えば、生まれたばかりの、奇形とばかり信じていた我が子が死にゆくのを願う主人公と、罪深い(ちなみに大江作品において、この語彙と意識はあんまりない)性行為を行う。その後、エイモス・チュチュオーラの「幽鬼の森における我が生活」の話(お腹の子が悪鬼の子に入れ替わる話)をしたりなどちょっと無神経な上に「いったん自己欺瞞の毒におかされたものは、そんなに簡単に身の処し方をきめることはできないわ、バード」と最悪の予言をする。

この小説の英訳「A Personal Matter」を手がけたJohn Nathanが講演で大江健三郎ほど、文学者の誰もが知りながら読まれていない小説は珍しいというようなことを言っていたが、大江作品は片手間では読めないし、時間もかかる。難解ということもあるが、非常にdisturbing、自らの嫌な部分を深層でえぐられる不快をとことんまで味あわなくてはならない。

だが、この嫌な部分をえぐる内省が、ヒロシマをどう負えるかのカギなのだと思う。
ヒロシマ的な心とは、外的内的世界の狂気という真実に、ギリギリまで立ち向かいながら(それはガードレールぎりぎりに運転を続けるという行為だけれど)なお、綱のこちら側で足場を確かにするという勇気をもって初めて得られるような気がする。

博士の愛した数式

数学天才少年の小説を読んだので、流れとしてまだ読んでいなかったこの小説に移った。

「博士の愛した数式」by 小川洋子 (2005)


複数の本を比較しながら読むと色々なものが見えてくるが、今回は一転して無神論者の観点から有神論者の視点に移ったという感じ。また「夜中に犬に起こった奇妙な事件」では、数学が、少年の現実対処方法の内面的道具として使われているのに対し、「博士の愛した数学」では、数学が博士とナレーターの家政婦、その息子ルートとの間の絆の深まりを作っている。
Eπi+1=0のこの数式に至ったこの作品は、もしかすると神と人間との関係を数式化した「非存在を存在させた(218p)」偉大な小説かもしれない。(dr_ykys_aidaさんによると、Eπi+1=0はEulerの方式なんですね。何のことやら、ですが。)

そういう数学の真理を内に秘めながら、「ジャーナルオブ」に一度証明を投稿すると博士はもはや無関心なのだ。

いずれにしても、一度終結させた証明については驚くほど淡泊だ。
(236)

小川さんが次々と素晴らしい小説を新しく出されているのもこの辺の潔さにカギがあるのかもしれない。

小川さんの本当の幸せって、豚肉のソテーと生野菜のサラダ、卵焼きを見ながら「フェルマーの最終定理を証明したにも匹敵する偉業を成し遂げたかのような」満足に浸る時かもしれない。(そういう心を課しておられるのだろう。)

それと:こんなにも大勢の人を幸せにするスポーツっていいよね。

アフターダーク

「アフターダーク」(2004年) 村上春樹

日本滞在中に読み、母も読みたいというので実家に置いてきた。
村上春樹って初めて読んだ時から、こちらの日常生活にまで深い影響を与えてきた作家なのだけれど、どうしてなのかわからない。例えば「ノルウェーの森」を読んでいたのは不治の病にあった父の看病をしていたちょうどその最中で、大いに助けられた。この大いに助けられた、というのは、ただ単によく書かれたプロットに没頭できたということではなく、厳しい現実を静かにそしてgraceful(優雅に)受け入れるやり方がどこかにあることを知った、そんな感じだろうか。こういった点に貢献する村上作品の根幹というのは、「ゆっくり水を飲んでたくさん歩くんだ」というタカハシに対して「違うでしょ、ゆっくり歩いてたくさん水を飲むんでしょ」(記憶に頼っているので間違っているかも)と訂正する浅井マリとのやりとりあたりに表れているかもしれない。その後この二人が同意するとおり、歩くことと水を飲むことの順番と度合いはどっちでもいいのだが、この言葉は人生を真摯に生きていく大切なコツなのである。それはきちんと芝を刈る行為にも共通する。
今回の登場人物で最も心に残っているのが主人公の浅井マリ。英語で端的に言えば no bullshit(ごまかしが効かない)女の子だ。表面的な友好などハナから求めない、大切な自分の世界をきちんと守る、遭遇する人物や出来事の中でホンモノだけを追い求める女の子だ。今回村上作品から受けた影響はここにある。こういう要素を自分は持ちたい。No bullshit。

話は変わるけれど村上春樹氏がちょうどプリンストンで教えておられた時に、夫の私的作業の関係で西脇順三郎研究者の平田ホセア先生を訪ねたことがあった。先生の住まいはちょうど村上春樹の向かい側で「彼は人と付き合うのが嫌いで付き合いは奥さんを通して」という意味のことを言っていた。その奥さんが村上作品の多くの人物のモデルになっていると私は勝手に考えており、薄ら笑いを浮かべて近づこうと思ってもギロリと睨み返すようなこの浅井マリは、村上春樹と奥さんの両方を兼ね合わせているのかな、と勝手に考えた。

いずれにしても、浅井マリ性を自分の中にとどめておこうとの意識的作業をところどころで行っているという意味において、村上作品はまた、自分の生活の一部となったのだった。

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