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コニーの発言を聞いて私は心の中で(コニーはダメだな)と思ってしまった。それとも彼女は、自分のパートナーを確か何度かHeと呼んでいたはずのスティーブに、取り入りたいと思う、何か魅力を感じているのだろうか。派手なサイクリング用の水色のシャツの下で、かっちりと固く平らなスティーブの下腹部を意識しながら私は考える。耳には、コガネ虫の大きさの黒いワイヤレス受信機が今日もついている。彼が携帯でテキストメッセージを打っているのは見たことがない。いつも遠くを見てどこかぼんやりしているか、他の客と静かに話をしていると思いきや、電話が入れば耳のボタンを長い指でサッと押し、空気を硬化させて「ハロー、ベイエリアクリエー」と答えるのだった。 バギーがホームレスなら風コンサルどころか何にだって有能なわけがない。だから 「なんだホームレスか」 とすぐに答えたウェインさんが普通なのだ。それでもスティーブがバギーを持ち出したぐらいだから、ウェインさんは誰かがどういうところに住んでいようが、あるいは全く住んでなかろうが、大して気にもしていないことは、みんなわかっているのだった。ウェインさんは実は風にさえもうあんまり困っていないのかもしれない。 風に半分奪われながらコーヒーを作っているウェインさんは確かに気の毒なので、コーヒーの味に加えて同情票が一割がた入っているかもしれないという読みを否定できる人はいないだろう。中には風をさえぎるようにしてわざわざ立ってあげる客もいた。でもウェインさんが特にそれをありがたがる風でもないので、やがてみんなもっと自分にとって居心地の良い定位置に勝手に立つようになった。 顔なじみの客が増える中、風が強くなると普段無愛想な顔つきをいっそう険しくしながらコーヒーを入れているウェインさんの前で、今日も半分は消えていくコーヒーを前に、できるだけそれを考えないようにするような雰囲気が徐々に定着していった。と言うのは、「コスト」や「効率」ましてや「歩留まり」などという言葉を出そうものなら、ウェインさんがたちまち不機嫌になるからだった。「もったいない」ならまだいい。 それに、大方はウェインさんを襲う風のことなど考えていなかった。忙しい朝に、できるだけ早くおいしいコーヒーを手に入れる、大勢の考えているのはそれのみだった。 「風除けを作ろうと思ったことはないの」という私の疑問は、多分発音のせいだろう、いつもの通り、ウェインさんの耳から頭には届かなかった。(テントは張るのに時間がかかるので、イヤらしいぜ、とういう囁きは前に聞いていた。)
「誰か衝立を持って来て立てたのを見たことがあったけど」 その説明が私の疑問に答えてのものなのだと気付いてから振り向くと、リズが腕を組んで立っている。リップグロスは今日は靴に合わせたオレンジだった。リズはマリン地区の良いトコのお嬢さんをそのまま象徴するかのような雰囲気を最初からたたえていた。履いているランニングシューズもその色にマッチしたジャケットやリップグロスもいつも真新しい。そんな遠い世界に住んでいる筈のリズの存在は、彼女がある日、目の下に青い痣を作って列に立った朝から私に近くなった。その日だけはシューズのグリーンのアクセントとピンクのジャケットの色が合っていなかった。 |
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風コンサルであるバギーの出現を待っていたのは、ウェインさんを除いて、私、スティーブ、のりちゃん、リズ、コニーだった。 風で困っているウェインさんにバギーのことを紹介したのはスティーブだ。スティーブは配達屋で、サンフランシスコを毎日自転車で疾走している。坂ばかりの街で坂を避けられるルートを知り尽くしているぐらいだから、風の道を知っている人を見つけ出すのも彼なら容易だった。 バギーはもちろん本当の名前ではない。ほこりですっかり灰色になったスーパーのプラスチックバッグをたくさん持って町をうろうろしているから、バギーというそうだ。 「なんだホームレスか」 ウェインさんはフォートメイソンに吹く強い風が日差しとなって目を射たかのように顔をしかめた。 「家があるかないかわからない」スティーブは明るい顔で説明した。 「日が沈むと姿が見えなくなるから、家があるかもしれない」そうつけ足す。 「何?ちゃんと住んでいるところがあれば、風コンサルとして有能だと思うわけ?」とコニーが言う。ウェインさんに今作ってもらったばかりの(そしてやっぱり半分減ってしまっている)コーヒーを飲んでいる。その口もとでは濃く厚く湯気が立っている。今朝のサンフランシスコは特に寒いんだ、私はぼんやりと思う。コニーは指先だけが出ている見慣れないグレーの毛糸の手袋をしている。カリフォルニアに住んでいても手袋を持っているンだな、とやっぱりぼんやりと思う。そしてコニーが以前はデトロイトに住んでいたことを誰かに話していたのを思い出した。 強い疾風が吹くフォートメイソンで、ウェインさんがコーヒーの屋台を開くようになってもう一年ぐらいになるだろうか。朝のジョギングの時、その一角に人が並ぶようになったのを視線の端で感じてはいたが、意識に定着させるまで数週間あった。終にそちらを見やるとコーヒーを買うために人が並んでいるのだということがすぐにわかったものだ。その場を離れる人の手に一様に、生まれたばかりの赤ん坊のように湯気の立つカップがあったからだ。 一角はファーマーズマーケットに属しているのだけれど、そこだけが人の流れが違っている。まるでそれこそ風がそこに溜まるかのように…。ウェインさんが注文を聞いてから、コーヒー豆を挽き、やかんから一つ一つのフィルタに熱湯を注いでコーヒーを作っているからだった。 車の中で新聞を広げたり、携帯画面に見入ったりして待つ人もいるので、風の溜まりを象徴して、色とりどりの車が溜まっている。 ウェインさんがコーヒーにこぽこぽと熱湯を注いでいる間、容赦ないいじめのように風がそれを掃う。おかげで、最初真白だったウェインさんのエプロンは今では生成色になっていた。(洗わなくてもいいのに几帳面なウェインさんは毎日それを洗っているらしかった。)
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家にたどり着くと、サンタは自分だけの小さな通用門の前で振り向いてまたひとつ「ニャア」と鳴いた。「やっぱり自分だけでは帰れなかったよ」と言ったのだろうと、セヴァグは考えた。 セヴァグの母親は、子のいない家にいるよりも、傍らの方が安心するらしく、日に6時間という時間を決めて、植物となったセヴァグの体の横に座っていた。セヴァグが小児麻痺の疑いで入院した時に忠実に果たした、1週間の病院通いと同じことをすれば、子がまた無事の診断を下されるだろう。そういう無意識の希望に母はすがっているのだった。父親はそれを見るにしのびず、もっぱら、治安を軽視してきた市政府に対する訴訟のみに、哀しみのはけ口を求めていた。 朝、病院を訪れると、先ず、母親は電子レンジで熱い蒸しタオルを作り、セヴァグの顔と手足を拭いた。 「さぁ、きれいになった。」 つぶやくと、新しい靴下をバッグから出し、足に丁寧につけてやる。 「うす茶は好きじゃないかな。病院のほら、このパジャマが白だから、余計おかしいね。でも、昨日買物に行ったらね、たまたま安売りをしていたの。」 母親はつぶやいて、昨日行ったスーパーに、他に売っていたものを並べ立てる。 「サイクリング用の手袋も売っていたよ。なんであの日は朝、小雨だったんだろうね。それさえなければ、図書館だってバスでなくて自転車で行ったのにね。」 日がなそうして話しかけ、このまま夏に入れば、床ずれ防止の機械も入れてもらおうなどとさえ、考えているのだった。 だがその夕、表の扉を開け、長い尾でくるりと前足を巻くような姿勢で、サンタが床に座っているのを見た瞬間、冷たい理解が母の上に降りた。 神は猫を身代わりに送ったのだ。そのことを思った。 ―あの子はもう帰らない。 母親は認識した。 サンタ、サンタ・・・そう繰り返して歓喜の涙を流す画像は目の前に展開されなかった。代わりに母は、細い腰を負って、まるで尊い石を撫でるように、ゆっくりとサンタの頭を撫で、そのまま腕に滑り込んできた毛の塊を腕に抱き上げると、居間の鏡に見入った。セヴァグの心には、そうやって猫を抱いている自分の姿に見入る母の脳裏に、子が幼稚園に初めて登校した日、卒園式、初めてのサマーキャンプ、中学の卒業式などの映像が次々と写っているのが感じられた。そのようにして、息子が旅立つ度に、母は自分も旅立ったのだ。次に、母の脳裏には、実現しなかった、息子のぼんやりとした未来の図が浮かび上がった。それは模糊として輪郭を持たなかった。
涙を流さなくなった母の代わりに、姿のないセヴァグは一人涙した。赤い色を伴うものだった。それは彼が始めて流した血の涙であった。涙の奥で彼は、取り返した猫を、大王がそのように使うことが、あらかじめ決められていたのだ、と悟った。確かに大王の技は、ただ喜びのために猫を使おうと思っていたセヴァグよりも、厳しいものを伴っていた。 |
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その家には年老いた夫婦が二人で住んでいた。サンタを取り戻すために、セヴァグが家に体をすべり入らせた午後、二人は不在だった。家に老夫婦が住んでいるということも、夫の方が歴史博物館のボランティアをしており、妻の方が、勤めていた会社の倒産で、退職金がなきものとなり、関節炎になりかけている節々をごまかしつつ近所の大型ショッピングセンターで働いていることも、足を踏み入れた瞬間に、セヴァグの理解に根付いたのである。それは、不思議な体験だったが、それよりも不思議だったのは、そのような、まるで浮く雲の中にふっと入るような認識の形を、彼自身が素直に受け入れていることだった。その受け入れ方は、七年前に、骨と皮ばかりに痩せた自分を、イヤなメンソールの匂いがするバンソーコーを腕に貼った学童児がそっと抱き上げ、車に引き入れた時、「この人の家で住むのだろう」と何とはなしに受け入れたサンタの納得と似ていたかもしれない。
ネコはバックスキンのカバーがかかった古いソファに丸くなっていた。近づくと耳がまずぴっと立ち、すぐにこちらを振り向いた。 「家に帰ろう。」形を失ったセヴァグは、形のないままに自分のネコに話しかけた。 話しかけるまでの短い間、ネコに与えられている、小さな魚の形の、色とりどりのキャットフードやたっぷりと新鮮な水、週に一度のミルク、カーペットの上の温かい陽だまりなどの映像が、夫の方が好きらしい、バロック音楽とともにセヴァグの頭をよぎった。ネコはまずまずの扱いを受けているらしかったが、振り向いた獣の、アーモンド色の瞳は、老夫婦への愛着よりも、戸惑いが勝っていた。 サンタはまるで昨日の動きの連続であるかのように、ゆっくりと立ち上がると、口端を上げながらうんと伸びをした。そして、軽い音を立てて木の床に降り、セヴァグの、形のない向こうずねの辺りに額をすりつけた。彼が玄関に向かおうとすると、階段を下りてゆっくりとした足取りで裏口に導いた。裏の扉のネコの通り口の前に座るとニャアと弱々しく鳴いた。 「あなた以外に待つ人はいなかったし」 ネコが言ったかに思えた。 魂に近くなって、サンタ以外にも心の通じる獣ができただろうか、とセヴァグは考えた。それを試すことには、どこか目的とは違う道に歩き始めるような面倒を感じたので、ただ、そう思っただけのことだ。 ママの悲しみをどうにかしたい― セヴァグはそれだけを考えていた。ネコを取りにその家に入ったのもそういう思いからなのだった。セヴァグの脳裏には、サンタ!と叫んでネコに頬ずりをする、母親の像だけが何度も何度もよぎった。 そこから家への半時ほどの道のりも、セヴァグにとっては始めてのものなのだった。辺りの動きはまるでスローモーションのように時の流れの速度が変わっており、病院に横たわる肉体の最期が近いことを彼は感じた。自分は違う時の区分に入ろうとしているのだ、と考えた。それと同時に、例えば今、目の前をよぎった、今日の夕べの宿題の打ち合わせをして別れる女子高校生への、昨日まで抱いていた羨望も跡形もなくなっていることに気づいた。比べる対象のある世界・・・それが消えつつあることを、彼は感じた。自分の思いと事実だけが絶対な世界に、自分は足を踏み入れようとしているのだった。 凪ぐ風に冷たさはなかった。春の大気はどんよりとどこか物憂げで、夏の気配はまだ遠い。散ったばかりの桜の、最後の幾片かがゆっくりと乾いたアスファルトに降りていった。来年にはまた花が咲こう、そして散るだろう、とセヴァグは考えた。そのようにこれからの自分の浮遊は続くだろう。そして、桜の運命と同様に、それがいつまで続くかもわからないのだった。 固い芽を今日も少し長じさせたあじさいの吐息、庭でレモネードを作りながらままごとに興じる男の子と女の子、その母親の疲れ。車を洗う男の、次の職探しへの憂い。道の向こうをゆっくりと歩く老婆の、意外に晴れやかな表情・・・。ページを繰るように次々と、しかし、ゆっくりと展開されていく世界の中を、魚のように青みを帯びた灰色の毛を持った猫とセヴァグはともに歩いていった。 |
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セヴァグ・マキャスケルは死んでから初めて自分のブログを開設した。死ぬ以前、生きている時も開設はできたのだが、いわゆるホームページなどと言われた時代には、いろいろとソフトウェアを学習せねばならず、それだけの時間を惜しいと思っていたので手をつけずにいたところ、突然生命を奪われた。亡くなったのは、図書館からの帰り、バスを降りた後、自宅のすぐ手前で銃に撃たれたためである。
しかしPCのことはもともとあまり念頭になかったのである。セヴァグは生前その強い自意識が認めたがった以上の能力を決して備えてはいなかったけれど、平均以上の知性をもっていたのと、多少傲慢であったことから、教師に嫌気がさして高校を中退し、パラリーガルの試験を受けた。学習もPCで画面を見るよりも、こつこつと本を手にとってするタイプであった。 「unproductive perfectionist(非生産的な完璧主義)」と弁護士の一人が称した通り、徹底した彼の仕事ぶりが逆に災いしたこともあった。社会で生きる以上「適当」が大いに尊ばれることを頭ではわかっていたけれど、彼の頑迷さはそれを実行には移すことを許さなかった。 だが弁護士などを見るうちに、これならば自分でもできたな、と高校を中退したことを悔やみ始めた。撃たれてから心停止が決定されるまでの数週間、ぽっかりと目を開いたままの昏睡状態で病院のベッドに横たわるセヴァグの映像と、治安回復を求める市長への市民の訴えが交互に移され、「高卒試験を受け、ロースクールに通い、法律家を目指していた、未来ある青年」という、フレーズが何度も繰り返された。メディアによる彼の描写はそのまま当たってはいたのである。 しかし、その彼岸前の日々、彼の精神は大いに変わった。何よりも母の悲嘆が彼の心を動かした。小学校まで頃は足の悪い母のために重いものを持ったりもしてやったものだが、世間が描き出すティーネージャーの有り様と父の無粋とに、影響されていた彼は、中学高校のその数年は、母に優しい言葉の一つもかけてやったことがなかったのだ。 彼の家庭はノルウェーの熱心なルーテル教会の信者で、彼も幼児洗礼を受けてはいたけれど、神の存在を明確に意識したことはなかった。求めたこともなかった。昏睡中、どうもそういった大いなる何かにつながっているらしい(それを彼は含羞をもって「カボチャ大王」と称し、なんの顰蹙も買わなかった)形とも言えない形のような何かが、ひっそりと近寄って、向こう側に行くかこちらに残るかを尋ねているのがわかる日々があった。 「選べるんですか?」 こちらに残りたい人間は、そんな質問自体、しもしない。ただ、残りたいと思うのだ、と形のない形が答えた。そんなものだろうと彼は思った。 ただ気がかりなのは母であった。 「どんな形であったって、話すことができなくったって、生きていて欲しい。」そうさめざめと母は泣いていた。自身は子供を持たない母の妹は、黙ってその話を聞いていたが、裏では「植物人間になってしまった息子のもとに通うのと、お墓に通うのと、どちらがお姉さんにとっては、多少でも楽かしら」。と夫に語りかけていた。 「墓なら金がかからんだろう。何日いても。」髪を梳く妻には目を当てず、クロスワードパズルをしながら、ベッドの中の亭主が答えた。その答えをセヴァグも妻も、ただ冷たいとは言い切れなかった。セヴァグは、母を不幸にするのは、無論、金のことよりも当てのない将来だろうと考えた。 「回復の見込みはあるんですか?」 形があるともないとも言えない形に向かって彼は尋ねた。 「わからんな。」それは答えた。 「つまり、大王様にも聞いてはもらえないと?」 「わかるか?そのお気持ちがあれば、君のバスをひとつ遅らせて、襲撃者と出会わせないぐらいのことはおできになったのだ。」 「どうやって?」 「たとえば、サンタを送り込むとか、だな。」 サンタは襲撃の1週間前に行方不明になったネコだった。もともと母親の猫だったが、若いセヴァグの方が体温が高いからだろうか、寝るときは彼のベッドに寝たがった。そのため猫とは一種の絆があった。バスに乗り込もうとして、もしもサンタにそっくりの猫を見かけたとしたならば、その後を追っただろうか。あの日は家に帰って何をするつもりだったのか・・・。試験勉強が忙しかったから、捕まえられるともわからない、猫の後を追っただろうか。それもわからない、ことだと彼は考えたが、形があるようなないような形のせいで、サンタの行方がわかったのは幸いだった。サンタは、確かに乗り込んだバス停の前の家で飼われていたのである。 |



