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〘 日韓友好の「大嘘」の裏側 〙 先日、とあるサイトを覗いていた処、「日本の教科書の捏造は酷すぎニダ!!」という題で、※ある韓国の現役高校生の苦悩 という一文が載っていた。「私は高等学校 3年生です。今日の国史時間にワンスングフィ(元崇喜) 国史先生が教えてくれたのがあります。西紀 100年頃に韓半島南部で渡ったシブセックフィ(十色嬉)という馬韓人がウェヨルドで進出して倭国を建国して反アナ(搬娥裸)を耕作して食糧問題を解決したと言います。 その後日帝時代まで倭国は韓国の属国だったとおっしゃいました。韓国が中国の侵略を阻んでくれたし、倭国に平和を与えたと説明したが, 今日歴史掲示板に来て見たらその言葉が事実なのかよく分からないです。誰でもちょっと詳しく説明してくださいお願い致します。修学能力試験があまり残ってなかったです。」 「媚韓」⇒「笑韓」⇒「拾いもの」 この文が本物か否かはともかく、一読されて皆さんはどんな印象をもたれたであろうか。 さまざまな解釈があると思うが、少なくとも、史実の支離滅裂さには違和感をもたれたのではないかと思う。 南朝鮮は、ご存じのとおり、日本が「侵略国家」であり、「犯罪国家」だと主張し続けている。 そして、その主張の多くは、公の史料の発見や公表によって「歪曲」であり「捏造」であることが明らかになっているが、日本政府は客観的正誤を検証することもなく、既に36回も「謝罪」している。 しかし、事態は一向に好転しないばかりか、その都度、南朝鮮の態度はますますエスカレートしてきているのである。 この原因の一つは、一つ一つの「相手方の主張」についてのきちんとした検証と反論をしていない日本政府にある。 いい加減な「主張」は受け入れないという基本的スタンスを示していない為、「証拠も何もない証言」というものがいつまでも止まない。 終いには「証拠など必要ない」という暴論を南朝鮮の新聞が堂々と掲載するまでになってしまっている。 もう一つは、当然のことながら、南朝鮮にある幾つかの要因に依るものである。 個人的には、いわゆる朝鮮左翼の妄動のウェイトが大きいと思っている。 通常の日本人の感覚では理解困難なこの事態の裏側で、朝鮮左翼が一定の理論的意図を持って妄動していることは、拙ブログの「賠償要求の背後理論」でお伝えした通りである。 現在の日本がそうであるように、南朝鮮でもカルト左翼の妄動は目に余るものがある。 日本と異なるのは、政府がそれに加担し、「ねつ造妄動」で民族感情を煽りたて、「反日」を国是とする「反日全体主義国家」になってしまっていることであろう。 南朝鮮は、日本人が連想するいわゆる自由主義国家ではないのである。 さて、能天気は自分で調べもせず、気分と思いこみで南朝鮮との「友好」が可能であり、それが一番と思っている。 その原因の一つは、左翼反日の大政翼賛状態になっているマスゴミが、南朝鮮を如何にも「良い国」であるかのように誇大に報道し、それに乗せられているせいもあるが、日本人自体の「外交音痴」体質もその大きな要因であろう。 「外人は良い人」妄想は、戦後、日本人に蔓延した大きな誤解である。 日本人が相手であれば警戒することも、相手が外人であるとなると、「勝手に善人と思い込んだ不用心」になってしまう。 自民党の歴代の「謝罪」首相にどんな思惑や事情があったのか、今となれば解明不可能であるが、本来ならば最も懐疑的でなくてはならない「国益の守護者」が「謝罪」を繰り返したことによって、国民には有形無形にその意識が刷り込まれ、そして、日本の「外交国益」は大きく損なわれてきた。 ただし、今回の「管談話」の場合はこれまでとは異なっている。 恐らく、報道にあった両国の事前の打ち合わせの時点で、南朝鮮が「不十分」と不平の声を上げることまでシナリオ化されていたのであろう。 少し考えれば、「談話」で本来の目標を直截に発表すれば日本人から大きな反発が予想される為、「発表」の時点では一定の線に留めておき、南朝鮮大使館が文言を「改変」「誤訳」して南朝鮮に伝えるという、「南朝鮮政府による日本からの経済援助の隠蔽」と同じ手法をとったことは容易にうかがい知れるのである。 無論、南朝鮮報道が「不十分」の声を上げることもその段取りに入っていたのであって、要は「日本国首相の談話」とは、南朝鮮が限りなく日本を譲歩させ続ける為の「道具」でしかないということである。 何故そうなのか、その所以の一つは「賠償要求の背後理論」に記した通りであるが、それでも、多くの能天気は、相手側の国情も調べぬまま、「友好」などと何とかの一つ覚えに拘るであろうと思う。 本当に「友好」が可能であるのかどうかもまた調べていないが故のことである。 繰り返しになるが、「一般常識として、友好関係を為そうとするならば、相手方の理解は必要不可欠」なのである。 そこで、検討の一助として、南朝鮮の「国定・中学歴史教科書」がどんなものか、その断片をお伝えしようと思う。 日本と異なって「国定」であるので、そこに記されていることは「南朝鮮国家の公の見解」である。 そして、考えて頂きたいのは、日本でも「日教組」による「児童の人格破壊教育」が社会の大きな弊害になっている様に、「幼い時に教育で刷り込まれた内容は簡単には改まらない」という事実である。 つまり、「南朝鮮人」は「国定歴史教科書」に記されていることを前提として「日本と南朝鮮」の関係を考えているのであり、それを理解せずに「友好」などと期待する方が迂闊なのであるから、日本人は「現実に基づいた客観的判断」の為にもご覧になって頂きたいと思う。 なお、断片とはいえ、到底一回ではお伝え出来ないので数回に分けて記載するが、歴史である以上は時系列に沿って挙げるべき処、浅学により順不同となる場合もあり、前もってお断りしておく。 『韓国国定中学歴史教科書』 − 事実との対比 − <初めに> 「私たちの歴史はわが民族が歩いてきた足跡の歴史的事実であり、その記録である。(中略) 従って歴史の記述は、過去が暗いからとかくしたり、ないことをあると誇張してはいけない。歴史の記述は、かたよることなく厳格でなければならない。」 この一文を、皆さんはよく覚えておいていただきたい。 第一章・第二章の三国時代、高麗時代の日韓関係については後に回し、まず、日本人にもある程度知られている李朝期の内容を紹介する。 第三章 <李朝前期> 第一節 朝鮮建国 「新王朝は国号を朝鮮と定めた。”朝鮮”は、すなわち古朝鮮の伝統を受け継ぐという意味で、檀君に民族の独自性を求めるという意味が含まれている。だから朝鮮という国号には、悠久の伝統文化と民族意識が反映されており、民族史に対する主体的自覚が含まれていた。」 朴永圭『朝鮮王朝実録』によれば、事実はこうである。 「この様に”朝鮮”と”和寧”という二つの国名が決まると、李成桂は1392年11月、芸文館学士、韓尚質を再び明に派遣し、朝鮮と和寧の二つの中から一つを国号として採択することを請うた。(中略)翌93年2月に彼は”朝鮮”という国号を決めて貰い、戻ってきた。」 これについて、「国際派日本人養成講座」では以下のように指摘している。 4.国号を決めてもらうのが「親善関係」? 韓国側は教科書でも朝鮮が中国に対して服属国であったことを絶対に認めない。まず李氏朝鮮の成立にあたって、 「新王朝は、国号を朝鮮と定めた。「朝鮮」は、すなわち古朝鮮の伝統を受け継ぐという意味で、壇君(JOG注:朝鮮の開国神話で、天命によって降臨した、古朝鮮の開祖)に民族の独自性を求めるという意味が含まれている。」 と述べるが、国号を朝鮮自身で定めたというのは、歴史事実ではない。「朝鮮王朝実録」によれば、太祖・李成桂は使いを明に送って、国号として「朝鮮」と「和寧」という二つのうちのどちらかを採択することを請い、「朝鮮」を選んでもらった。 中国皇帝が地方の諸侯に封禄・爵位を授ける事を「册封」と言うが、転じて、周辺諸国の君主に官号・爵位などを与えて、擬似的な君臣関係を結ぶシステムを「册封体制」(または華夷秩序、中華秩序)と呼ぶ。朝鮮王も、中国皇帝の柵封を受けて、初めて朝鮮の国王として認められた。だから、国号でさえ自分では決められないのである。 「朝鮮王朝は、外は明と親善関係を維持して国家の安定をはかり、女真や日本に対しては交隣政策をとって国際的な平和を維持した。」 国号まで決めて貰う宗主国との関係を対等であるかのような「親善関係」と記述するのは、相当に無理がある。 「明との外交は朝鮮側がより積極的であった。朝鮮は朝貢を通じて明の名分を立ててやり、使臣の往来を通して経済的・文化的実利を得た。しかし後にはいきすぎた親明政策に流れる傾向があらわれた。」 宗主国に対して定期的に貢ぎ物を送る「朝貢」も、柵封体制の特徴の一つである。これを「明の名分を立ててやり」とは、中国が読んだら、怒って修正要求を出すのではないか? 第二節 朝鮮出兵(壬辰倭乱) 「国内統一に成功した豊臣秀吉は、部下の将軍たちの関心を海外に向けることで国内の不平勢力をなだめ、あわせて自身の大陸に対する侵略的野心を遂げようと我が国を侵略した。これが壬辰倭乱である。(1592)」 ここに使用されている「侵略」という表現は、「元寇」の項での高麗の日本への一方的侵略を「日本征伐」「日本遠征」と書いていることからして、不均衡な意図をうかがわせる。 ちなみに記載はこうなっている。 「元は日本を征伐するために軍艦の建造、兵糧の供給、兵士の動員を高麗に強要した。こうして二次にわたる高麗・元連合軍の日本遠征が断行されたが、全て失敗した。元は日本征伐のため、高麗に征東行省という役所を置いた。」 高麗は元に強要されて、仕方なく日本に「遠征」したかの様な書き方であるが、下條正男氏の『日韓・歴史克服への道』における「高麗史」によれば、元寇の発端は高麗の忠烈王が元の太祖にしきりに働きかけ、執拗に東征を勧めたからなのである。 しかも高麗軍は「壱岐」「対馬」において、男の住民は悉く殺害し、女は手に穴をあけて数珠繋ぎの捕虜にし(一説には船の帆げたから吊り下げたともいう)、二百人の男女児童を連れ去って忠烈王に献上したのである。 これは「侵略」ではないのか。 「従って歴史の記述は、過去が暗いからと隠したり、ないことをあると誇張してはいけない。歴史の記述は、かたよることなく厳格でなければならない。」が聞いて呆れるのである。 (続く) |
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2010年08月17日
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