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現代文学総論42
42/現代の芥川 或声 しかしお前は安心しろ。お前の読者は絶えないだらう。 僕 それは著作権のなくなつた後だ。 (芥川龍之介/『闇中問答』http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/18_14822.html) * * * たまたま「青空文庫」で読み直していたという私の個人的状況もあって、この問答には思わず噴出さずにはいられなかった。 ちょwwwwwwおま、著作権って、よく解ったな、とひとしきり笑ってみる。 しかし実際この問題は笑い事ではない。芥川もけして未来の「現代」の、つまり我々を笑わせようとして冗談を書いたのではないのだ。 その証拠にこの問答では作者と読者の関係が繰り返し問い直され、結果としてこの台詞が登場するからである。 例えばこんな切実なぼやきもある。 * * * 或声 しかしお前は永久にお前の読者を失つてしまふぞ。 僕 僕は将来に読者を持つてゐる。 或声 将来の読者はパンをくれるか? 僕 現世の読者さへ碌にくれない。僕の最高の原稿料は一枚十円に限つてゐた。 (芥川龍之介/『闇中問答』http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/18_14822.html) * * * …ということで芥川は真剣なのだ。 何がということなので、なのかといえば、ここには思いがけないちょっとした転調がある。 ずっと「或声」に対して「僕」は反対意見を述べるのだが、ここでは120パーセント同意しているのだ。 この文章を読んでいない人々、特に文学には興味も関心もない人々が、この文章を読んだ人からの伝聞で「芥川は生活苦で自殺したんだって?」と発言する事を責められないような気がするのは私だけだろうか。 お金の問題は切実である。 芥川はまた別の作品ではこんなことを述べている。 * * * 私は知己を百代の後に待たうとしてゐるものではない。 公衆の批判は、常に正鵠を失しやすいものである。現在の公衆は元より云ふを待たない。 時々私は廿年の後、或は五十年の後、或は更に百年の後、私の存在さへ知らない時代が来ると云ふ事を想像する。その時私の作品集は、堆い埃に埋もれて、神田あたりの古本屋の棚の隅に、空しく読者を待つてゐる事であらう。いや、事によつたらどこかの図書館に、たつた一冊残つた儘、無残な紙魚の餌となつて、文字さへ読めないやうに破れ果てゝゐるかも知れない。しかし―― 私はしかしと思ふ。 しかし誰かゞ偶然私の作品集を見つけ出して、その中の短い一篇を、或は其一篇の中の何行かを読むと云ふ事がないであらうか。更に虫の好い望みを云へば、その一篇なり何行かなりが、私の知らない未来の読者に、多少にもせよ美しい夢を見せるといふ事がないであらうか。 私は知己を百代の後に待たうとしてゐるものではない。だから私はかう云ふ私の想像が、如何に私の信ずる所と矛盾してゐるかも承知してゐる。 けれども私は猶想像する。落莫たる百代の後に当つて、私の作品集を手にすべき一人の読者のある事を。さうしてその読者の心の前へ、朧げなりとも浮び上る私の蜃気楼のある事を。 (芥川龍之介/『後世』http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/33202_12224.html) * * * これは芥川の文章の中で私がもっとも気になるものである。 芥川は冒頭の「予言」くらいには楽観していたのではないかとも疑うが、それは今の「芥川賞」に支えられた芥川龍之介の知名度を前提にした錯覚で、当時の本人の意識の中では、自分の作品の未来はこの程度に予測されていたのだろうか。 実際多くの同時代の文学者の作品が図書館で埃を被っている。 閉架図書になっていて閲覧の機会が少ないものもあるが、全集に入っていないものは、偶然にしろ何にしろまず、一般の読者の手にとられることはない。 ごく少数の研究家が国会図書館にこもって検索するだけだ。 だからこそ私は芥川の現代性を疑わない。 誤解を恐れずに言えば、この文章を通じて、私は芥川に対して格別慕わしい感情を抱くとともに、「読んでますよ、芥川さん。ぼくはあなたの作品がとてもとても好きです」と話しかけたいような気分になる。そしてそういう人は私だけではないだろう。 だからこそ芥川は今でも読まれ続けるのではないかと思う。 『偉大なるデスリフ』の翻訳者あとがきで村上春樹さんが書いていた言葉を思い出す。 そもそも何かものを書いていて、身内以外の誰かに支持されることは貴重な体験である。誰でもが上手に褒められば悪い気はしないものである。 もっとも芥川はなかなか読者にも厳しい人だったようなので、誰でもいいから読んで褒めてくださいとまでは考えていなかっただろう。一応読者のハードルも高いのだ。 だからこそ、恥ずかしいが「ほら、この私ですよ」と声をかけてみたいような気持ちになるのである。 これは「太宰先生の心が理解できるのは私だけです」とか「尾崎豊は私の為に歌ってくれていたのだと気がつきました」という程度の思い上がりである。自意識過剰、横恋慕、おっちょこちょいのすっとこどっこいである。 平たく言えばファン心理である。だから恥ずかしい。 ただこうも言おうか。どう考えても芥川は自分の傑作を認めてくれる読者を求めている。自分の作品は誰にも理解できないのではないかと不安に思いながら、それでも書く。 ここで芥川が求めている微かな希望こそは、やがて見失うミューズなのではないかな、と私は思う。 だから私はもう完全に手遅れなのだけど、芥川に話しかけたいと思うのだ。 あるいはどうなのだろう。芥川が自分の文章を読むことはないのだが、何とか理屈を越えて、芥川に読んでもらいたいという思いで、今日書き、明日書く人はいないだろうか。 (続く)
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芥川の小説が好きです。
特に「蜃気楼」が。
2013/3/18(月) 午後 5:29 [ ふじまる ]