塵も積もれば山となる。

時間がたつのは早いですね・・・

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今年の正月にBSでノルウェイの森の映画を観ました。これが二度目の視聴になります。そのことでいくつか感じたことがあります。


 まず初めて観たときは、物語だとか脚本というところには全く注意が向かず、「映像」をそのまま眺めていた気がします。だから初めて観た時に感じたのは、背景の自然がきれいだなとか、ワタナベ君と直子は話すときにはずっと歩き続けているな(特に序盤)とかそういうことでした。二度目の視聴を終えて強く感じているのは、この映画は「ワタナベ君と直子の物語なのだ」ということです。

そんなの当然じゃないかと思う人もいると思います。でも僕が初めてノルウェイの森の小説を読んだときには、僕はこの物語は「ワタナベ君と緑の物語」であると思ったのです。その時の僕の感じた印象は、直子は序盤で作品の核の部分からは離れてしまった人物、というものでした。今ではその認識は変わりましたが、少なくとも映画を初めて観たときにはその印象があったと思います。ですが映画を一度、そして二度観てみると、直子こそが物語の真ん中にいるワタナベ君の一番近くに居続けていると感じました。むしろ緑のほうが、おまけであるような気がしたのです。この辺りのことは小説を読み返したり、映画を見直したりしてもっと考えてみたいと思います。

逆に、二度観て変わらなかったところは、この映画がとても悲しい映画だというところです。それはワタナベ君の愛する直子が死んでしまうということももちろんあるのですが、直子の「人間なんて一生18歳と19歳の間を行ったり来たりすべきなのよ」というセリフだったり、ワタナベ君の「季節が巡るごとに僕と死者の距離は離れてゆく。キズキは17歳だし、直子は21歳のままだ。永遠に・・・。」というセリフに表れていると思います。これが残された側の悲しみなのでしょうか。変わることのできない悲しみではなく、変わってしまうことの悲しみ、ずっと同じ場所にいることのできない悲しみが根底にあるように感じました。

これは無常観と似通っているものなのでしょうか。僕は川端の言う「日本古来の悲しみ」に似ているのではとも感じますが、そのことについて述べるためには僕はもっと勉強しなければならないようです。

村上春樹

                            【村上春樹】


  …(むらかみ・はるき)

 作家。

 山羊座のA型。(多分)

 昭和の白鳥、平成の漱石などと呼ばれた不世出の人気作家。

 一言で言えば、「頑固な人」。

 早稲田大学に七年間通い、ヤクルトスワローズの優勝した年に、新宿の紀伊国屋の下にあった万年筆屋さんで万年筆を買い、缶ビールを飲みながら『風の歌を聴け』を書いて群像新人賞を受賞。

 日本文学界を震撼させる。

 『1973年のピンボール』を勝手に全集に収めようとした編集者が後に入水自殺をする。

 おでんを食べる。

 三作目の長編『羊をめぐる冒険』で鼠は死ぬ。

 お寿司を食べる。

 以降一作ごとにその地位を固め、ファンを拡大し、『ノルウェイの森』をベストセラーにする。

 厚揚げを食べる。

 その後、『国境の南、太陽の西』ではやや厳しい批評を受けることになるが、この作品が一番好きというブロガーも珍しくない。

 作品についていちいち書いていたらきりがない。

 吉本隆明はもっとも優れた作家であると評する。

 その通りである。


                ■ □ ■ □ ■





 有意味なものを貶下し、無意味なものに真剣に取り組んで見せること。

 これは『風の歌を聴け』において、アメリカ人もほとんど知らない、また知る必要もない作家デレク・ハートフィールドを大々的に持ち上げて、彼から書くことを学んだといってみせたりするところにもあらわれている。



(『終焉をめぐって』/柄谷行人/福武書店/1990年 /p.83)




               ■ □ ■ □ ■




……村上春樹・川西蘭・島田雅彦らのものを読んでいると、内向の世代・空虚凝視の世代どころか、いまでは〃ライト・タッチの世代〃というべき世代が成立してきているように思うが ……

 (『私の見た昭和の思想と文学の五十年』小田切秀雄/集英社/1988年/下巻P.443/)





               ■ □ ■ □ ■




 これまでの小説を書くための体系みたいなものが、崩れちゃってるわけでしょう。

 それを認識して、手持ちの断片を拾い集めて、なんかつくっていかなきゃならない。

 その断片が、たまたま風俗だった、だから風俗小説というとらえ方をされると、非常に困るんじゃないかな。




(『ウォーク・ドント・ラン』村上春樹/村上龍/1981年/ 講談社/p.19)




              ■ □ ■ □ ■




「これは僕の個人的な意見ですが、あなたのストーリーと日本の伝統的な短編小説のあいだにはある種の共通項があるんじゃないでしょうか?」

「ふうむ。たとえばどんな?」

「たとえばですね、あるひとつの状況があって――これはどちらかといえば個人的なドメスティックな状況なわけですが――そこに変化が起こる。ひっそりとした目立たない変化です」

「うん、そう。ひっそりとした変化だ」

「そして状況も変わる。しかし本質的なレベルでは何も変化しない。そしてストーリーはそこでカット・オフされて終る」

「そう、カット・オフだ。イエス。何も変らない。ザッツ・ライト」

(『夜になると鮭は……』レイモンド・カーヴァー著/村上春樹訳/中公文庫/あとがきの中にあったインタヴュー)




            ■ □ ■ □ ■



「荒廃」ruin,devastation,それらの言葉はまるでまじないみたいに、繰り返し繰り返し、この本に登場してくる。

 ギルモア家の人々はそれを「ゴースト」と呼ぶ。

 遠い過去から、深い暗闇から現れ出て、彼らの襟首をひっつかんで地獄につれていく恐ろしい永遠の死霊。それは逃れることのできない伝承であり、遺産である。

 マイケルが勇気を振り絞ってこの本を書き上げたことによって、果たしてゴーストの追跡からうまく逃げおおせるのかどうか、僕にはもちろんわからない。

 僕にわかるのは、この物語を読んだ多くの読者が、本の最後のページを閉じたあとで、おそらくはそれぞれのゴーストに向かい合うだろうということだけだ。

 多かれ少なかれ、向かい合わざるを得ないだろう。

 もちろん僕も、その「向かい合わざるを得ない」読者の一人であった。



(『心臓を貫かれて』マイケル・ギルモア著/村上春樹訳/文藝春秋

             /1996年/訳者あとがきより)

 

              ■ □ ■ □ ■



この本における戦争とは、あるいはこれはいささか極端な言い方かもしれないけれど、一つの比喩的な装置である。

 それはきわめて効率的に、きわめて狡猾に、人を傷つけ狂わせる装置である。

 それがオブライエンにとってはたまたま戦争であったのだ。




(『(『本当の戦争の話をしよう』ティム・オブライエン著/

               村上春樹訳/文藝春秋/1990年/あとがきより)




                    ■ □ ■ □ ■





僕は小説家として、原則的にはフィクションを翻訳することが自分の仕事だと思っている。

 フィクションという形態が基本的な 洗いなおしを迫られている今の時代に、フィクションの持つ可能性を、いろんなかたちで意欲的に追求していくことが、僕の役目であるし、翻訳についてもそれはおなじだろうと。

 しかし先にも 述べたように、この『心臓を貫かれて』を訳したことによって、僕が一人の人間として学ぶことのできたものは数多くあった。

 予想を超えて数多くあった。

 そしてまた同時に、事実の――少なくともある種の事実の――巨大さと強烈さというものを、一人のフィクション・メイカーとして、身にしみて感じることになった。

                  (『心臓を貫かれて』訳者あとがきより)




                    ■ □ ■ □ ■



 でも僕も今度日本に落ち着いたら、何か自分にできることを身近に探してみようという気にはなっている。

 (『やがて悲しき外国語』/村上春樹/講談社

                 /1994年 /P.62)




【おまけ】


                     オシム語録87


「昨夜のことですが、ふと問題が一番最初のところに戻ったような気がしたんです。

 今更ですけど、小説を書くのは何故だろう、なんて考えていました。

 それは、ふと「三島は小説をコンプレックスの附属物に貶めてやしないか」と思いついたからです。

 商売や、見栄の為なら、小説なんて書かなくてもいいのです。

 書かなくてはいられない、なんてのは一種の病気ですから、そこには分析すべき病因というものがある筈なのです。

 私はそれを仮に今、コンプレックスと呼びましたが、そちらが主であれば、それを治療しないで自殺してしまったのは間違った行動です。

 そこで小説は症状でしかありません。

 でも、そういうロジックの道筋を否定する感情があるのですね。

 また、初期の三島、そして定家に関する文学観には、コンプレックスの附属物とはいい難い何かがある。

 それを今、じっくり読み解いている最中です。

 時間はかかりますが、そうした作業を通じてしか、前に進めないと考えています」


   なんて言うわけないですね。

転載元転載元: 負荷

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課題レポート

あけましておめでとうございます。最近は記事を書くのをさぼって、その代わりに本を読んだり色々なことを考えていました。その考えはまだまとまっていないので、記事にはできませんが、あまり更新しないでおくのも何かもったいないような気がするので、あまり出来は良くありませんが大学のレポート課題でも載せてみます。レポート課題は「授業で扱った作品のどれかひとつについて2000字程度で論じなさい」というものでした。これは村上春樹の『風の歌を聴け』について書いたものです。




 この小説の終盤に、毎年クリスマスイヴ(「僕」の誕生日)に「ハッピー・バースデイ、そしてホワイト・クリスマス」と原稿の一枚目に書かれた小説を、鼠は僕に対して送ってきてくれるという話がある。しかし、これは実はこの『風の歌を聴け』が文学賞に応募された時の題名であったのだ。だが、村上春樹は表紙の一番上に英字でこの題名を残しただけで、小説の題名を『風の歌を聴け』へと変更している。では、村上春樹が応募後に題名を変更してまで伝えたかった、「風(の歌)」とはいったい何を表しているのだろうか。
 発表者の考察には、
『風の歌を聴け』のタイトルの「風の歌」と直接言えそうなものは、ハートフィールドの「火星の井戸」の風だけであり、この風は時の間をさまよう存在である。そして、作品に通底している「あらゆるものは通りすぎる。誰にもそれを捉えることはできない」や「時はあまりにも早く流れる」、「そして二度と戻ってはこなかった」といった時の流れの中で過ぎ去ってしまうものへの思いが反映されたタイトルだともいえるであろう。
と、ある。
 しかし、この小説に出てくる「風(の歌)」はこれだけではない。「僕」の三人目の相手が自殺をしたことを語る場面には、「彼女の死体は新学期が始まるまで誰にも気づかれず、まるまる二週間風に吹かれてぶら下がっていた」とある。また、「風(の歌)」が出てくる別の場面がある。鼠が「僕」に対して、以前奈良に旅行に行った際に見た古墳のことを語る場面である。「俺は黙って古墳を眺め、水面を渡る風に耳を澄ませた。その時に俺が感じた気持ちはね、とても言葉じゃ言えない。いや、気持ちなんてものじゃないね。まるですっぽりと包みこまれちまうような感覚さ。つまりね、蝉や蛙や蜘蛛や風。みんなが一体になって宇宙を流れていくんだ。」
 前者においては、風は自殺した女の子の体を揺らしている。後者において風が吹いているのは、古墳(つまりは墓である)の周りである。この二つの場面から見てみると、つまり風とは暗に「死」を示す単語として用いられているのである。小説の冒頭において小説の期間を具体的な日付を書くことによって示し、作中に何回も曜日を出すことによって日数のトリックを仕掛けたことからも、村上春樹がこの小説をとても計算して書いたことがわかる。その彼がわざわざ、「死」を描く場面において「風」という言葉を使ったことがただの偶然とは言えないのではないだろうか。また、発表者が指摘した場面についても、その後若者は銃で自殺していることから、ここでも「風」と「死」は関連しているといえる。
 また、『風の歌を聴け』全体に関していえるのは,「僕」がじつに多くの死者たちに言及していることである。第一章には、「僕が絶版になったままのハートフィールドの最初の一冊を偶然手に入れたのは股の間にひどい皮膚病を抱えていた中学三年生の夏休みであった。僕にその本をくれた叔父は三年後に腸の癌を患い、体中をずたずたに切り裂かれ、体の入口と出口にプラスチックのパイプを詰め込まれたまま苦しみ抜いて死んだ。」とある。別の叔父は,終戦の2日後に自分が埋めた地雷を踏んで,上海で死んでいる。作中に登場する虚構の作家デレク・ハートフィールドも,「右手にヒットラーの肖像画を抱え、左手に傘をさしたまま」エンパイア・ステート・ビルの屋上から飛び下りて死んだということになっている。また、「僕」は,「暗い心を持つものは暗い夢しか見ない。もっと暗い心は夢さえも見ない」といつも言っていた祖母が七十九歳で亡くなったときに,手を伸ばしてまぶたをそっと閉じてやったときのことを思い出している。第一章だけで何人もの死者に関する言及があるが,『風の歌を聴け』にはまだまだ多くの死者たちが登場する。双子の妹を持つ左手の指が4本しかない女のセリフには、
「お父さんは五年前に脳腫瘍で死んだの。ひどかったわ。丸二年苦しんでね。私たちはそれでお金を使い果たしたのよ。きれいさっぱり何もなし。おまけに家族はクタクタになって空中分解。よくある話よ。そうでしょ?」(第二十章)
と、ある。また、前述のとおり「僕が寝た三番目の女の子」についても亡くなったときのことが描かれている。
 『風の歌を聴け』は一六〇ページの中編小説である。その小説にこれだけ多くの死者について言及がなされているのは一見奇妙である。しかし、前述の日程のトリックが、加藤典洋氏が『村上春樹 イエローページ』で指摘してるように、鼠が死者でありその鼠と会うために別の世界を行き来していることを意味するものであったなら、なおさら題名の「風」が表すものは「死」であるといえるのではないだろうか。そして、「風」が「死」をあらわしているのであれば、この小説の長さにもかかわらず多くの人の死について言及されているのは不思議なことではない。つまり、題名の「風の歌を聴け」は、「(鼠を含む)死者の言葉を聴け」と解釈できるのではないだろうか。

バイト

今とあるバイトをしています。


その内容は「村上春樹の海辺のカフカの書評を書く」というもの。大学内のバイトで、内容に制約はあるものの、1000〜1200字で書いたら5000円がもらえるというものです。


ただ締切が今月末と少し厳しめなのが残念なところなのですが、今内容を思い返しながら書き進めています。小説自体は難解ともいえるストーリー展開だったので、なかなかまとめるのが大変ですけど。


文章書くのは好きなので、なんとかうまくまとめて、採用されるといいなぁと思っています。


新しく本はあんまり読めていません。語学の時間にフォークナーの短編を取り扱ったので、それに関連して、今短編集を読み始めています。読み終わったら、そちらの感想も書こうかなというぐらいです。

関東大会

大学生活始まりました。


今日は囲碁の関東本因坊予選がありました。

11のブロックに分けられ、ブロックで優勝すれば、関東代表として全国大会に進めます。
僕はそんな高いレベルではなくて、ブロックの準決勝で負けてしまいました><

四年間で一度ぐらいは関東代表になってみたいものです。

もう少ししたら本の感想も書きたいけれど、もしかしたらツイッターを始めるかもしれません。

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